◇◇◇
──いい羽織だろう。
凪のように静かに笑う男に、まだ年端もいかない子どもも静かに並んだ。
陽の光が溢れる畳部屋。
その中央に、二脚の衣紋掛けに掛けられた二着の羽織が佇んでいる。
大きな一枚の画のような美しさに、子どもは大きく目を見張る。
──色が違うね。どうして紺色と象牙色なの。
──朝と夜を現してみたんだ。いつまでも二人が、闇夜を迷わず進めるように。朝陽に安らぎを抱けるように。
──ふうん。
並んだ二着の羽織に、そっと触れる。
霊能者を生業とする両親の羽織と揃いの、上質な良い生地だ。
──それにしても、お前たちが七歳で揃って初陣とはなあ。
──葉月だって八歳だからさほど変わらないよ。心配?
──いんや。お前が決めた道ならば俺たちは見守るのみだ。ただ、お前たちはまだ若い。
ふすまの隙間から吹き抜ける風が、子どもの茶色がかった髪をさらりと揺らした。
──道を引き返したいと思ったときは、隠さずに父に言え。お前たちの人生はお前たちだけのものだからな。
──大丈夫。二人とも、そんなに我慢強いほうじゃないってこと、お父さんだって知ってるでしょ?
──ははっ、違いないな!
まるで太陽みたいに笑う父親の横で、子どもが再び目の前の羽織を見つめる。
恐らく自分は、今後この村を守っていく中心になる。
この羽織は直しが施され、着丈も刺繍もどんどん広がりを見せていく。
でも、もう一つの羽織は。
あの子が背負うことになるこの羽織は、願わくばこのままであってほしい。
あの子は出逢う者全ての心に身を寄せてしまう、心の優しい子だから。
◇◇◇
まぶたの裏から届く明るい光を感じる。
徐々に覚醒してきた意識にならい、遥はゆるゆるとまぶたを開いた。
今見ていた光景は夢だったらしい。
まるで自分以外の誰かが紡いだ、温かいひとときの夢。
一瞬拝ミ座かと思ったが、違う。
そうだ、昨日は雅の故郷まで出向いて、寝床を貸してもらったのだ。
布団に横たわっている。自分はいったいいつ、この部屋に戻ってきたのだろう。
「…………へっ」
身をよじり身体を横に向けたとき、妙な違和感に気づいた。
左手に触れる柔らかな感触と、何かに軽くぶつかるような衝撃。
一気に開かれた視界に飛び込んできた人の存在に、遥は大きく息をのんだ。
「っ……、み、雅さん……?」
遥が横たわる隣には、雅が並ぶように横になっていた。
昨日お役目に出て行ったときのままのまといで、掛け布団もないまま畳の上で寝入っている。
長いまつげは完全に伏せられ、微かな寝息が聞こえていた。
雅の寝顔を見るのは、今回が初めてではない。
それでも今こんなに狼狽してしまっているのは、自分の想いを自覚してしまったからかもしれなかった。
二人の手が繋がれていることにようやく気づき、遥の顔の熱はさらに高まった。
「おーい。もしかして、起きてるか? 入ってもいいかー?」
「は、葉月さんっ」
がばりと上体を起こすと、ふすま越しに大きな体躯の人影が見える。
慌てて了承すると、葉月が快活な笑顔を浮かべて入ってきた。
「あー、やっぱ雅はまだ寝てるか。仕方ねえなあ」
「あの、葉月さん。どうして雅さんはここに?」
「猫又から聞いた話だと、玄関で寝付いていたあんたを、帰任した雅が部屋に運んだらしいな。きっとそのまま雅も寝落ちしたんだろうよ」
言われて初めて、昨夜の出来事がまざまざと頭に蘇る。
どうせ眠れないのなら、雅が帰ってくるまで玄関で待とう。
そう考えての行動だったが、結局疲れ果てている雅に自分を運ばせてしまったらしい。
「もう……私ってば、いったい何をしてるんだろう……」
「それだけ雅が心配だったってことだろ。誰も呆れちゃいないさ」
そう言うと、葉月は未だに寝入っている幼なじみを覗き込む。
じいっと様子を窺ったあと、小さく息を吐いた。安堵のため息に聞こえた。
「葉月さんも、昨夜はお役目があったんですよね? お休みしていなくても大丈夫なんですか?」
「ありがとう。でもそんな心配しなくても平気だ。雅がいつも請け負っている難所に比べりゃあな」
「葉月さん……ひとつ、聞いてもいいですか」
雅がいまだ寝入っていることを確認したのち、遥は切り出した。
その声色の微細な変化に、葉月は僅かに目を見張った。
「どうぞ。なんなりと」
「葉月さんも雅さんも、お二人とも村を代表するほどの能力をお持ちなんですよね。ということはつまり、葉月さんも雅さんのように、人に霊を下ろすことができるんでしょうか」
「うん。そうだな」
