◇◇◇

 桜の花びらが舞っていた。

 膨らむような柔い風を受ける度に、視界に薄桃色が巻き上がる。

 信号が青になるのを待って、その人の足は軽やかに横断歩道を渡っていく。

 薄く白んだ春の空。
 人生の晴れの日に相応しい明るい空。明日もこんないい天気に恵まれればいい。

 横断歩道の中央には川が流れ、水面に反射する陽の光がきらきらと眩しかった。

 胸から溢れそうな幸福を抱えながら、横断歩道を渡り終えようとする。

 瞬間、黒い影がもの凄いスピードでぶつかって──目の前は真っ暗になった。

  ◇◇◇

「ここが……」

 冗談のような美丈夫から、これまた冗談のような頼みごとを受けた翌日。

 休日の朝早くから身支度を済ませた遥は、ある建物の前に佇んでいた。

 駅前を通り抜け閑静な住宅街の通りを曲がった細道。
 徐々に枝分かれしていく道の先に、そこはあった。

 灰色の石垣に囲まれた建物は、長い歴史を感じさせる木造平屋建ての建物だ。
 濃紺の瓦屋根と濃茶色の木目に包まれ、どことなく重厚な空気が漂っている。

 入り口は細やかな彫り細工が施された引き戸で、郵便受けの上にはL字フックに掛けられた木彫りの看板が吊されていた。

 ──劇団拝ミ座──

 間違いない。
 昨日出逢った、あの人のいる場所だ。

「ふう……、よし」

 ぐっと両手に拳を握り、胸の中の勇気をかき集める。

 どきどきと逸る心臓の音を聞きながら、遥はインターホンに指を添えた。

 いやでも、と唐突に遥の胸に不安がよぎる。

 本当にこのまま彼に再度接触していいのだろうか。
 一度決めたこととはいえ、話を聞いたのは昨日の今日だ。
 もう一日くらいゆっくり考え結論を出したほうがいいのかもしれない。

 何より、特に秀でたところのない平々凡々な自分が、突然誰かに必要とされるなんて、そんなうまい話があるものなのだろうか。

 悪い思考が頭の中を旋回しはじめ、怖じ気づいたようにくるりと後ろを振り返る。

 しかしそこには、黒いスーツに派手な模様のシャツを着こんだ男が立ち塞がっていた。
 上背があり、眩しい日差しを容易く遮断するほどだ。

「おいお前」

 地を這うような低い声に、ひゅっと遥の喉が鳴った。

「何の用件だ。そこで何をしてやがる」

 逆光になっているはずの男の顔だが、鋭い眼光だけははっきりと目にできた。

 真っ赤なシャツの胸元はいくつかボタンが外され、大胆に開かれている。
 黒い短髪は後方へ流され、耳には金色のピアスが列を成して揺れていた。

 どう考えてもカタギの人ではない。

 どうしよう。
 どうしようどうしようどうしよう。

 何でもありません、お邪魔してすみません、どうか無事に帰してくださいと言いたくても、恐ろしすぎて声が出てこない。

 怪訝そうに顔をしかめた男が、遥に一歩近づく。
 恐怖で小さく震えていると、男の背後から明るい声が届いた。

「おーい、和泉(いずみ)ぃ」
「あん?」

 男の気が後ろに反れる。
 今だ。逃げよう。

 そう思った遥の視界に現れたのは、同じく黒スーツに派手な虎柄のシャツを着込んだ別の男だ。

 その顔に遥は覚えがあった。
 今のようにオールバックではなかったが、昨日にカフェレストランで話をしたあの人だ。

「どうしたの、そんなところで立ち止まっちゃってーって……あれ、君、もう来てくれたの?」
「……っ、あ」

 あなたも、ヤクザさんですか……!!

 昨夜とはまるで異なる格好の彼との再会に、遥は絶望で目の前が真っ暗になった。

  ◇◇◇

 ──わあ、素敵なウエディングドレスですね!
 ──あらあら、本当に?
 ──はい! スカート部分のふんわりした形がとっても素敵です。いいなあ、私もこんなウエディングドレスを着てみたいなあ。
 ──ふふ。実はこのドレスねえ、私が洋裁高専の卒業制作で作ったものなのよ。
 ──ええっ、本当ですか!? すごい!

 アルバムを開き和気藹々と賑わう茶の間に、新郎が呆れたようにお茶を運んでくる。

 ──そんなに気に入ったならさ、母さんに作ってもらえばいいんじゃないの? ウエディングドレス。

  ◇◇◇

 目尻に溜まった涙の熱さに気づき、意識がゆっくり引き上げられる。

 まぶたを開くのと同時に、遥は今見た夢の光景を反芻していた。

 素敵な団らんの時間だった。
 温かい日差しに包まれたリビングに、若い男女と母さんと呼ばれた女性。

 あの光景もまた、指輪の持ち主の大切なひと時だったのだろうか。

「おい。起きたぞ」
「……え」

 男の低い声が届き、心臓が跳ねる。

 どうやら敷き布団に寝かされていたことに気づき、遥は慌てて声の方向へ顔を向けた。

「ああ、よかったあ。目、覚めた?」

 今居る和室のすぐ向こうには台所らしい空間が見え、ペットボトルを手にした男二人の姿があった。

 双方とも髪は水気を含み、肩にタオルを掛けているものの僅かに雫が落ちている。
 こちらを振り返る姿は台所の窓から差し込む陽の光を背負い、きらきらと輝いて見えた。

 まるで、モデルみたいな美形二人だ。

 それでもあいにく今の遥は、それに見惚れる余裕は持ち合わせていない。

「気分はどう? 顔色がまだ悪いから、無理に動かない方がいいよ」
「ふ」
「ふ?」
「服を! 今すぐ! 着てください……っ!!」

 辛抱ならず、遥は叫んだ。

 何せこちらを見やる男二人は、どちらも上半身裸だったのだ。