それから数日後。
通常通り業務を終えた遥は、電車改札口に向かうことなく沿線の道を黙々と歩いていた。
夕焼けが身を潜めた空が、徐々に奥深い紺色に染まっていく。
街灯やビル群の照明が街並みに瞬き始める光景は、どこか新鮮で美しい。
電車に乗って帰っていたときは、最寄り駅までの到着を無心で待っていただけだった。
「たった二駅歩くだけでも、結構息が弾んでくるものだな」
周囲に人が居ないことを確認し、遥はぐぐっと大きくのびをする。
最近の遥は、退社後の道を可能な限り歩いて帰宅していた。
きっかけはやはり、先日引き受けることに決めた劇団拝ミ座の案件だ。
亡き花嫁に身体を貸す。
何とも特殊な内容ではあったが、引き受けたからには役割を全うするため、やる気は十分だった。
しかし、いざ自分は何をするべきか問うと、特に準備は必要ないのだという。
──詳しい前調べは俺たちが進めるから、本番が近づいたら改めて連絡するよ。
あっさり言われたことに、それでも何か自分にできることはと食い下がった結果。
──うーん。それじゃあ君のできる範囲で、本番までの間は花嫁さんらしい過ごしかたをしてみてくれるかな。
──花嫁さんらしい過ごしかた、ですか?
──うん。そうすれば、君の身体を借りる花嫁も喜んでくれると思うから。
その会話からまずぱっと浮かんだのがダイエットだったが、それについては衣装担当の和泉からすかさず鋭い忠告を受けた。
無茶なダイエットをして直前で体型が変えられては困る。
極端なダイエット法には決して手を出すな。
適度な運動と、食事内容を軽く見直す辺りに留めておけと。
そんなわけで、無茶なく適度な運動でもあるウォーキングを日常に取り入れ始めたのだ。
「きっと花嫁さんも、結婚式に向けて色々と準備を進めていたんだろうな」
鞄のポケットに入れたお守り袋に、そっと手を添える。
その中には、先日返そうとした花嫁の指輪が入っていた。
花嫁役をするにあたり、遥の手元に置いておいてほしいという雅の判断からだった。
その方が、亡き花嫁の心境をより近く感じられるだろうからと。
「他に何か、私にできることはないのかな……?」
何か明確に力になれないことがもどかしい。
信号待ちで歩みを止めた瞬間、指先に触れていたお守りがかすかに熱を帯びた気がした。
「え……?」
レンガ敷きの歩道の前方から、数名のスーツ姿の男女とすれ違う。
その中の一人に反応した遥は、逸る胸を感じながらゆっくりと後ろを振り返った。
「藤野さんも今日これからどうですか? 新人の女の子も結構集まるって言ってましたよ」
「はは、悪いけど遠慮しておくよ。俺みたいな年長者が行ったら、新人同士の息抜きの場が台無しになるだろ?」
「またまたー。藤野さんなら女の子達もきっと喜びますって!」
新人社員らしい数名から飲み会の誘いを受けている男性。
実際に会うのは初めての彼を、遥はすでに知っていた。
藤野慎介──亡くなった件の花嫁、藤野綾那の新郎だ。
あまりに唐突な出逢いに、遥は信号近くのビルの柱に身を潜めた。
「ど、どうしよう?」
いや、どうしようもこうしようもない。
新郎にとって遥は完全に赤の他人だ。
ここで突然話しかけたとして、困惑させるのは目に見えている。
それでもせめて新郎が見えなくなるまでと、細心の注意を払いながら様子を窺う。