「もしも雅さんが今もお姉さんのことを悔いているのなら、お姉さんとお話しする機会を持つことはできないんでしょうか……!」
言わんとすることがわかったようで、葉月は顎をさすった。
すかさず、遥は言葉を重ねる。
「もしよければ、私が被憑依者になってもいいんです! 葉月さんの力で霊を下ろすことができれば、きっと雅さんもお姉さんとゆっくり会話ができるんじゃ」
「それは無理だ」
必死な遥を押しとどめるように、葉月は断言した。
「この村の能力者にはかねてより掟があってな。村の者の霊を、憑依の対象にしてはならないんだ」
「それは……どうしてですか」
「生の限りを忘れないように」
静かに告げられた言葉に、遥は目を見張った。
「俺らのような霊能力者が多く生まれる集落だからこそ、むやみに縁者の霊を降ろしてはならない。それが横行しては死を軽んじる危険性がある。どうせ最後の会話をする術は残されているのだからとな。だからこそ、俺たちの故郷は同村の者の憑依は行わない。悪霊に変化した場合の除霊は当然行うが」
「……そう、なんですね」
納得した一方で、遥はなんともいえない感情に拳を握る。
雅たちはいつも苦しみ悩む人たちを精一杯に救っている。
しかし、自分自身を救うことは決して許されないのだ。
「優を亡くすきっかけを作ったのは、俺だって同じだ」
いつの間にか地面に目線を落としていた遥は、その声にぱっと顔を上げた。
見上げた先には、どこか寂しそうな面差しの葉月がいる。
「なのにひとりぼっちで全部抱えようとしちまって。ほんと、困った幼なじみだよ」
「葉月さん……」
「あ、そうそう。遥ちゃんの部屋に、戻しておくものがあったんだ」
そう言うと、雅は廊下に置いていた何かに手を伸ばした。
美しい庭園から流れる風に、かさりと小さな音がする。
見覚えのあるそのたとう紙に、遥は目を見張った。
「葉月さん……それは」
「一週間前に、和泉から戻されてきた着物だよ」
たとう紙を丁寧に広げていく。
中から現れたのは、美しい象牙色の着物だった。
広げられた着物は空気を軽く含まされたあと、床の間の衣紋掛けに掛けられる。
「この村の霊能力者は、仕事に就いたとのときから各々にこの羽織を託される。成長に合わせて直しが加えられ、徐々に着丈も刺繍模様も広がっていく。そして命を落としたものの羽織は、そのときの村の代表者の元に大切に保管されるんだ」
「……その直し作業を、和泉さんに?」
「ああ。こんな特殊な作業を頼めるのは、あいつを置いてそうはいないからな」
「雅さんと優さんの着流し……金糸の刺繍模様が、映し鏡のようになっているんですね」
以前、和泉の作業部屋で目にした刺繍の図案を思い出す。
雅の着流しの刺繍図案だと確信を持てなかった理由を、遥はようやく理解した。
似て非なる、左右対称の模様。
あれは雅の着流しではなく、双子の姉・優の着流しの刺繍図案だったのだ。
「葉月さんは……優さんが亡くなったあとも、こうして直しを加えていらっしゃったんですね」
「ただのエゴだよ。幼なじみとして……親友として。弟と一緒に成長して、その行く末を見守ってもらいたいっていうな」
葉月の視線を辿り、遥も再び象牙色の着流しを見つめた。
昨夜の夢で垣間見た子ども用の着物よりも、着丈も模様も大きく広がっている。
最愛の姉を亡くしたあとも、止めどなく流れていった日々。
その長さを物語るその変容に、遥はなんともいえず心を痛めた。
「ああ、それからこれは、昨日電話で受けた和泉からの伝言だ」
「え……、和泉さんから?」
「『この着流しを少しでも汚した場合は、お前が責任を持って綺麗に戻せ』……だとさ」
和泉に似せたらしい顔真似を加えたあと、葉月がにっと笑う。
わざわざ言伝された言葉の意味に、遥は大きく目を瞬かせた。
──いい羽織だろう。
凪のように静かに笑う男に、まだ年端もいかない子どもも静かに並んだ。
陽の光が溢れる畳部屋。
その中央に、二脚の衣紋掛けに掛けられた二着の羽織が佇んでいる。
大きな一枚の画のような美しさに、子どもは大きく目を見張る。
──色が違うね。どうして紺色と象牙色なの。
──朝と夜を現してみたんだ。いつまでも二人が、闇夜を迷わず進めるように。朝陽に安らぎを抱けるように。
──ふうん。
並んだ二着の羽織に、そっと触れる。
霊能者を生業とする両親の羽織と揃いの、上質な良い生地だ。
──それにしても、お前たちが七歳で揃って初陣とはなあ。
──葉月だって八歳だからさほど変わらないよ。心配?
