◇◇◇
薄く辺りが白んできた早朝。
森奥深くの東屋で、二人の人影が淡く佇んでいた。
冥道の穴は朝が近づくにつれ徐々に縮んでいき、気づけばすっかり消えている。
「はあ。今夜も無事に終わったねえ」
一晩中夜風にまかれ、砂塵を汗にまみれたお役目直後。
そのはずなのに、雅の微笑みははいつも以上にきらきらと眩しく映った。
「それにしても、まさか遥ちゃんが優の霊を憑依させるなんてね。遥ちゃんの様子がおかしかったから何か考えているのかなとは思ってたけど、そうきたかーって思ったよ」
「はい……驚かせてしまって、すみませんでした」
頭を下げながら、遥は彼女の凜とした声色を思い返す。
幼さが滲むものの、雅にとてもよく似た声だった。
きっと雅自身も子どもの頃はこんな声だったのだろうな。
そう思うと胸がじんと温かくなるのを感じる。
「相手が優だったからよかったものの……自ら身体を明け渡すなんて本来とても危険なことだよ。こんなふうに無事でいられることが信じられないくらい」
気づけば雅の大きな手が遥の手をとらえ、きゅっと力を込められていた。
「本当に本当に、なんともない? 頭が痛いとかくらくらするとか胸が痛いとか」
「だ、大丈夫です。何ならいつもよりもずっとずっと元気なくらいで」
その答えに嘘はなかった。
なにせ今までの遥は、霊を憑依させたあとは例外なく一時的に意識を飛ばしていたのだ。
こんなに早く目を覚まし受け答えするなんて、考えられないことだ。
いや、違う点なら他にもある。
考え巡らせていた遥の耳に「それにしても」と雅の声が届いた。
「この羽織も随分と久しぶりだなあ。長いこと見ないうちに、随分と大きく成長してたんだね」
遥が羽織る象牙色の着物に、雅がそっと目を細める。
隣り合う双子の羽織物。
施された刺繍模様が裾を重ね、一つの大きな画として浮かび上がっていく。
徐々に明瞭になってきた白い朝陽に歓喜するように、金糸の道筋がきらきらと瞬いていた。
それはまるで在るべき場所に戻ってきたようで、遥の胸がじんと熱くなる。
「それにしても、今回の憑依はいつもと勝手が違ったみたいだね」
「え?」
「遥ちゃん、優に憑依されてからも意識を保ったままだったんでしょう」
さらりと告げられた指摘に、遥の心臓が跳ねる。図星だった。
昨夜、優を憑依させた遥は、背中合わせで一晩雅とともに東屋で過ごした。
しかし、その状況でも遥の意識は、優のそれとは別にはっきりと存在していたのだ。
いつもは憑依と同時に遥の意識は深い眠りにつき、その間何が起きていたのかの記憶は残らない。
しかし昨夜は、まるで姉弟二人の会話を傍らで静かに聞いているような感覚だった。
姉弟水入らずの時間を邪魔してしまった。
遥は深く頭を下げた。
「すみませんでした、雅さん。私がもっとしっかり優さんを憑依できていれば、もっと二人の時間を有意義に過ごせたかもしれないのに……!」
「謝る必要なんてないよ。むしろ、遥ちゃんに感謝しなくちゃならないところじゃないかな」
いつもの穏やかな口調で語られた言葉に、遥はそっと下げていた頭を上げる。
柔らかく目元を細めた雅は、山際から届く朝陽を淡く受けていた。
「本当にありがとう、遥ちゃん。まさか優とまた話すことができる日が来るなんて思ってもみなかった。君のおかげだよ」
「雅さん……」
恩の情をいっぱいに込められた言葉に、ほっと胸をなで下ろす。
この村の出の能力者は近しい者の霊を憑依させることは禁じられている。
しかし、遥はこの村の出でもなければ霊能力者でもない。
それにより村の禁忌に当たることもなく、無事優の霊を憑依させることができたのだ。
「優さんは、とても素敵な人だったんですね」
「うん。そうだね。俺よりもずっと強かった。霊能力も、心もね」
繋がれたままの手に、まるで撫でるような指がそっと伝う。
「優が亡くなったときは、周りを相当困らせたよ。でも、今俺はこの力を用いて劇団拝ミ座を切り盛りしてる。おかげで葉月や村との繋がりを取り戻すこともできたし、和泉という友人を得ることもできた。そして遥ちゃんとも出逢うことができた。幸せ者だな」
