八月十四日。

 灼熱という表現がふさわしい、日差しが容赦なく照りつける猛暑日だった。

「ふう……、た、ただいまあ……」

 かき消えそうな声で帰宅の挨拶をする。

 手荷物を玄関先に置くと、遥はよろよろと自室のベッドにダイブした。

「暑かった……溶けちゃいそうだった……」

 まるでいつぞやの雇い主のような言葉を並べながら、遥はベッド脇のリモコンに手を伸ばす。

 ぽちりとスイッチを押すと、エアコンがすぐさま涼しい風を届けてくれた。
 文明の利器さまさまだ。本当に有り難い。

「ひとまず、水を飲もう。荷物もちゃんと片づけないと」

 少し元気が戻ってきた遥は、水を一杯飲み干したあと手荷物をテーブルまで運んだ。

 出て行くときよりも明らかに増えている荷物は、実家から持たされた惣菜やお菓子の山だ。
 紙袋の一番上には、繊細に作られた和菓子があった。

「おじいちゃんもおばあちゃんも、この和菓子がすごく好きだったもんね」

 今日は、午前から小清水家の墓参りへと向かっていた。

 同じ都内に暮らしている両親と最寄りの駅で合流し、先祖が眠る墓にそろって手を合わせる。

 お供え物としていつも母が用意するのが、祖父母の家近所に古くからある和菓子店の練り切りだった。

 小さな包みを開き、一つをそっと口に頬張る。
 優しい食感とともに餡の控えめな甘さが追ってきて、遥の頬が緩んだ。

「おじいちゃんもおばあちゃんも、今ごろ空の上でお供えの練り切りを食べてくれてるかな」

 ふふ、と笑みを浮かべた遥は、ふと盆休み前日の雅の姿が頭によぎった。

 ──それじゃあ遥ちゃん、また、お盆明けにね。

「雅さんはもう、自分の田舎に帰っているのかな……」

 ベッド脇に置いたカレンダーを見遣る。

 今日は八月十四日。劇団拝ミ座の夏休みは、昨日八月十三日から十七日にかけての五日間だ。

 もしかすると、昨日は一休みして、出発は今日の予定なのかもしれない。

 今の時刻は──午後一時過ぎ。

「少しだけ顔を見せるだけなら……迷惑にならない、よね?」

 誰に尋ねるわけでもなく、「ね?」と幾度か繰り返す。

 そして簡単に身なりを整えたあと、遥は再び灼熱の外に飛び出した。



「お、おじゃましまーす……」

 劇団拝ミ座の屋敷は、雅の自宅という側面もある。

 いつでも使って良いと言われている合鍵を、休日に使ったのはこれがはじめてだった。

 劇団拝ミ座の扉を開けたが、玄関口に靴の姿はない。

 一応声を忍ばせつつ中に入る。
 玄関口を上ってすぐ広がる広間にも、奥の客間や台所にも、人の気配はなかった。

 やっぱり、もう発ったあとだったようだ。

 肩を落とした遥が、手にしてきた紙袋にふと目を留める。
 訪問の口実に掴んできてしまった、祖父母の好物の和菓子だ。

「はあ。おじいちゃん、おばあちゃん、ごめんなさい……」
「誰が何だって?」
「ひゃああああっ!?」

 突然耳に触れた低い声に、思わず声を上げてしまう。

 振り返った先に立つ長身の人影に、遥は目を大きく見張った。

「い、い、和泉さん! いらっしゃったんですか……!」
「あー。仕上げたい服があったんでな。お前は何の用だ、不法侵入者」
「不法侵入者じゃありませんっ! 雅さんの許可もいただいていますし……ね? 違いますよね?」
「知るか。俺に聞くな」

 休日の今日も、奥の作業部屋にこもって服の制作を進めていたらしい。

 元々白い肌が今はほんのり青く、食事もろくに取っていないことが窺えた。
 相変わらず一人になった途端、不健康習慣まっしぐらだ。

「ちょ、待っていてください和泉さん。今何か、適当に食べられるものを作りますから」
「別にいい。それよりお前は何を」
「別によくありません! 倒れたらドレスも浴衣も、何も作れなくなるんですからね! 四の五の言わず、ここに座って待っていてください!」
「…………わかった」

 どうやら納得してくれたらしい。

 和泉が素直に居間に腰を据えたのを確信し、遥は冷蔵庫の中身から手早く一人分の食事を作り上げた。

 炊飯器が空だったので、残っていた食パンで作ったフレンチトーストに夏野菜のサラダに目玉焼きだ。

 用意できた料理一式は、和泉が自ら円卓まで運んでいった。
 よしよし、いい子だ。

「いただきます」
「はい。どうぞ」

 手を合わせたあと、和泉は黙々と食事を平らげていく。

 その姿に安心しつつ、遥は改めて辺りを見回した。
 和泉以外の人物の影は、やはりここには見られなかった。

 居間と隣り合わせの部屋は、雅と遥の作業机がある部屋になっている。

 いつもそこに掛けてある紺色の羽織も、やはりなくなっていた。

「あいつなら、昨日の午前に出たぞ」

 表情を変えないまま和泉は告げた。

「あれの田舎は遠路だからな。朝から支度を済ませて、昼前には出て行った」
「そ、そうでしたか。昨日の昼前に……」
「気になったのか」
「……はい」

 遥は素直に頷く。

「和泉さんは、きっとご存じなんですよね。雅さんの田舎のこととか、お役目のこととか、色んなことを」
「あいつとの付き合いも長いからな」
「そうですか……いいなあ」

 ぽつりとこぼれた言葉に、和泉のフォークの動きが止まった。

 いじけたような声を出してしまい、遥は慌ててかぶりを振る。

「すみません、変なことを言ってしまって。ただ、お二人の絆が羨ましいなあって思って。私はまだ雅さんについても知らないことばかりですから。何か雅さんの力になりたいと思っても、できないことばかりで」
「……似たもの同士ってやつか」
「え?」
「いいや。……新人。お前は今から何か予定は」

 唐突に尋ねられたことに、遥は目を瞬かせた。

「いえ特には。今日の午前で両親とお墓参りも終えて、あとの夏休みは特に予定はありません」
「なら、行ってきたらどうだ。あいつの村に」
「へ」
「楽しいだけの旅にはならねえだろうがな。お前にその覚悟があるなら、手助けしてやってもいい」

 用意した食事を平らげた和泉が、手を合わせたあとまっすぐ遥を見据えた。

「行くか行かないか。今ここでお前が決めろ。遥」