視線を向けた先では、先ほどの新人たちがなおも新郎を誘い出そうと試みていた。
話しぶりからも、新郎は新人たちに好かれているらしいことがよくわかる。
「お願いしますってー。内緒にしておけって言われたんすけど、実は同じ部署の子から藤野さんと話がしたいって頼まれてるんすよねえ」
「え、俺と?」
「だって藤野さん、仕事はできるし優しいし。そりゃ新人女子は狙いに来ますって」
「指輪もしてませんしー、藤野さん、独身ですもんね?」
悪気のない質問だった。
それでも、「独身」の単語を聞いた彼に、さっと絶望の色が広がった。
「っ、あの」
「おーい! 慎介ー!」
考えなしに飛び出そうとした遥の耳に、無邪気に新郎を呼ぶ声が届く。
気づけばにこにこと笑顔を浮かべたイケメンが、新郎の肩を叩いて現れた。
「久しぶりだなあ、今ちょうど仕事上がり? そう言えば職場この辺って言ってたっけ」
「え、え?」
「折角だからご飯でも一緒に食べてかない? ちょうど他の奴らとも約束してるからさ!」
一瞬困惑した表情になった新郎だったが、まるで本物の知人のように語りかけるイケメンの空気に次第に呑み込まれていく。
それは周りにいた新人社員たちも同様だったようで、突如現れた陽キャ長身美形に飲みに誘う勢いも削がれたようだった。
今だ。
陽キャ長身美形の空気に身を任せ、遥もまた今度こそ柱から飛び出した。
「わ、わあ! もしかして藤野くん? すごい偶然だねえ!」
驚きと喜びを詰め込んだ笑顔を浮かべた遥は、イケメンに追随する形でその場に現れた。
「本当久しぶりー! もしかして、みや……宮森くんが呼んでくれたの?」
「いやいやー。今会ったのは全くの偶然だよ」
適当に呼びかけた「宮森くん」が、親しみを込めた笑みを遥に向ける。
まるで、本当の旧友のように。
「な、少しだけでいいから付き合ってよ。それか、今から何か予定あった?」
「あ、いや。決まった予定は」
「なら決定だ!」
「わーい! 皆にも連絡しちゃおーっと!」
宮森くん、もとい雅が新郎の肩を抱き、遥は嬉々としてスマホをいじりはじめる。
怒濤の勢いにぽかーんと呆気に取られる新人社員を尻目に、二人はまんまと新郎の救出に成功した。
通常通り業務を終えた遥は、電車改札口に向かうことなく沿線の道を黙々と歩いていた。
夕焼けが身を潜めた空が、徐々に奥深い紺色に染まっていく。
街灯やビル群の照明が街並みに瞬き始める光景は、どこか新鮮で美しい。
電車に乗って帰っていたときは、最寄り駅までの到着を無心で待っていただけだった。
「たった二駅歩くだけでも、結構息が弾んでくるものだな」
周囲に人が居ないことを確認し、遥はぐぐっと大きくのびをする。
最近の遥は、退社後の道を可能な限り歩いて帰宅していた。
きっかけはやはり、先日引き受けることに決めた劇団拝ミ座の案件だ。
亡き花嫁に身体を貸す。
何とも特殊な内容ではあったが、引き受けたからには役割を全うするため、やる気は十分だった。
しかし、いざ自分は何をするべきか問うと、特に準備は必要ないのだという。
──詳しい前調べは俺たちが進めるから、本番が近づいたら改めて連絡するよ。
あっさり言われたことに、それでも何か自分にできることはと食い下がった結果。
──うーん。それじゃあ君のできる範囲で、本番までの間は花嫁さんらしい過ごしかたをしてみてくれるかな。
──花嫁さんらしい過ごしかた、ですか?
