洋裁教室から少し拓けた商業施設の脇を通り抜け、再び閑静な住宅街に入っていく。
その先を力なく歩く女性を、二人は慎重に追跡していた。
時に歩幅を調整し、建物の影に身を潜めながら微妙な距離を保っている。
「雅さん。お義母さんは、本気であのティアラを廃棄するつもりなんでしょうか」
「どうだろうね。少なくともさっきの言葉は、その場しのぎの適当な冗談には聞こえなかったけれど」
「お義母さん……」
今もなお危うげに歩みを勧める背中に、胸が潰されそうになる。
花嫁とあんなに楽しそうに過ごしていたのに。
あんなに綺麗なドレスを仕上げていたのに。あんなに素敵なティアラを贈ろうとしていたのに。
想いの強さの分だけ、遺された人々の心を抉っている。
電柱に添えた手を力任せに握っていると、不意に温かな温もりが拳を覆った。
「あまり強く握らないで。痛めちゃうよ」
「っ……すみません。花嫁さんに貸し出す予定の身体を、傷つけたら問題ですよね」
「いやいや違うでしょ。単純に、遥ちゃんに怪我をしてほしくないだけ」
さも当たり前のように答えた雅に、遥はぱちっと目を瞬かせた。
「言ったでしょ。俺が命を懸けても君を守るって。小さな怪我一つ、させるわけにはいかないからね」
「あ、えと」
「もしかして、冗談だと思った?」
「い、いいえ。そんな、冗談だなんて」
慌てて首を横に振る遥に、雅は満足げな笑顔を見せる。
正直なところ、冗談だと思っていた。
そんな言葉を本気で向けてくれる相手がいるはずがない、と。
でも恐らくは、このスタンスは雅が日頃掲げているプロ意識からきているのだろう。
自分の仕事を手伝う被憑依者を、起こりうる危険から守り抜くこと。
今回はたまたま自分がその役割を買って出ただけだ。
少し罪作りな人だな、と心の中で苦笑した。
「あ……、雅さん、あそこ」
先を歩く彼女が足を止めた。
目の前に広がるのは、大きめの車道を挟んで流れる河川敷だった。
道脇には花壇が整備され、少し行った先には幅のある川が流れている。
先ほどと変わらず、生気が抜け落ちてしまったような横顔を物陰からじっと見つめる。
脇に抱えていた紙袋を手にするや否や、彼女の顔が次第に悲しみの色に呑まれていった。
底が見えない海のように、その色は深く、暗くなっていく。
「綾那ちゃん」
ぽつりと告げられた名に、思わず肩が揺れる。
綾那。
亡くなった花嫁の名だ。
「ごめんね。私のつまらない思い付きのせいで……本当に、本当にごめんなさい」
両手で持たれた紙袋に、ぐっと力が籠められる。
紙袋の形がいよいよひしゃげていくのを目の当たりにした瞬間、遥の胸に誰かの声が大きく響いた。
やめて。
お願い、もうやめて。
「おかあさん!!」
気づけば遥は、物陰から飛び出し女性に向かって声を張っていた。
背後では雅が無言でこちらを見つめているのが何となくわかる。
ああ、何をしているんだろう。せっかく尾行してきた苦労が全部水の泡だ。
胸を叩くような胸の鼓動を感じながら、遥は意を決し、女性に近づいていった。
「あら……あなた、さっきもお会いした……?」
「あ、は、はい。その、偶然向かう方向が同じでしてっ」
「そうなの」
苦し紛れの言い訳だったが、女性はさして気に留めていないらしかった。内心ほっとする。
「それでその、今手にしているその、紙袋なんですが」
「……これ?」
「そうです! その、もしも不要でしたら、是非! 私に譲っていただけませんか……!」
直球が過ぎるお願いだった。
しかし、今はもうこれ以外思いつかない。
しばらく呆気にとられていた女性だったが、徐々にまた悲しみが表情を浸していった。
「ありがとう。さっきのやり取りを見て、心配していただいたのね」
「あ、いえ、その」