──いんや。お前が決めた道ならば俺たちは見守るのみだ。ただ、お前たちはまだ若い。
ふすまの隙間から吹き抜ける風が、子どもの茶色がかった髪をさらりと揺らした。
──道を引き返したいと思ったときは、隠さずに父に言え。お前たちの人生はお前たちだけのものだからな。
──大丈夫。二人とも、そんなに我慢強いほうじゃないってこと、お父さんだって知ってるでしょ?
──ははっ、違いないな!
まるで太陽みたいに笑う父親の横で、子どもが再び目の前の羽織を見つめる。
恐らく自分は、今後この村を守っていく中心になる。
この羽織は直しが施され、着丈も刺繍もどんどん広がりを見せていく。
でも、もう一つの羽織は。
あの子が背負うことになるこの羽織は、願わくばこのままであってほしい。
あの子は出逢う者全ての心に身を寄せてしまう、心の優しい子だから。
◇◇◇
まぶたの裏から届く明るい光を感じる。
徐々に覚醒してきた意識にならい、遥はゆるゆるとまぶたを開いた。
今見ていた光景は夢だったらしい。
まるで自分以外の誰かが紡いだ、温かいひとときの夢。
一瞬拝ミ座かと思ったが、違う。
そうだ、昨日は雅の故郷まで出向いて、寝床を貸してもらったのだ。
布団に横たわっている。自分はいったいいつ、この部屋に戻ってきたのだろう。
「…………へっ」
身をよじり身体を横に向けたとき、妙な違和感に気づいた。
左手に触れる柔らかな感触と、何かに軽くぶつかるような衝撃。
一気に開かれた視界に飛び込んできた人の存在に、遥は大きく息をのんだ。
「っ……、み、雅さん……?」
遥が横たわる隣には、雅が並ぶように横になっていた。
昨日お役目に出て行ったときのままのまといで、掛け布団もないまま畳の上で寝入っている。
長いまつげは完全に伏せられ、微かな寝息が聞こえていた。
雅の寝顔を見るのは、今回が初めてではない。
それでも今こんなに狼狽してしまっているのは、自分の想いを自覚してしまったからかもしれなかった。
二人の手が繋がれていることにようやく気づき、遥の顔の熱はさらに高まった。
「おーい。もしかして、起きてるか? 入ってもいいかー?」
「は、葉月さんっ」
がばりと上体を起こすと、ふすま越しに大きな体躯の人影が見える。
慌てて了承すると、葉月が快活な笑顔を浮かべて入ってきた。
「あー、やっぱ雅はまだ寝てるか。仕方ねえなあ」
「あの、葉月さん。どうして雅さんはここに?」
「猫又から聞いた話だと、玄関で寝付いていたあんたを、帰任した雅が部屋に運んだらしいな。きっとそのまま雅も寝落ちしたんだろうよ」
言われて初めて、昨夜の出来事がまざまざと頭に蘇る。
どうせ眠れないのなら、雅が帰ってくるまで玄関で待とう。
そう考えての行動だったが、結局疲れ果てている雅に自分を運ばせてしまったらしい。
「もう……私ってば、いったい何をしてるんだろう……」
「それだけ雅が心配だったってことだろ。誰も呆れちゃいないさ」
そう言うと、葉月は未だに寝入っている幼なじみを覗き込む。
じいっと様子を窺ったあと、小さく息を吐いた。安堵のため息に聞こえた。
「葉月さんも、昨夜はお役目があったんですよね? お休みしていなくても大丈夫なんですか?」
「ありがとう。でもそんな心配しなくても平気だ。雅がいつも請け負っている難所に比べりゃあな」
「葉月さん……ひとつ、聞いてもいいですか」
雅がいまだ寝入っていることを確認したのち、遥は切り出した。
その声色の微細な変化に、葉月は僅かに目を見張った。
「どうぞ。なんなりと」
「葉月さんも雅さんも、お二人とも村を代表するほどの能力をお持ちなんですよね。ということはつまり、葉月さんも雅さんのように、人に霊を下ろすことができるんでしょうか」
「うん。そうだな」
