その後二人は、日が陰った西側の部屋を順番に確認していった。

 もちろん、出る際に部屋に鈴を置くことも忘れない。

 そして最奥の部屋を調べ終えた二人は、廊下から一直線に並ぶ部屋に耳を澄ませていた。

「雅さん……聞こえますか?」
「ううん。何も。つまり里子ちゃんは今、西側の部屋にはいないということだね」

 二人の視線は、自然と中央に並ぶ部屋に向けられる。

 今歩いてきた広間側から並ぶ部屋が三つと、玄関口から一番遠い物置部屋が一つだ。

「里子ちゃんは、五十五年もこの家に住み続けていたんですね。秀昭さんと一緒に」

 ぽつりとこぼれた言葉が、廊下に小さく響く。

 里子はどんな気持ちでこの家にいたのだろう。
 どんな気持ちで秀昭のことを見ていたのだろう。

 きらきらと輝くような思い出を胸に抱いて、陽の影にそっと身体を寄せながら。
 彼女の話を、聞かせてほしい。

「里子ちゃん……『もーう、いーいかい』?」

 そのときだった。

 傍らの物置部屋から、カランカランと小さな音が弾けた。何かが床に落ちるような音だ。

 はっと息をのんだ遥は、素早く物置部屋の入り口を食い入るように見つめる。

「雅さん、今、ここから」
「うん。俺にもちゃんと届いたよ」

 穏やかな口調で告げた雅は、物置部屋の扉前にそっと身を屈めた。

 コンコン、とノックをする。
 しかしノックは返ってこず、雅もしばらくそのまま動かなかった。

「雅さん……?」
「うん。開けるよ」

 物置部屋の入り口を、ゆっくりと開ける。

 しかし視界に触れたのは、以前来たときも確認した木製棚と積まれた荷物だった。

 霊の見えない遥の視線は虚空を切っていたが、最後にぴたりとある一点に止まった。

「雅さん、これは……」

 以前は目にしなかったものが、遥が踏み入った足先に落ちていた。

 牡丹の飾りがついたかんざしだ。

 櫛部分は黒と金の線が施され、コロンと愛らしい赤色の牡丹が咲いている。

 もしかして、先ほどの音はこれが落ちた音だった?

「遥ちゃんっ」
「あ……!」

 見つけたかんざしを、遥が無意識に拾おうとする。

 雅の声が届くのとかんざしに指先が触れるのは、ほとんど同時だった。

  ◇◇◇

 ──ヒデちゃんがねえ、わたしは牡丹の花が一番似合うねって言ってくれたの。

 弾むような声に、炊事場にいる割烹着の女性がにっこりと笑顔を浮かべながら「そうなのねえ」と告げた。

 ──里子ったら、だからまた牡丹柄の浴衣を探していたのね。
 ──そうよ。わたしがこの浴衣を着れば、ヒデちゃん、喜んでくれるかもしれないでしょう?

 少女は浴衣を肩に羽織り、部屋の角にある姿見を嬉しそうにのぞき込む。

 傍らに置かれていた母の鏡台にとあるものを見つけ、目を輝かせた。

 ──ねえねえおかあさん! このきれいなの、浴衣と一緒につけていってもいい?
 ──ええ、いいわよ。ちょうど露店で見つけてね、里子が喜ぶと思って買ったものだから。
 ──ありがとう、お母さん!

 さらに笑みを濃くした少女が、まるで宝石に触れるようにそのかんざしを手に取る。

 ヒデちゃん、喜んでくれるかな。

 ううん。
 喜ぶだけじゃなくて。

 それだけじゃなくて──。

  ◇◇◇

「……ちゃん、遥ちゃん」
「っ、ん……」

 気づけば遥の身体は力を失い、床にへたり込んでいた。
 背中に回された腕が遥の肩をしっかり支えてくれている。

 ああ。また、この人に助けてもらった。

「もう、大丈夫です。ありがとうございます。雅さん」
「うん。どういたしまして」

 真っ直ぐこちらを見つめる雅の瞳に、小さく笑みを向ける。
 次第に戻ってきた感覚を確かめながら、遥はゆっくりと上体を起こした。

 手にしたままになっていた赤色の牡丹のかんざしに、きゅっと力をこめる。

「このかんざしは……あなたのものなんだよね。里子ちゃん」

 そう問いかけると、遥は自然と視線を上に向けた。

 薄暗い空間ではわかりづらいが、天井板の一つにうっすらと入った隙間が見て取れる。

「大丈夫。かんざしはどこも壊れていないよ」

 返事はない。
 それでも構わなかった。

「里子ちゃん。ここにいる二人は、あなたのお話を聞きたいと思っているの。あなたが今何を思っているのかを知りたいんだ」
「……この家を壊そうとしてる、悪い人じゃないの?」

 それは初めて聞いた少女の声だった。

 遥が死者の声を聞いたのはこれが初めてだ。
 水のように耳に沁みて、風のように透き通った声。

「私たちは拝ミ座だよ。あなたが話したいことだけでいい。これ以上来てほしくないのなら、ここから先へは決して進まない」
「……」
「見つけてほしい人がいるんだよね。もうずっと前から」
「……うん。でもね、まだ見つかりたくないなあとも、思ってた」

 気丈だがほんの僅かに震えている声に、胸がぎゅっと苦しくなる。

 見上げた天井の向こうには、見えないはずの彼女の姿が見えた気がした。

 まだ年端もいかない少女が、膝を抱えている。
 どうして放っておくことができるだろう。

「里子ちゃん……お姉さんね、今年で二十五歳なんだ」

 唐突な話題に、隣の雅が目を丸くするのがわかった。
 それでも構わず続ける。

「もしかしたら里子ちゃんは、もっと年代の近い身体であの人に会いたかったかもしれない。でも、もしもお姉さんを選んでくれるなら、里子ちゃんに喜んでもらえるように精一杯頑張りたいって思ってるんだ」
「……お姉ちゃんを、選ぶ?」
「うん」

 天井の隙間に、小さな光が瞬いた。

「里子ちゃんがもう一度過ごしたかったときを、私たち拝ミ座が蘇らせる。あなたがその胸に大切に大切に仕舞っている、かけがえのない瞬間を」