◇◇◇
「お疲れさま。次の職場でも頑張ってね」
「はい。ありがとうございます」
深く一礼したあと、遥は人事部をあとにする。
今日は、遥の勤務最終日だった。
一昨日行われた所属部署での送別会も、とても嬉しかった。
たくさんの心温かな人たちにも和佳子まれていた。
けれどこれは、自分自身で選んだ新しい道だ。
このビルにももう来ることはないだろうなと思いながら、遥は玄関ホールの中央でくるりと辺りを見回した。
長年の感謝をこめて、べこりと頭を下げる。
そしてふと鞄の外ポケットに目がとまり、遥はその中に手を伸ばした。
「ふふ、可愛い便せん」
中には、桜色の便せんにしたためられた手紙が入っていた。
今日の昼休みにわざわざ遥の元へ届けられた、成美からの感謝の手紙だ。
今回の事件が無事に解決した翌日、遥は成美に亡き先輩が残した言づてのメモを渡していた。
言づての内容を遥は知らない。
それでも、それを目にした成美の温かな涙を見ることができた。
それだけで充分だった。
「小清水さん!」
「え?」
考えにふけっていた遥を呼び起こしたのは、ホール内に響いた男性の声だった。
振り返ると、同じ部署の一年後輩の社員がエレベーターホールから姿を見せていた。
「お疲れさま。大沢くんももう上がりなの?」
「はい。えっと、小清水さん、今日で出勤も最後なんですよね」
「うん。今まで大沢くんにも本当にお世話になったね。ありがとう」
「いえ、むしろ俺の方こそ、新人時代から小清水さんには本当に優しくしてもらって……」
話しながら、語尾が徐々に小さくなっていく。
いつもとどこか違う様子に小さく首をかしげると、後輩の彼はぱっと顔を上げた。
「あの、小清水さんが会社を辞めるのは、寿退社じゃなくて転職だっていうのは本当ですか?」
「はは。寿退社なんて、そんな要素は全くないよ」
「そ、そっか。よかった」
困ったように手を横に振ると、後輩は何故かほっとした表情をする。
そのとき、背後の自動ドアが機械的に開く音がした。
「えっと、驚かれるんじゃないかと思うんですけれど。実は俺、本当はずっと、小清水さんのことが……!」
「遥ちゃん。お疲れさま」
「……え?」
緊迫した空気に投げかけられた、朗らかな声。
後輩の彼とそろって振り返ると、そこには悠然とこちらへ歩みを寄せる雅がいた。
「み、雅さん。どうしてここに?」
「遥ちゃん、今日は出社最終日でしょ。せっかくの門出の日だから、慰労も込めて家まで送っていきたいなあって思ってね」
にこにこ微笑みを浮かべた雅が、断る間もなく遥の鞄を手に取る。
謎のイケメンの登場に呆気にとられた後輩だったが、我に返ったように口を開いた。
「小清水さん。この方はひょっとして、小清水さんの彼氏さん……?」
「いやいや、そんなわけないよ。この人は次の職場の関係でお世話になっている人でね」
「でも、前に小清水さんにウエディングドレスを持って迫っていたっていう男に、特徴がよく似てるような」
「ありゃ。俺のことそんなに噂になってたんだ。迷惑掛けてごめんね、遥ちゃん」
「み、雅さん……!」
ウエディングドレスの件は、一週間とぼけきることでどうにかほとぼりが冷めたというのに。
慌てて服の裾を引いた遥に、雅はどこか嬉しそうな顔をする。
そんな二人の様子をしばらく眺めた後輩は、乾いた笑いを浮かべた。
「どうやら、勝負に出るには遅すぎたみたいですね」
「うん。でも心配しないで。彼女は必ず、俺が守ってみせるから」
「そんな言葉もさらっと言っちゃうイケメンとか、ズルすぎません?」
何やら自分をおいて進んでいるらしい会話に、遥は一人首をかしげる。
そんな遥に向き直った後輩は、ぺこりと深く頭を下げた。
「小清水さん、今まで本当にお世話になりました。次の職場でも、無理だけはしないで頑張ってくださいね」
「ありがとう。大沢くんも元気でね」
「はい!」
元気に返事をしたあと、後輩は先に自動ドアをくぐりビルをあとにした。
残された遥と雅は、無言でその背中を見送る。
「さてと。俺たちも帰ろうか。遥ちゃん」
「あ、はい」
遥の鞄を肩に抱えた雅に促され、遥も家路についた。
外を出ると無数の街灯が辺りを照らし、星の瞬きも薄まるほどだった。
「この広場からこうして星を見ることも、きっとないんでしょうね」
「寂しい?」
「少しだけ。でも、後悔はしていません」
たくさんの優しい人との絆で生まれた空間。
別離は寂しさも浮かぶが、その先には新たな未来が待っている。
「これからは、劇団拝ミ座のお仕事に全力を注げますから。そう考えると、今からわくわくします」
「ん。そう言ってもらえて、俺も嬉しい」
ふわりと微笑んだ雅に、遥も照れくさげにはにかむ。
以前は隣を歩くことすら躊躇われた麗しの男性も、今はこうして共立つことがとても自然になっていた。
「そういえば、今回の切り裂き事件の犯人の猫又のことだけれど、しばらくは反省も贖罪のためにとある施設に送られることになったよ。ちゃんとやるべきことを終えれば、またこの街に戻ってこれるって」
「わあ、よかった。そのときはまた、ぶーちゃんさんにも会えるかもしれませんね」
和佳子と最期の時を過ごせたあと、猫又は大人しく雅たちの説得を聞き入れた。
今回の被害と事情を踏まえた上で今後の処置を考えると聞いていたので、遥はほっと胸をなで下ろす。
「今回の件、和泉のほうはブーブー文句垂れてたけどね。今回色々用意していたことも、結果として必要なくなったわけだから」
