「遥ちゃん」
「雅さん……!」
月明かりと橙色のランタンの光が、高御堂家の玄関先を淡く照らす。
その引き戸を開いた雅は、いつも以上に洗練されていた。
拝ミ座の仕事時にまとう紺色の羽織に灰色の着流し姿が、いつも以上に凜と研ぎ澄まされて映る。
そんな高貴とも思える佇まいに気圧されそうになりながらも、遥は石畳の道を雅に小走りで近づいた。
「よかった。部屋に行ってもいないから、どこに行ったのかと思ったよ」
「す、すみません。雅さんがそろそろ出掛けるころだと聞いたので、いても立ってもいられなくて……」
じっと覗き込んでくる視線に少し口調を早めながら、遥は言葉を紡ぐ。
先ほど涙を流して赤らんだ目元は、葉月が用意してくれた冷のうでしっかりと冷した。
「はは。黙ってお役目行っちゃうんじゃないかって、心配しちゃった?」
雅は、いつも通り笑う。
先ほど止めたばかりの涙が再び滲みそうになったが、力一杯に堪えた。
「雅さん。私も、雅さんのお役目に連れて行ってください」
雅の瞳のなかの光が、僅かに揺れた。
「足手まといにならないように細心の注意を払います。雅さんが言うこと、何でもちゃんと聞きます。雅さんのそばにいたいんです……ずっと」
「……」
「雅さん……、だめですか」
「だめだ。君は連れて行けない」
二人の間を、夜の淡い夏風が吹き抜ける。
色素の薄い茶髪が、さらりと柔らかくなびいた。
「今回の仕事は拝ミ座に対する依頼じゃない。俺が、俺自身に課した使命なんだ」
断られることはわかっていた。
それでも、口にせずにはいられなかった。
溢れそうになる感情を抑え込むために、遥は両手をきつく握りしめる。
「……わかりました。私はここで、雅さんの帰りを待っていますね」
「うん。ありがとう。……それから」
差し伸べられた雅の手が、固く閉ざされていた遥の右手をそっと持ち上げた。
思いがけず優しい温もりに触れ、徐々に拳の力が抜けていく。
「雅、さん?」
「我が儘を聞いてもらえるのなら……ひとつだけ」
そう言うと雅は、その長身を静かに屈めていく。
掬いあげた遥の手まで顔を近づけると、一瞬の間を置いてさらに距離を詰めた。
熱い吐息が指先に微かに触れ、心臓が大きく音を鳴らす。
それでも、その唇が直接手の甲に届くことはなかった。
再び身体を起こした雅は、遥の手を恭しく元に戻す。
様々な感情が詰め込まれ、遥の瞳は大きく見開かれていた。
「驚かせてごめんね。でも大丈夫。触れてはいないよ」
「っ、み、みや」
「遥ちゃんの瞳は、まるで星空みたいだ」
混乱を喫していた遥が、はっと息をのむ。
一瞬、目の前の彼が泣きそうな顔に見えた。
「俺はちゃんと帰ってくるよ。だから遥ちゃんは心配しないで、俺の帰りを待ってて」
「……はい。待っていますね」
「うん」
頷いた雅が、肩に掛けた紺羽織をばさりと翻す。
傍らにはすでに、同じく木賊色の羽織を肩に掛けた葉月が待ち構えていた。よく見ると、門の外には他にも同じ装いの者たちが集っている。
「待っててくれてありがとう、葉月」
「はっ、このくらい待ってられる器量がなくちゃ、村の頭領なんてできやしないだろ」
「ん。感謝してる」
次の瞬間、辺り一帯に橙色の灯りが点く。
道の脇をゆらゆらと揺らめく蝋燭の明かりが、闇夜へ向かう雅たちを静かに見送った。
遠ざかる背に掛ける言葉を見いだせないまま、遥は心の中で繰り返し雅の無事を祈り続ける。
彼の呼吸の温もりが解けていかないように、指先を大切に握りしめていた。
「眠れないのか」
何度目かわからない寝返りを打っていた遥に、覚えのある声がかかる。
まぶたを開くと、月明かりを逆光にして一匹の猫又が枕元に佇んでいた。
「ぶーちゃんさん……いらっしゃったんですね」
「言っただろう。あの葉月にお主のお守りを任じられていると」
「そうでしたね。ありがとうございます」
小さく笑いながら、遥は敷かれた布団からそっと抜け出した。