「もしも雅さんが今もお姉さんのことを悔いているのなら、お姉さんとお話しする機会を持つことはできないんでしょうか……!」
言わんとすることがわかったようで、葉月は顎をさすった。
すかさず、遥は言葉を重ねる。
「もしよければ、私が被憑依者になってもいいんです! 葉月さんの力で霊を下ろすことができれば、きっと雅さんもお姉さんとゆっくり会話ができるんじゃ」
「それは無理だ」
必死な遥を押しとどめるように、葉月は断言した。
「この村の能力者にはかねてより掟があってな。村の者の霊を、憑依の対象にしてはならないんだ」
「それは……どうしてですか」
「生の限りを忘れないように」
静かに告げられた言葉に、遥は目を見張った。
「俺らのような霊能力者が多く生まれる集落だからこそ、むやみに縁者の霊を降ろしてはならない。それが横行しては死を軽んじる危険性がある。どうせ最後の会話をする術は残されているのだからとな。だからこそ、俺たちの故郷は同村の者の憑依は行わない。悪霊に変化した場合の除霊は当然行うが」
「……そう、なんですね」
納得した一方で、遥はなんともいえない感情に拳を握る。
雅たちはいつも苦しみ悩む人たちを精一杯に救っている。
しかし、自分自身を救うことは決して許されないのだ。
「優を亡くすきっかけを作ったのは、俺だって同じだ」
いつの間にか地面に目線を落としていた遥は、その声にぱっと顔を上げた。
見上げた先には、どこか寂しそうな面差しの葉月がいる。
「なのにひとりぼっちで全部抱えようとしちまって。ほんと、困った幼なじみだよ」
「葉月さん……」
「あ、そうそう。遥ちゃんの部屋に、戻しておくものがあったんだ」
そう言うと、雅は廊下に置いていた何かに手を伸ばした。
美しい庭園から流れる風に、かさりと小さな音がする。
見覚えのあるそのたとう紙に、遥は目を見張った。
「葉月さん……それは」
「一週間前に、和泉から戻されてきた着物だよ」
たとう紙を丁寧に広げていく。
中から現れたのは、美しい象牙色の着物だった。
広げられた着物は空気を軽く含まされたあと、床の間の衣紋掛けに掛けられる。
「この村の霊能力者は、仕事に就いたとのときから各々にこの羽織を託される。成長に合わせて直しが加えられ、徐々に着丈も刺繍模様も広がっていく。そして命を落としたものの羽織は、そのときの村の代表者の元に大切に保管されるんだ」
「……その直し作業を、和泉さんに?」
「ああ。こんな特殊な作業を頼めるのは、あいつを置いてそうはいないからな」
「雅さんと優さんの着流し……金糸の刺繍模様が、映し鏡のようになっているんですね」
以前、和泉の作業部屋で目にした刺繍の図案を思い出す。
雅の着流しの刺繍図案だと確信を持てなかった理由を、遥はようやく理解した。
似て非なる、左右対称の模様。
あれは雅の着流しではなく、双子の姉・優の着流しの刺繍図案だったのだ。
「葉月さんは……優さんが亡くなったあとも、こうして直しを加えていらっしゃったんですね」
「ただのエゴだよ。幼なじみとして……親友として。弟と一緒に成長して、その行く末を見守ってもらいたいっていうな」
葉月の視線を辿り、遥も再び象牙色の着流しを見つめた。
昨夜の夢で垣間見た子ども用の着物よりも、着丈も模様も大きく広がっている。
最愛の姉を亡くしたあとも、止めどなく流れていった日々。
その長さを物語るその変容に、遥はなんともいえず心を痛めた。
「ああ、それからこれは、昨日電話で受けた和泉からの伝言だ」
「え……、和泉さんから?」
「『この着流しを少しでも汚した場合は、お前が責任を持って綺麗に戻せ』……だとさ」
和泉に似せたらしい顔真似を加えたあと、葉月がにっと笑う。
わざわざ言伝された言葉の意味に、遥は大きく目を瞬かせた。