「私も、雅さんと出逢うことができて、とても幸せです」
いつの間にか浅く絡んだ指同士に、きゅっと小さく力を込める。
見上げれば、茶色がかった雅の髪が風に揺れきらきらと輝いていた。
瞳の中の淡い光が、遥の姿を映し出す。
「でももう……心配させたくないからって、怪我の隠しっこはなしにしてくださいね?」
じいっと軽くにらんだ遥が、繋いだ手とは逆の手をそっと雅の背中に添えた。
いわんとすることがわかったらしく、雅は少し困ったように眉を下げる。
「はは。心配させたくなかったのも勿論だけどね。ただ、格好つけたかっただけだよ」
山から届いた一際眩い光が、村一帯を希望の色へと染めていった。
地面に生える草に佇む朝露が、きらきらと夢のように瞬いていく。
「好きな子の前では、多少無茶してでも格好つけたいものでしょう」
無邪気に笑う雅に、遥は目を奪われる。
それはまるで、かつてこの森で姉や幼なじみとともに過ごした、幼きときの彼を見ているようだった。
盆のお役目を無事に終えた、八月十七日。
「にしても、まさか遥ちゃんが自分自身で優を憑依するとはなあ。猫又から報告を受けた俺も、さすがに肝が冷えたな」
「すみませんでした葉月さん。ご心配をおかけして」
「あーいいっていいって。お陰でこいつも久しぶりに姉と話すことができたんだろ?」
雅の故郷の村をあとにする雅と遥は、葉月の車で最寄りの駅まで送られていた。
車の後ろから荷物を出し終え、葉月は雅に笑みを向ける。
「久しぶりに会った姉はどんな様子だった、雅」
「元気そうだったよ。葉月のことも話した。チャラチャラしてるけどいい奴だって」
「そうか。優、元気そうだったか」
「うん」
古き記憶の蓋をそっと開いた二人が、一様に穏やかな顔をする。
その様子はまるで、緑の濃さが遠くからも眩しいあの森の空気のようだった。
二人を静かに眺めていた遥に、「ああそうだ!」と葉月の快活な声が届いた。
「今回のことで遥ちゃんに従っていたこの猫又のことなんだがな、しばらくは雅たちの拝ミ座で共に棲まわせてもらうことになった」
「えっ?」
思いがけない話に目を瞬かせる。
すると次の瞬間、ぽんと空気がはじけた音と共に見覚えのある黒ブチの猫が現れた。
首には茶色のベルトにコロンと丸い鈴を揺らしている。
背後に揺れる尾は、もちろん二股だ。
「今回のことを踏まえて、元いた街に戻る許可が出たからな。あんたがたと共にこいつもついて行く。ほら、ご挨拶は?」
「……今後ともどうぞよろしくお願いイタシマス」
「はい偉いなー。棒読みだけどなー」
「ぶーちゃんさんが? 私たちの拝ミ座に?」
小さな間を置いて、こみ上げてきたのは喜びだった。
こぼれる笑みを抑えることができないまま、遥は猫又の脇にそっと両手を差し込む。
呆気にとられたままの猫又が、胴を延ばし遥に抱き上げられた。
「ぶーちゃんさん。今回のこと、本当にありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いしますね」
「ふん」
「……はいはい。そろそろ電車が来るよ。他の乗客に見られないように、ぶー太の鈴はいったん外すからねえ」
隣で見ていた雅が、するりと猫又の首元から鈴の付いたベルトを取り去る。
すると今まで抱き上げていた愛くるしい猫の姿は消え失せ、遥の手はスカッと虚空を切った。
「それじゃあ、遥ちゃんもそろそろホームに行こうか」
「あ、はい。そうですね」
「はー。やだねえ。子どもにみたいな男の嫉妬は見苦しいねえ」
「え?」
「それじゃあまたね葉月。次に会うまでせいぜい元気で居てよ」
「おいおい。幼なじみに思わせぶりな呪いを残すようなの止めてもらえる?」
憎まれ口に近い別れの言葉のあと、雅と遥は改札をくぐった。
慌てて背後を振り返った遥に、葉月はにかっと笑顔を向け大きく手を振る。
「葉月さん! どうぞお元気で!」
雅のことを宜しくね。
そう言われているような気がして、遥も大きく手を振り返した。