静かに開いたふすまの向こうに、素晴らしい庭園を挟んでもう一棟の離れ家が見える。
しかしそこには当然、灯りも人の気配もなかった。
「拝ミ座の術者が戻るのは明け方だ。今から待っていては体力が持たぬぞ」
「そうですよね。わかっているんですが……眠れなくて」
村全体を包みこむ、盆の夜。
深い山と森で囲まれた集落に、この時期現れるという冥道へ続く穴の前で、雅たちは今もお役目を果たしている。
「雅さんたちが身を賭しているお役目は、具体的にどんなものなんでしょうか」
「噂に聞いた話では、この時期に開く冥道の穴は一つではないらしい。時期が近づくにつれて開く場所とその大きさが調べ上げられ、術者の能力に応じて穴を塞ぐ任務地が割り振られると」
「もしかして雅さんは、一番大きな冥道の穴を?」
猫又が当然のように頷く。
「冥道の穴は、いわば生者をあの世へ引きずり込む危険な空間の歪み。その処置を見誤ると命に関わる。……あやつがお主を気軽に連れて行ける道理もないであろうな」
「そうですよね。ありがとうございます。ぶーちゃんさん」
先ほどの門前でもやりとりを、どうやら猫又も見聞きしていたらしい。
不器用に織り込まれた優しさに微笑むと、猫又はふんとそっぽを向いた。
「わらわは寝るぞ。お主も意地は張らずに眠ることだ。そのほうが朝が早い」
「わかりました。おやすみなさい」
とてとてと縁側から室内に戻った猫又は、遥の布団の脇に丸まり目を閉じる。
ふよふよと泳いでいた二股の尾が身体に沿うように置かれ、やがて規則的に横腹が小さく動きはじめた。
◇◇◇
山際に、淡い光が集まっていく。
先ほどまで対峙していたお役目を終えた雅は、ひとけのない明け方前の道を一人進んでいた。
これで二晩。残るは今夜の最終夜のみだ。
時折背中に走る痺れるような痛みに、思わず顔をしかめる。
まだまだ修行が足らないな。周囲の目がないのをいいことに、大仰な息を一つ吐いた。
徐々に辺りに朝の訪れを告げる陽の光が差し込み始める。
夜通し任にあたった雅にとって、それは此度も無事生きながらえた褒美のようだった。
徐々に見えてくるのは、幼なじみの自宅兼旅館。山と森から発せられる靄に包まれる姿は、まるで死後の審判場のようだ。
自分がその門をくぐるのは、いったいいつになるのだろう。
巨大な外門をくぐり抜け、石畳に続く玄関の引き戸を合鍵で開けた。
「……え?」
そしてそこに佇んでいた者の姿に、雅は目を剥く。
もともと広く設えられた玄関脇には、寝間着姿の遥の姿があった。
抱えた膝に頭を乗せた体勢で、小さく寝息を立てている。
その身体を毛布のように包みこんでいたのは、黒白のブチ模様が入った巨大な猫又だった。
「帰ったか。このおなごめ、気づけば離れ家を抜け出してこんなところまで彷徨い歩いていたぞ」
細くまぶたを開けた猫又が、迷惑そうに吐き捨てる。
季節は夏とて、この村の明け方はそれなりに冷え込む。
猫又は玄関脇で寝入ってしまった遥を起こすわけでもなく、温もりに包みながら付き合っていたらしい。
「感謝する、ぶー太」
「わらわの名はぶー太ではない。それと、感謝ならこれに言うほうが先だろう」
「ん。そうだね」
この村に彼女が現れたときは、夢か幻かと思った。
それと同時に気づいてしまった。彼女が現れることを、心のどこかで願っていた自分に。
この村に来る理由を忘れ、安易に幸福に浸ろうとした、自分に。
「起こすなよ。ずっと夢現の状態を繰り返していて、ようやく寝付いたところだ」
「わかってる」
差し出した手を、彼女の背中と膝裏にそっと回す。
振動が伝わらないように慎重に抱き上げた身体からは、優しい温もりが伝わった。
自分の腕の中で小さく身をよじる様子に、小さく笑みがこぼれる。
これ以上、この子に甘えるわけにはいかないのに。
「ただいま。遥ちゃん」
小さな小さな声で、自身の帰還を告げる。
彼女が泊まる離れ家に続く廊下を、雅は心が解かれていく心地で進んでいった。