──うん。そうすれば、君の身体を借りる花嫁も喜んでくれると思うから。
その会話からまずぱっと浮かんだのがダイエットだったが、それについては衣装担当の和泉からすかさず鋭い忠告を受けた。
無茶なダイエットをして直前で体型が変えられては困る。
極端なダイエット法には決して手を出すな。
適度な運動と、食事内容を軽く見直す辺りに留めておけと。
そんなわけで、無茶なく適度な運動でもあるウォーキングを日常に取り入れ始めたのだ。
「きっと花嫁さんも、結婚式に向けて色々と準備を進めていたんだろうな」
鞄のポケットに入れたお守り袋に、そっと手を添える。
その中には、先日返そうとした花嫁の指輪が入っていた。
花嫁役をするにあたり、遥の手元に置いておいてほしいという雅の判断からだった。
その方が、亡き花嫁の心境をより近く感じられるだろうからと。
「他に何か、私にできることはないのかな……?」
何か明確に力になれないことがもどかしい。
信号待ちで歩みを止めた瞬間、指先に触れていたお守りがかすかに熱を帯びた気がした。
「え……?」
レンガ敷きの歩道の前方から、数名のスーツ姿の男女とすれ違う。
その中の一人に反応した遥は、逸る胸を感じながらゆっくりと後ろを振り返った。
「藤野さんも今日これからどうですか? 新人の女の子も結構集まるって言ってましたよ」
「はは、悪いけど遠慮しておくよ。俺みたいな年長者が行ったら、新人同士の息抜きの場が台無しになるだろ?」
「またまたー。藤野さんなら女の子達もきっと喜びますって!」
新人社員らしい数名から飲み会の誘いを受けている男性。
実際に会うのは初めての彼を、遥はすでに知っていた。
藤野慎介──亡くなった件の花嫁、藤野綾那の新郎だ。
あまりに唐突な出逢いに、遥は信号近くのビルの柱に身を潜めた。
「ど、どうしよう?」
いや、どうしようもこうしようもない。
新郎にとって遥は完全に赤の他人だ。
ここで突然話しかけたとして、困惑させるのは目に見えている。
それでもせめて新郎が見えなくなるまでと、細心の注意を払いながら様子を窺う。
視線を向けた先では、先ほどの新人たちがなおも新郎を誘い出そうと試みていた。
話しぶりからも、新郎は新人たちに好かれているらしいことがよくわかる。
「お願いしますってー。内緒にしておけって言われたんすけど、実は同じ部署の子から藤野さんと話がしたいって頼まれてるんすよねえ」
「え、俺と?」
「だって藤野さん、仕事はできるし優しいし。そりゃ新人女子は狙いに来ますって」
「指輪もしてませんしー、藤野さん、独身ですもんね?」
悪気のない質問だった。
それでも、「独身」の単語を聞いた彼に、さっと絶望の色が広がった。
「っ、あの」
「おーい! 慎介ー!」
考えなしに飛び出そうとした遥の耳に、無邪気に新郎を呼ぶ声が届く。
気づけばにこにこと笑顔を浮かべたイケメンが、新郎の肩を叩いて現れた。
「久しぶりだなあ、今ちょうど仕事上がり? そう言えば職場この辺って言ってたっけ」
「え、え?」
「折角だからご飯でも一緒に食べてかない? ちょうど他の奴らとも約束してるからさ!」
一瞬困惑した表情になった新郎だったが、まるで本物の知人のように語りかけるイケメンの空気に次第に呑み込まれていく。
それは周りにいた新人社員たちも同様だったようで、突如現れた陽キャ長身美形に飲みに誘う勢いも削がれたようだった。
今だ。
陽キャ長身美形の空気に身を任せ、遥もまた今度こそ柱から飛び出した。
「わ、わあ! もしかして藤野くん? すごい偶然だねえ!」
驚きと喜びを詰め込んだ笑顔を浮かべた遥は、イケメンに追随する形でその場に現れた。
「本当久しぶりー! もしかして、みや……宮森くんが呼んでくれたの?」
「いやいやー。今会ったのは全くの偶然だよ」
適当に呼びかけた「宮森くん」が、親しみを込めた笑みを遥に向ける。
まるで、本当の旧友のように。
「な、少しだけでいいから付き合ってよ。それか、今から何か予定あった?」
「あ、いや。決まった予定は」
「なら決定だ!」
「わーい! 皆にも連絡しちゃおーっと!」
宮森くん、もとい雅が新郎の肩を抱き、遥は嬉々としてスマホをいじりはじめる。
怒濤の勢いにぽかーんと呆気に取られる新人社員を尻目に、二人はまんまと新郎の救出に成功した。