「でも、ごめんなさい。これは誰にもあげられないの。私の娘を不幸に追いやった、呪いのプレゼントだから」
「あ……っ!」
止めに入る余地もなかった。
次の瞬間、彼女が両手に持っていた紙袋により一層の圧力をかけた。
中からは何かがつぶれ小さくはじけ飛ぶような音が聞こえる。遥ははっと息を呑んだ。
「本当に、情けないわね」
「あ、あの……!」
「捨てるべきなのに。わかっているのに。……捨てられないのよ」
俯いた彼女の瞳から、静かに落ちていく雫を見た。
「こんなものを持っていたって、あの子はもう戻ってこないのにね。一等悲しむべきは私じゃないのに、いつまでもこうしてぐずぐずしてばかりで」
「……お義母さん」
ふと口からこぼれた呼びかけに、彼女の顔がハッとこちらを見上げた。
いまだに濡れている瞳が、ほんのわずかに和らいだ気がした。
「不思議ね。あなたのことが一瞬、あの子のように思えたわ」
そう言うと、彼女は握りしめるように手にしていた紙袋をそっとこちらに差し出した。
「ぐしゃぐしゃになってしまったから、きっと役立たないだろうと思うけれど」
「頂いて、いいんですか?」
「ええ。これも何かのご縁よね。不要なら、あなたの判断で捨ててくれて構わないわ」
戸惑いを抱えつつ、遥は紙袋をそっと受け取る。
わずかに中身を揺らしてみると、小さなパーツが袋の中で転がる音がした。
確かに、中の『プレゼント』はもう原型を留めていないらしい。
でも、それでも構わなかった。
「それじゃあ、私はこれで」
「はい……ありがとうございました」
「こちらこそよお嬢さん。親切にしてくれて、本当にありがとう」
儚げな笑みをたたえた女性を、遥はその背が見えなくなるまで見送った。
胸の中で暴れ回るやるせない感情をどうにか押しとどめ、そっと紙袋を撫でつける。
こちらを見守ってくれていた雅が、足早に駆けてきた。
その顔を目にしてようやく、遥は安堵の息を吐いた。
その先を力なく歩く女性を、二人は慎重に追跡していた。
時に歩幅を調整し、建物の影に身を潜めながら微妙な距離を保っている。
「雅さん。お義母さんは、本気であのティアラを廃棄するつもりなんでしょうか」
「どうだろうね。少なくともさっきの言葉は、その場しのぎの適当な冗談には聞こえなかったけれど」
「お義母さん……」
今もなお危うげに歩みを勧める背中に、胸が潰されそうになる。
花嫁とあんなに楽しそうに過ごしていたのに。
あんなに綺麗なドレスを仕上げていたのに。あんなに素敵なティアラを贈ろうとしていたのに。
想いの強さの分だけ、遺された人々の心を抉っている。
電柱に添えた手を力任せに握っていると、不意に温かな温もりが拳を覆った。
「あまり強く握らないで。痛めちゃうよ」
「っ……すみません。花嫁さんに貸し出す予定の身体を、傷つけたら問題ですよね」
「いやいや違うでしょ。単純に、遥ちゃんに怪我をしてほしくないだけ」
さも当たり前のように答えた雅に、遥はぱちっと目を瞬かせた。
「言ったでしょ。俺が命を懸けても君を守るって。小さな怪我一つ、させるわけにはいかないからね」
「あ、えと」
「もしかして、冗談だと思った?」
「い、いいえ。そんな、冗談だなんて」
慌てて首を横に振る遥に、雅は満足げな笑顔を見せる。
正直なところ、冗談だと思っていた。
そんな言葉を本気で向けてくれる相手がいるはずがない、と。
でも恐らくは、このスタンスは雅が日頃掲げているプロ意識からきているのだろう。
自分の仕事を手伝う被憑依者を、起こりうる危険から守り抜くこと。
今回はたまたま自分がその役割を買って出ただけだ。
少し罪作りな人だな、と心の中で苦笑した。
「あ……、雅さん、あそこ」
先を歩く彼女が足を止めた。
目の前に広がるのは、大きめの車道を挟んで流れる河川敷だった。