「雅さん……!」
月明かりと橙色のランタンの光が、高御堂家の玄関先を淡く照らす。
その引き戸を開いた雅は、いつも以上に洗練されていた。
拝ミ座の仕事時にまとう紺色の羽織に灰色の着流し姿が、いつも以上に凜と研ぎ澄まされて映る。
そんな高貴とも思える佇まいに気圧されそうになりながらも、遥は石畳の道を雅に小走りで近づいた。
「よかった。部屋に行ってもいないから、どこに行ったのかと思ったよ」
「す、すみません。雅さんがそろそろ出掛けるころだと聞いたので、いても立ってもいられなくて……」
じっと覗き込んでくる視線に少し口調を早めながら、遥は言葉を紡ぐ。
先ほど涙を流して赤らんだ目元は、葉月が用意してくれた冷のうでしっかりと冷した。
「はは。黙ってお役目行っちゃうんじゃないかって、心配しちゃった?」
雅は、いつも通り笑う。
先ほど止めたばかりの涙が再び滲みそうになったが、力一杯に堪えた。
「雅さん。私も、雅さんのお役目に連れて行ってください」
雅の瞳のなかの光が、僅かに揺れた。
「足手まといにならないように細心の注意を払います。雅さんが言うこと、何でもちゃんと聞きます。雅さんのそばにいたいんです……ずっと」
「……」
「雅さん……、だめですか」
「だめだ。君は連れて行けない」
二人の間を、夜の淡い夏風が吹き抜ける。
色素の薄い茶髪が、さらりと柔らかくなびいた。
「今回の仕事は拝ミ座に対する依頼じゃない。俺が、俺自身に課した使命なんだ」
断られることはわかっていた。
それでも、口にせずにはいられなかった。
溢れそうになる感情を抑え込むために、遥は両手をきつく握りしめる。
「……わかりました。私はここで、雅さんの帰りを待っていますね」
「うん。ありがとう。……それから」
差し伸べられた雅の手が、固く閉ざされていた遥の右手をそっと持ち上げた。
思いがけず優しい温もりに触れ、徐々に拳の力が抜けていく。
「雅、さん?」
「我が儘を聞いてもらえるのなら……ひとつだけ」
そう言うと雅は、その長身を静かに屈めていく。
掬いあげた遥の手まで顔を近づけると、一瞬の間を置いてさらに距離を詰めた。
熱い吐息が指先に微かに触れ、心臓が大きく音を鳴らす。
それでも、その唇が直接手の甲に届くことはなかった。
再び身体を起こした雅は、遥の手を恭しく元に戻す。
様々な感情が詰め込まれ、遥の瞳は大きく見開かれていた。
「驚かせてごめんね。でも大丈夫。触れてはいないよ」
「っ、み、みや」
「遥ちゃんの瞳は、まるで星空みたいだ」
混乱を喫していた遥が、はっと息をのむ。
一瞬、目の前の彼が泣きそうな顔に見えた。
「俺はちゃんと帰ってくるよ。だから遥ちゃんは心配しないで、俺の帰りを待ってて」
「……はい。待っていますね」
「うん」
頷いた雅が、肩に掛けた紺羽織をばさりと翻す。
傍らにはすでに、同じく木賊色の羽織を肩に掛けた葉月が待ち構えていた。よく見ると、門の外には他にも同じ装いの者たちが集っている。
「待っててくれてありがとう、葉月」
「はっ、このくらい待ってられる器量がなくちゃ、村の頭領なんてできやしないだろ」
「ん。感謝してる」
次の瞬間、辺り一帯に橙色の灯りが点く。
道の脇をゆらゆらと揺らめく蝋燭の明かりが、闇夜へ向かう雅たちを静かに見送った。
遠ざかる背に掛ける言葉を見いだせないまま、遥は心の中で繰り返し雅の無事を祈り続ける。
彼の呼吸の温もりが解けていかないように、指先を大切に握りしめていた。
「眠れないのか」
何度目かわからない寝返りを打っていた遥に、覚えのある声がかかる。
まぶたを開くと、月明かりを逆光にして一匹の猫又が枕元に佇んでいた。
「ぶーちゃんさん……いらっしゃったんですね」
「言っただろう。あの葉月にお主のお守りを任じられていると」
「そうでしたね。ありがとうございます」
小さく笑いながら、遥は敷かれた布団からそっと抜け出した。
