雅の故郷を発ったあと。

 県外の駅で一度乗り換えた二人と一匹は、徐々に建物が密集する市街地へと運ばれていく。

 いつの間にか眠りについてしまったらしい猫又を雅が抱え、二人はようやく自分たちの街の駅に降り立った。

 無意識に吸い込んだ街の空気からは、慣れ親しんだ懐かしい匂いがした。

「さっき、和泉から返信が来たよ。直しを請け負った羽織物だけは忘れないようにしろってさ」
「ふふ。和泉さんらしいですね」

 駅から劇団拝ミ座までの道を、二人は肩を並べて歩いて行く。

 雅が手に持つアタッシュケースのなかには、村の能力者たちの羽織が何枚も収められていた。

 村伝統のこれらの羽織は、今や全国でも数名しか直すことを許されないという。

 その一人に劇団拝ミ座の仲間が選ばれていることを、遥は誇りに思えた。

「今回雅さんの村に行く勇気をもらえたのも、和泉さんが背中を押してくれたからなんですよね。本当に、感謝してもしきれません」
「和泉はああ見えて、お兄ちゃん気質だからねえ」
「お兄ちゃんですか。確かに、色々と世話を焼いてもらっている気がします」
「……まあ、遥ちゃんの世話は、これからも俺がみるけど」

 え?

 そう尋ねるよりも早く、荷物を持たない右手がそっと温かなぬくもりに包まれた。

 ぎゅ、と優しく繋がれた一回り大きな手に、遥はどきっと心臓が音を鳴らす。

「っ、み、雅さ……」
「ねえ遥ちゃん。昨日の朝、二人きりの山中で俺が言った言葉、覚えてる?」
「え……、言葉、ですか?」

 唐突な問いに、遥はパチッと目を瞬かせる。

 どこか残念そうに眉を下げる雅を見て、遥はにわかに焦り出した。

「んー。やっぱり覚えてないかあ」
「す、すみません! あのときは確か、ええっと……」

 昨日の朝ということは、遥が優の霊の憑依を終えた直後のやりとりのことだ。

 あのときはまるで夢の中のように神秘的な光景が広がっていた。

 木々の隙間から降り注ぐ白い陽差しと、きらきらと朝露が瞬く地面と──それから。

「あのときは……雅さんがとってもとっても綺麗で。見惚れてしまっていて、言葉が耳に入っていなかったんだと思います」
「……」
「本当にすみません。あの、よければそのときの言葉、もう一度聞かせてもらえませんか?」
「……だーめ。聞かせてあげない」

 まるでいたずらっ子のような笑顔。

 思わぬ答えに困惑した遥をよそに、繋がれたままの手がすっと持ち上げられる。

 そして上体をそっと屈めた雅が、遥の手の甲に静かに唇を落とした。

 羽を撫でるような優しい感触に、遥の心臓が大きく音を立てる。

「っ、え……?」
「俺は照れ屋さんだからね。そう何度も、好きな子に告白なんてできないよ」

 手の甲から、雅の温かなぬくもりが離れていく。

 至近距離からこちらを見つめる眼差しは、強くて、甘い。

 その言葉が冗談ではないことが否応なく伝わり、遥の頬にじわじわと熱が広がっていった。

「また俺の勇気が決まったら、改めて伝えることにするね。だから遥ちゃんも、心の準備をしておいて?」
「え、あ、み、みやっ」
「これからもずっと、俺のそばにいてくれるんでしょう?」
「……雅さん、全然照れ屋さんじゃないですね……?」
「はは、バレちゃった?」

 それでも遥の胸に広がるのは悔しさではなく、大きな大きな愛しさだった。

 心から溢れだしそうな幸福を一粒も取りこぼさないように、自分の胸元にそっと手を添える。

「……わかりました。心の準備、しておきますね」
「うん。よろしくお願いします」
「その、もしかしたら、少し時間がかかるかもしれません。その、一年……とか?」
「ええっと。それはちょっと俺も困っちゃうかも?」

 顔を見合わせ、乾いた笑みを交わす。

 それでも気を取り直した様子の雅が、再び遥の手を取り指を絡ませた。

「さてと。そろそろ拝ミ座に帰ろうか。和泉も、お土産代わりの着物を首を長くして待ってるからね」
「……はい! そうですね」

 春に初めてこの道を進んでいたときには、こんな世界が未来に広がっているなんて夢にも思わなかった。

 未練のときに寄り添うまといに心をこめ続ける和泉。
 雅の腕の中でなおも眠りについている猫又のぶーちゃん。
 そして誰よりも心優しい我らが劇団拝ミ座の当主、雅と共に。

 この先に広がる不可思議な、でもとても温かな世界を感じながら、遥は笑顔で劇団拝ミ座の屋敷へと向かっていった。

終わり