道脇には花壇が整備され、少し行った先には幅のある川が流れている。
先ほどと変わらず、生気が抜け落ちてしまったような横顔を物陰からじっと見つめる。
脇に抱えていた紙袋を手にするや否や、彼女の顔が次第に悲しみの色に呑まれていった。
底が見えない海のように、その色は深く、暗くなっていく。
「綾那ちゃん」
ぽつりと告げられた名に、思わず肩が揺れる。
綾那。
亡くなった花嫁の名だ。
「ごめんね。私のつまらない思い付きのせいで……本当に、本当にごめんなさい」
両手で持たれた紙袋に、ぐっと力が籠められる。
紙袋の形がいよいよひしゃげていくのを目の当たりにした瞬間、遥の胸に誰かの声が大きく響いた。
やめて。
お願い、もうやめて。
「おかあさん!!」
気づけば遥は、物陰から飛び出し女性に向かって声を張っていた。
背後では雅が無言でこちらを見つめているのが何となくわかる。
ああ、何をしているんだろう。せっかく尾行してきた苦労が全部水の泡だ。
胸を叩くような胸の鼓動を感じながら、遥は意を決し、女性に近づいていった。
「あら……あなた、さっきもお会いした……?」
「あ、は、はい。その、偶然向かう方向が同じでしてっ」
「そうなの」
苦し紛れの言い訳だったが、女性はさして気に留めていないらしかった。内心ほっとする。
「それでその、今手にしているその、紙袋なんですが」
「……これ?」
「そうです! その、もしも不要でしたら、是非! 私に譲っていただけませんか……!」
直球が過ぎるお願いだった。
しかし、今はもうこれ以外思いつかない。
しばらく呆気にとられていた女性だったが、徐々にまた悲しみが表情を浸していった。
「ありがとう。さっきのやり取りを見て、心配していただいたのね」
「あ、いえ、その」
「でも、ごめんなさい。これは誰にもあげられないの。私の娘を不幸に追いやった、呪いのプレゼントだから」
「あ……っ!」
止めに入る余地もなかった。
次の瞬間、彼女が両手に持っていた紙袋により一層の圧力をかけた。
中からは何かがつぶれ小さくはじけ飛ぶような音が聞こえる。遥ははっと息を呑んだ。
「本当に、情けないわね」
「あ、あの……!」
「捨てるべきなのに。わかっているのに。……捨てられないのよ」
俯いた彼女の瞳から、静かに落ちていく雫を見た。
「こんなものを持っていたって、あの子はもう戻ってこないのにね。一等悲しむべきは私じゃないのに、いつまでもこうしてぐずぐずしてばかりで」
「……お義母さん」
ふと口からこぼれた呼びかけに、彼女の顔がハッとこちらを見上げた。
いまだに濡れている瞳が、ほんのわずかに和らいだ気がした。
「不思議ね。あなたのことが一瞬、あの子のように思えたわ」
そう言うと、彼女は握りしめるように手にしていた紙袋をそっとこちらに差し出した。
「ぐしゃぐしゃになってしまったから、きっと役立たないだろうと思うけれど」
「頂いて、いいんですか?」
「ええ。これも何かのご縁よね。不要なら、あなたの判断で捨ててくれて構わないわ」
戸惑いを抱えつつ、遥は紙袋をそっと受け取る。
わずかに中身を揺らしてみると、小さなパーツが袋の中で転がる音がした。
確かに、中の『プレゼント』はもう原型を留めていないらしい。
でも、それでも構わなかった。
「それじゃあ、私はこれで」
「はい……ありがとうございました」
「こちらこそよお嬢さん。親切にしてくれて、本当にありがとう」
儚げな笑みをたたえた女性を、遥はその背が見えなくなるまで見送った。
胸の中で暴れ回るやるせない感情をどうにか押しとどめ、そっと紙袋を撫でつける。
こちらを見守ってくれていた雅が、足早に駆けてきた。
その顔を目にしてようやく、遥は安堵の息を吐いた。