静かに開いたふすまの向こうに、素晴らしい庭園を挟んでもう一棟の離れ家が見える。
しかしそこには当然、灯りも人の気配もなかった。
「拝ミ座の術者が戻るのは明け方だ。今から待っていては体力が持たぬぞ」
「そうですよね。わかっているんですが……眠れなくて」
村全体を包みこむ、盆の夜。
深い山と森で囲まれた集落に、この時期現れるという冥道へ続く穴の前で、雅たちは今もお役目を果たしている。
「雅さんたちが身を賭しているお役目は、具体的にどんなものなんでしょうか」
「噂に聞いた話では、この時期に開く冥道の穴は一つではないらしい。時期が近づくにつれて開く場所とその大きさが調べ上げられ、術者の能力に応じて穴を塞ぐ任務地が割り振られると」
「もしかして雅さんは、一番大きな冥道の穴を?」
猫又が当然のように頷く。
「冥道の穴は、いわば生者をあの世へ引きずり込む危険な空間の歪み。その処置を見誤ると命に関わる。……あやつがお主を気軽に連れて行ける道理もないであろうな」
「そうですよね。ありがとうございます。ぶーちゃんさん」
先ほどの門前でもやりとりを、どうやら猫又も見聞きしていたらしい。
不器用に織り込まれた優しさに微笑むと、猫又はふんとそっぽを向いた。
「わらわは寝るぞ。お主も意地は張らずに眠ることだ。そのほうが朝が早い」
「わかりました。おやすみなさい」
とてとてと縁側から室内に戻った猫又は、遥の布団の脇に丸まり目を閉じる。
ふよふよと泳いでいた二股の尾が身体に沿うように置かれ、やがて規則的に横腹が小さく動きはじめた。
◇◇◇
山際に、淡い光が集まっていく。
先ほどまで対峙していたお役目を終えた雅は、ひとけのない明け方前の道を一人進んでいた。
これで二晩。残るは今夜の最終夜のみだ。
時折背中に走る痺れるような痛みに、思わず顔をしかめる。
まだまだ修行が足らないな。周囲の目がないのをいいことに、大仰な息を一つ吐いた。
徐々に辺りに朝の訪れを告げる陽の光が差し込み始める。
夜通し任にあたった雅にとって、それは此度も無事生きながらえた褒美のようだった。
徐々に見えてくるのは、幼なじみの自宅兼旅館。山と森から発せられる靄に包まれる姿は、まるで死後の審判場のようだ。
自分がその門をくぐるのは、いったいいつになるのだろう。
巨大な外門をくぐり抜け、石畳に続く玄関の引き戸を合鍵で開けた。
「……え?」
そしてそこに佇んでいた者の姿に、雅は目を剥く。
もともと広く設えられた玄関脇には、寝間着姿の遥の姿があった。
抱えた膝に頭を乗せた体勢で、小さく寝息を立てている。
その身体を毛布のように包みこんでいたのは、黒白のブチ模様が入った巨大な猫又だった。
「帰ったか。このおなごめ、気づけば離れ家を抜け出してこんなところまで彷徨い歩いていたぞ」
細くまぶたを開けた猫又が、迷惑そうに吐き捨てる。
季節は夏とて、この村の明け方はそれなりに冷え込む。
猫又は玄関脇で寝入ってしまった遥を起こすわけでもなく、温もりに包みながら付き合っていたらしい。
「感謝する、ぶー太」
「わらわの名はぶー太ではない。それと、感謝ならこれに言うほうが先だろう」
「ん。そうだね」
この村に彼女が現れたときは、夢か幻かと思った。
それと同時に気づいてしまった。彼女が現れることを、心のどこかで願っていた自分に。
この村に来る理由を忘れ、安易に幸福に浸ろうとした、自分に。
「起こすなよ。ずっと夢現の状態を繰り返していて、ようやく寝付いたところだ」
「わかってる」
差し出した手を、彼女の背中と膝裏にそっと回す。
振動が伝わらないように慎重に抱き上げた身体からは、優しい温もりが伝わった。
自分の腕の中で小さく身をよじる様子に、小さく笑みがこぼれる。
これ以上、この子に甘えるわけにはいかないのに。
「ただいま。遥ちゃん」
小さな小さな声で、自身の帰還を告げる。
彼女が泊まる離れ家に続く廊下を、雅は心が解かれていく心地で進んでいった。