薄く辺りが白んできた早朝。
森奥深くの東屋で、二人の人影が淡く佇んでいた。
冥道の穴は朝が近づくにつれ徐々に縮んでいき、気づけばすっかり消えている。
「はあ。今夜も無事に終わったねえ」
一晩中夜風にまかれ、砂塵を汗にまみれたお役目直後。
そのはずなのに、雅の微笑みははいつも以上にきらきらと眩しく映った。
「それにしても、まさか遥ちゃんが優の霊を憑依させるなんてね。遥ちゃんの様子がおかしかったから何か考えているのかなとは思ってたけど、そうきたかーって思ったよ」
「はい……驚かせてしまって、すみませんでした」
頭を下げながら、遥は彼女の凜とした声色を思い返す。
幼さが滲むものの、雅にとてもよく似た声だった。
きっと雅自身も子どもの頃はこんな声だったのだろうな。
そう思うと胸がじんと温かくなるのを感じる。
「相手が優だったからよかったものの……自ら身体を明け渡すなんて本来とても危険なことだよ。こんなふうに無事でいられることが信じられないくらい」
気づけば雅の大きな手が遥の手をとらえ、きゅっと力を込められていた。
「本当に本当に、なんともない? 頭が痛いとかくらくらするとか胸が痛いとか」
「だ、大丈夫です。何ならいつもよりもずっとずっと元気なくらいで」
その答えに嘘はなかった。
なにせ今までの遥は、霊を憑依させたあとは例外なく一時的に意識を飛ばしていたのだ。
こんなに早く目を覚まし受け答えするなんて、考えられないことだ。
いや、違う点なら他にもある。
考え巡らせていた遥の耳に「それにしても」と雅の声が届いた。
「この羽織も随分と久しぶりだなあ。長いこと見ないうちに、随分と大きく成長してたんだね」
遥が羽織る象牙色の着物に、雅がそっと目を細める。
隣り合う双子の羽織物。
施された刺繍模様が裾を重ね、一つの大きな画として浮かび上がっていく。
徐々に明瞭になってきた白い朝陽に歓喜するように、金糸の道筋がきらきらと瞬いていた。
それはまるで在るべき場所に戻ってきたようで、遥の胸がじんと熱くなる。
「それにしても、今回の憑依はいつもと勝手が違ったみたいだね」
「え?」
「遥ちゃん、優に憑依されてからも意識を保ったままだったんでしょう」
さらりと告げられた指摘に、遥の心臓が跳ねる。図星だった。
昨夜、優を憑依させた遥は、背中合わせで一晩雅とともに東屋で過ごした。
しかし、その状況でも遥の意識は、優のそれとは別にはっきりと存在していたのだ。
いつもは憑依と同時に遥の意識は深い眠りにつき、その間何が起きていたのかの記憶は残らない。
しかし昨夜は、まるで姉弟二人の会話を傍らで静かに聞いているような感覚だった。
姉弟水入らずの時間を邪魔してしまった。
遥は深く頭を下げた。
「すみませんでした、雅さん。私がもっとしっかり優さんを憑依できていれば、もっと二人の時間を有意義に過ごせたかもしれないのに……!」
「謝る必要なんてないよ。むしろ、遥ちゃんに感謝しなくちゃならないところじゃないかな」
いつもの穏やかな口調で語られた言葉に、遥はそっと下げていた頭を上げる。
柔らかく目元を細めた雅は、山際から届く朝陽を淡く受けていた。
「本当にありがとう、遥ちゃん。まさか優とまた話すことができる日が来るなんて思ってもみなかった。君のおかげだよ」
「雅さん……」
恩の情をいっぱいに込められた言葉に、ほっと胸をなで下ろす。
この村の出の能力者は近しい者の霊を憑依させることは禁じられている。
しかし、遥はこの村の出でもなければ霊能力者でもない。
それにより村の禁忌に当たることもなく、無事優の霊を憑依させることができたのだ。
「優さんは、とても素敵な人だったんですね」
「うん。そうだね。俺よりもずっと強かった。霊能力も、心もね」
繋がれたままの手に、まるで撫でるような指がそっと伝う。
「優が亡くなったときは、周りを相当困らせたよ。でも、今俺はこの力を用いて劇団拝ミ座を切り盛りしてる。おかげで葉月や村との繋がりを取り戻すこともできたし、和泉という友人を得ることもできた。そして遥ちゃんとも出逢うことができた。幸せ者だな」
