「サト、ちゃん……」
「うん。久しぶりだね……、わっ!」

 振り返った秀昭は、思考もまとまらないままに彼女を抱きしめた。

 ちゃんとこの腕の中にいる。
 ぎゅっと腕を回した身体はやはり大人の女性の姿だが、そんなことは些末なことだ。

 里子だった。
 何十年も昔に死に別れ、もう二度と会えないはずの彼女だ。

 間違いない。
 だって日だまりの匂いがする。

「サトちゃん……サトちゃん」
「ヒデちゃん」
「あの日はごめん。花火大会の約束、俺、守れなくて……」
「もー。そんな何十年前のことを、この私がネチネチ恨んでると思ってるの?」
「そ、そういうわけじゃっ」

 心外だというような言葉につられ、秀昭が慌てて彼女の肩を押し戻した。

 そして、改めて目にしたその面差しに小さく目を見張る。

 目の前の女性は、幼い当時の里子の面影がよく残っていた。
 しかし、やはり大人になることで加わった女性らしい頬付きや美しい肌に、思わず見惚れてしまう。

「あの日、ヒデちゃんのお母さんから私の家に電話をもらってたの。私のお母さん、急いでこの屋敷まで来たんだけど、私、咄嗟に門の影に隠れちゃったんだ。だからお母さんにも、諦めて一人でお祭りに行ったんだろうって勘違いさせちゃったみたい」
「そう、だったんだ」
「あれは不幸な事故だよ。そりゃこんな美人さんになるまで、もっともっと生きたかったけどさ。誰のせいでもないよ。ヒデちゃんのせいでもない」
「……サトちゃんは、優しいな」
「へへ、そうかなあ」
「サトちゃんはいつもそうやって、俺のことを元気づけようとしてくれたよね」

 静かに告げた言葉に、里子の瞳が見張られた。

 この屋敷に越してきて以降、秀昭はなかなか周囲にうまく溶け込めずにいた。
 それを笑顔で橋渡ししてくれたのが里子だった。

「たくさんたくさん、もらってばかりだったのに。俺は、サトちゃんに何も返すことができなかったなあ……」

 気づけば、頬に熱いものが溢れていた。

 数十年間ため込んでいたものすべてが決壊するように、涙が止めどなく流れていく。

「もう。本当にばかだなあ、ヒデちゃんは」

 濡れた頬に、里子の指先が触れる。

 ごしごしと涙を拭っていく手つきにかつての記憶が呼び起こされ、また泣きたくなった。

「もらうとか返すとか、そういうこと考えちゃうのはヒデちゃんらしいけれど。大人になっても変わらないねえ」
「……? それは、どういう」
「あ。いけないヒデちゃん。もう始まってる!」

 秀昭の手を握り、里子は狭い屋根裏を進んでいく。

 たどり着いた先の壁を手慣れた様子で押し込むと、外に通じる長方形の穴がぽっかりと開いた。

 同時に、遠くのほうからドン、と大きく響く音が届く。

「あ……」

 濃紺に染まっていた夏の夜空に、美しい大輪の花が咲く。

 段階を踏んで大きく開かれた花火の光が、屋根裏に佇む秀昭と里子の顔を明るく照らした。

「わあ! 思ったよりも近い! きれいだねえ!」
「……うん。きれいだ」

 この邸宅から、こんなに美しい花火を見れたのか。

 数十年ここに暮らしながら、秀昭ははじめてそのことを知った。

「ヒデちゃん、あれからずっと夏祭りを避けてきたんでしょう」

 ドン、ドンと音が繰り返される中、里子は微笑みを浮かべながら言った。

「本当、そういうところはとことん律儀だよねえ。こんなにきれいな花火なのに、もったいない」
「だって、俺はサトちゃんと見たかったから」

 ぽろりと口からこぼれた言葉だった。

 目の前に次々咲き誇る花火の美しさが、秀昭の背を押したのかもしれない。

「俺、本当はサトちゃんのことが好きだった。当時は子どもでなかなか気づけなかったけれど、サトちゃんがいなくなって、はじめてそのことに気づいた」
「ヒデちゃん……」
「でもそのせいで、優しいサトちゃんをこんなに長い間、この家に留め置いてしまったんだね」

 今度は秀昭から、里子の手をそっと繋ぐ。

 繋いだ手は一回り小さくて、指先がわずかに冷たい。
 その手に自分の温もりが徐々に移っていく感覚が、どうしようもなく嬉しかった。

「ごめんね。俺のことが心配で、サトちゃんをずっとずっとこの家に縛ってしまっていた。でも、もう俺は」
「違う!」

 努めて笑顔で告げようとした言葉を、里子の叫びがかき消す。

 そのまま勢いよく飛び込んできた里子によって、秀昭は堪えきれず後方に倒れ込んだ。
 屋根裏の板は存外堅く、尻餅をついた衝撃が鈍く腰に響く。

「っ、い、いたた……」
「違うよ。違う。ヒデちゃんは優しい優しい言ってるけれど、私、本当はそんなにお人好しじゃない」
「サトちゃん?」
「私がヒデちゃんのそばにいたかっただけ。私が、自分の意志で、ヒデちゃんのことを見守りたかっただけだもん……!」

 秀昭の胸元に顔を埋めた里子は、声をかすかに震わせた。

「だってヒデちゃん、底なしにお人好しなのに肝心の自分のすごさに気づけないんだもん! 人のいいところばかり見つけて、人から憧れられてることにも気づかないで……っ」
「あ、憧れ?」
「私だって、そうだよ」

 ゆっくり持ち上げられた里子の顔は、思った以上に近かった。
 時折花火の明かりに彩られる面差しは美しく、秀昭は密かに狼狽する。

 ドン、ドン。
 花火の音が、遠くに聞こえる。

「私はねヒデちゃん。初恋の人のことが気になって仕方がなくて、ただのわがままでこの家に居座っていただけなんだよ?」
「……え」
「もう。本当にヒデちゃんは、おばかだなあ……っ」

 じわりと目尻に膨れた涙が、頬に一筋の光を描く。

 涙に、そっと秀昭の指が触れる。
 そのまま頬を包んだ手に、里子が嬉しそうに自分の手を添えた。

「わたし、ちゃんとヒデちゃんと花火を見たかったんだ。嬉しいな。最期に夢が叶うなんて」
「……うん。俺もだよ」

 サトちゃんと花火を見ることができて、最高に幸せだ。

 寄り添った二人は、そのまま夜空を彩る花火を見つめていた。

 花火の儚い、しかし目が覚めるように美しい光が、今だけは永遠のように思われた。