道脇にともされていた灯りは蝋が潰え、村は闇夜に沈んでいる。

 そんな中で遥が訪れた場所は、日中も訪れた獣道の前だった。

 時刻はとっぷり日が暮れた二十時過ぎ。

 昼間に来たときとは風景も漂う空気も全く異なっている。

「ふう……よし、行きましょうか」
「まさか本当に来るとはな」
「きゃっ!?」

 暗闇から聞こえてきた何者かの声に、落ち着けたばかりの鼓動が大きく跳ねる。

 それでも地面に軽々着地した小さな影に、思わず笑みがこぼれた。

「ぶーちゃんさん! もしかして、私のことを心配してきてくれたんですか」
「乗りかかった船だ。万一お主に何かあれば、わらわが葉月に懲罰を受けかねん」
「ぶーちゃんさん……ありがとうございます」

 正直、一人でこの暗闇の森を進むのは並大抵ではない覚悟が必要だった。

 猫又の彼が一緒というだけで、僅かながら見失いそうになっていた目的がはっきりと確認できる。

「昼間交わした件の約束を果たしに行くのだな」
「はい。そのつもりです」
「わらわは気が進まんがな」

 ぽつりとこぼしたあと、猫又は静かに森に向かって歩き出した。

 小さな背中を見失わないよう、遥も早足で追いかけていく。

 眠るときはふよふよ心地よさそうに揺れていた二股の尻尾が、今はぴんと真っ直ぐ伸びていた。



 獣道は、遥たちを招き入れるようにじわじわと拓けていく。

 そしてたどり着いた先には、一棟の東屋があった。

 ぽつんと佇むそれを取り囲むように木々は深く生い茂り、薄い雲に隠れていた月が徐々に辺りを照らし出す。

 そこに浮かび上がった人影に、遥ははっと目を見張った。

 東屋の中央の石畳の上で、紺の着流しを背負った雅が双眼を閉ざし座していた。

 背筋はぴんと伸び、胡座を組んだ足元の上で両手を軽くかざしている。

 そして、その眼前に浮かぶ黒くて大きな穴に、遥は悲鳴を押し殺した。

「み、雅さんの目の前に見える、あの黒い影は……?」
「あれが冥道の穴だ」

 猫又の答えに、遥は思わず口元を手で覆った。

 冥道の穴は想像以上に大きく、雅の一回りも二回りも大きい。

 空間を切り取ったように淀む穴からは、霊感のない遥の耳にも上身や苦しみに満ちた声が遠く響いていた。

「冥道の穴のあんなに近くに……雅さん、大丈夫なんでしょうか。あの穴の中に引きずり込まれたりなんてことはありませんか」

 長く伸びた草の影から、思わず猫又に尋ねる。
 なにせ目前の大穴が、今にも東屋ごと呑み込んでしまいそうな光景なのだ。

「そういうことも当然なくはない。冥道の穴に棲む者のなかには、生者への恨みにとらわれている者も多いからな」

 さっと血の気が引いた遥を見かねたように、猫又は大きくため息をついた。

「そういった事態を防ぐために、この穴を守る役目は霊能力の高い者が代々担うことになっている。お前の相方はそれをもう何年も続けているのだろう。要らぬ心配だ」
「そ、そうだといいんですが……、あっ!」

 ほっと胸をなで下ろした瞬間だった。

 双眼を降ろしたままの雅の着流しが風にはためくと、その背中に僅かに鮮血が滲んだ。
 目を剥いた遥だったが、雅自身は表情ひとつ変わらない。

「餓鬼(がき)だな。元々辺りに潜んでいた下級妖怪が、日頃の憂さを晴らしに来たか」

 苦虫を噛み潰したような表情で、猫又が口を開く。

「どういうことですか? 雅さん、今怪我をしていましたよね……っ?」
「あの者が掛けている術は、本来一人で完成する封術ではない」
「え?」
「あれは、二人が背中合わせになることで完成する術だ。一人が冥道の穴を封じることに神経を集中させ、もう一人が霊力に惹かれてきた背後の悪霊を滅却する。同等の力を持った二人の術者がいて初めて完成する、最上級の封術」

 二人の術者。その言葉に、真っ先に胸に去来したのは昼間目にした霊の姿だった。

 雅は今も自責に念を抱いたまま、人々のために役目を果たそうとしている。

 だからこそ、本来二人で完成する術を用いて冥道の穴を塞いでいるのかもしれない。

「雅さんは今でも……優さんと一緒に村を守っているんですね」
「そうだよ」

 ふわりと耳を撫でた穏やかな声。やっぱり雅と瓜二つだ、と遥は思った。

 さっと背後を振り返ると、そこにはぼんやり靄がかかったような淡い光が漂っていた。
 昼間は視認できなかったはずなのに、雅の強い能力の影響だろうか。

「弟は、毎年こんな無茶をする。おかげでこちらも毎年のんびり帰省もできやしない。全く困った子でしょう」
「今夜は、昼間の約束を果たしに来ました」

 夜は刻一刻と過ぎていく。
 風に吹かれるたびに着流しが吹き上がり、見計らったように雅は背に傷を負っていた。

 これ以上、ただ見ていることはできやしない。

「あなたの心はきれいだね。あの子が惹かれるのもよくわかる」

 白い光が、小さく頷いたような気がした。

「でもいいの? あなたは霊を視ることができない。私が真実あの子の姉という保証はどこにもない」
「ああ。全くその通りだぞ、遥」

 白い光にぎっと鋭い目つきを向け、猫又が遥の一歩前に出る。

「例えこいつが偽者でなかったとしても、お主が無事でいられる保証はどこにもない。今まで何事もなく無事に憑依を終えていたのは、雅の力があったからだ。あやつが強力な結界を作ってお主を完璧に守っていた」

 猫又に告げられた事実に、遥は小さく目を見開く。

 それほど自分のことを守ってくれたのか。

 万が一も起こらないように、全身全霊を掛けて守ってくれていた。

「それならなおのこと、今度は私が彼を守る番ですよ」

 何が起こるのかはわからない。それでも、遥は信じたいと思った。

 雅と絵合わせの着流しを羽織ってきた、彼女の存在を。

「優さん。あなたに、私の身体を貸し出します」

 白い光が、淡く瞬く。

「だから、お願いします。私の身体で、雅さんとどうか守ってください!」