「私も、雅さんと出逢うことができて、とても幸せです」
いつの間にか浅く絡んだ指同士に、きゅっと小さく力を込める。
見上げれば、茶色がかった雅の髪が風に揺れきらきらと輝いていた。
瞳の中の淡い光が、遥の姿を映し出す。
「でももう……心配させたくないからって、怪我の隠しっこはなしにしてくださいね?」
じいっと軽くにらんだ遥が、繋いだ手とは逆の手をそっと雅の背中に添えた。
いわんとすることがわかったらしく、雅は少し困ったように眉を下げる。
「はは。心配させたくなかったのも勿論だけどね。ただ、格好つけたかっただけだよ」
山から届いた一際眩い光が、村一帯を希望の色へと染めていった。
地面に生える草に佇む朝露が、きらきらと夢のように瞬いていく。
「好きな子の前では、多少無茶してでも格好つけたいものでしょう」
無邪気に笑う雅に、遥は目を奪われる。
それはまるで、かつてこの森で姉や幼なじみとともに過ごした、幼きときの彼を見ているようだった。
盆のお役目を無事に終えた、八月十七日。
「にしても、まさか遥ちゃんが自分自身で優を憑依するとはなあ。猫又から報告を受けた俺も、さすがに肝が冷えたな」
「すみませんでした葉月さん。ご心配をおかけして」
「あーいいっていいって。お陰でこいつも久しぶりに姉と話すことができたんだろ?」
雅の故郷の村をあとにする雅と遥は、葉月の車で最寄りの駅まで送られていた。
車の後ろから荷物を出し終え、葉月は雅に笑みを向ける。
「久しぶりに会った姉はどんな様子だった、雅」
「元気そうだったよ。葉月のことも話した。チャラチャラしてるけどいい奴だって」
「そうか。優、元気そうだったか」
「うん」
古き記憶の蓋をそっと開いた二人が、一様に穏やかな顔をする。
その様子はまるで、緑の濃さが遠くからも眩しいあの森の空気のようだった。
二人を静かに眺めていた遥に、「ああそうだ!」と葉月の快活な声が届いた。
「今回のことで遥ちゃんに従っていたこの猫又のことなんだがな、しばらくは雅たちの拝ミ座で共に棲まわせてもらうことになった」
「えっ?」
思いがけない話に目を瞬かせる。
すると次の瞬間、ぽんと空気がはじけた音と共に見覚えのある黒ブチの猫が現れた。
首には茶色のベルトにコロンと丸い鈴を揺らしている。
背後に揺れる尾は、もちろん二股だ。
「今回のことを踏まえて、元いた街に戻る許可が出たからな。あんたがたと共にこいつもついて行く。ほら、ご挨拶は?」
「……今後ともどうぞよろしくお願いイタシマス」
「はい偉いなー。棒読みだけどなー」
「ぶーちゃんさんが? 私たちの拝ミ座に?」
小さな間を置いて、こみ上げてきたのは喜びだった。
こぼれる笑みを抑えることができないまま、遥は猫又の脇にそっと両手を差し込む。
呆気にとられたままの猫又が、胴を延ばし遥に抱き上げられた。
「ぶーちゃんさん。今回のこと、本当にありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いしますね」
「ふん」
「……はいはい。そろそろ電車が来るよ。他の乗客に見られないように、ぶー太の鈴はいったん外すからねえ」
隣で見ていた雅が、するりと猫又の首元から鈴の付いたベルトを取り去る。
すると今まで抱き上げていた愛くるしい猫の姿は消え失せ、遥の手はスカッと虚空を切った。
「それじゃあ、遥ちゃんもそろそろホームに行こうか」
「あ、はい。そうですね」
「はー。やだねえ。子どもにみたいな男の嫉妬は見苦しいねえ」
「え?」
「それじゃあまたね葉月。次に会うまでせいぜい元気で居てよ」
「おいおい。幼なじみに思わせぶりな呪いを残すようなの止めてもらえる?」
憎まれ口に近い別れの言葉のあと、雅と遥は改札をくぐった。
慌てて背後を振り返った遥に、葉月はにかっと笑顔を向け大きく手を振る。
「葉月さん! どうぞお元気で!」
雅のことを宜しくね。
そう言われているような気がして、遥も大きく手を振り返した。