「和泉さんは、衣装の準備以外もマンションの一室の手配もしてくれていたんですもんね」
遥が和佳子に身体を明け渡し、生前の未練を解いたあの夜。
和佳子と猫又のふたりの最後のひとときをどの場所でも過ごせるようにと、実は様々な準備がされていた。
彼女が生前住んでいた自宅マンションも、どう手を回したのか同じマンションの別室を急遽用意していたらしい。
遥が猫缶から見ることができた内装も、可能な限り再現させていた。
最終的に二人が語らったのは終始歩道橋の上だったが、それでも最期の和佳子はとても幸せそうだったそうだ。
「今回の事件が解決したのも、遥ちゃんが和佳子さんと向き合って、受け容れてくれたおかげだね」
「そんな。私はただ信頼していただけですから。和佳子さんの誠実さと、雅さんとの約束を」
遥の言葉に、雅は目を瞬かせる。
あの夜、遥の身体を借りた和佳子が生前と同様に、歩道橋の階段で足を踏み外した。
そのことをある程度予想していた雅は遥にも話を共有し、いつもの笑顔で付け加えた。
でも、大丈夫。
俺が必ず君を守るから。
「まあそれも結局、あの猫又が先にクッションになってくれたんだけどね。実は雅サンも、頑張って階段まで駆けつけたんだけどなあ」
「でも、雅さんの言葉があったから私は、和佳子さんに身体を貸し出すことができたんですよ」
初対面から繰り返される、雅の真っ直ぐな約束の言葉。
その言葉があったから、階段から落ちる可能性に躊躇する心を支えてくれた。
「ありがとうございます雅さん。貴方のお陰で今回も、無事に和佳子さんを空へ送ることができました」
「……もしかしたら似ているかも、なんて、安直だったかな」
「え?」
「遥ちゃんは、本当に優しい子だね」
遥の小さな問いかけは、日だまりのような雅の笑顔に溶けていった。
すっと差し伸べられた大きな手のひらに、心臓がドキンと音を立てる。
「これからは正式な劇団拝ミ座の一員として。改めて、どうぞよろしくね」
「はい。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
大きな手のひらを、自分の手のひらでそっと掴む。
きゅっと握られた手は一回り大きく、少し温かい。
嬉しそうに細められた雅の瞳のなかに、きらきらと瞬く美しい星屑を見るようだった。
「お疲れさま。次の職場でも頑張ってね」
「はい。ありがとうございます」
深く一礼したあと、遥は人事部をあとにする。
今日は、遥の勤務最終日だった。
一昨日行われた所属部署での送別会も、とても嬉しかった。
たくさんの心温かな人たちにも和佳子まれていた。
けれどこれは、自分自身で選んだ新しい道だ。
このビルにももう来ることはないだろうなと思いながら、遥は玄関ホールの中央でくるりと辺りを見回した。
長年の感謝をこめて、べこりと頭を下げる。
そしてふと鞄の外ポケットに目がとまり、遥はその中に手を伸ばした。
「ふふ、可愛い便せん」
中には、桜色の便せんにしたためられた手紙が入っていた。
今日の昼休みにわざわざ遥の元へ届けられた、成美からの感謝の手紙だ。
今回の事件が無事に解決した翌日、遥は成美に亡き先輩が残した言づてのメモを渡していた。
言づての内容を遥は知らない。
それでも、それを目にした成美の温かな涙を見ることができた。
それだけで充分だった。
「小清水さん!」
「え?」
考えにふけっていた遥を呼び起こしたのは、ホール内に響いた男性の声だった。
振り返ると、同じ部署の一年後輩の社員がエレベーターホールから姿を見せていた。
「お疲れさま。大沢くんももう上がりなの?」
「はい。えっと、小清水さん、今日で出勤も最後なんですよね」
「うん。今まで大沢くんにも本当にお世話になったね。ありがとう」
「いえ、むしろ俺の方こそ、新人時代から小清水さんには本当に優しくしてもらって……」
話しながら、語尾が徐々に小さくなっていく。
いつもとどこか違う様子に小さく首をかしげると、後輩の彼はぱっと顔を上げた。
「あの、小清水さんが会社を辞めるのは、寿退社じゃなくて転職だっていうのは本当ですか?」
「はは。寿退社なんて、そんな要素は全くないよ」
「そ、そっか。よかった」
困ったように手を横に振ると、後輩は何故かほっとした表情をする。
そのとき、背後の自動ドアが機械的に開く音がした。
「えっと、驚かれるんじゃないかと思うんですけれど。実は俺、本当はずっと、小清水さんのことが……!」
「遥ちゃん。お疲れさま」
「……え?」
緊迫した空気に投げかけられた、朗らかな声。
後輩の彼とそろって振り返ると、そこには悠然とこちらへ歩みを寄せる雅がいた。
「み、雅さん。どうしてここに?」
「遥ちゃん、今日は出社最終日でしょ。せっかくの門出の日だから、慰労も込めて家まで送っていきたいなあって思ってね」
にこにこ微笑みを浮かべた雅が、断る間もなく遥の鞄を手に取る。
謎のイケメンの登場に呆気にとられた後輩だったが、我に返ったように口を開いた。
「小清水さん。この方はひょっとして、小清水さんの彼氏さん……?」
「いやいや、そんなわけないよ。この人は次の職場の関係でお世話になっている人でね」
「でも、前に小清水さんにウエディングドレスを持って迫っていたっていう男に、特徴がよく似てるような」
「ありゃ。俺のことそんなに噂になってたんだ。迷惑掛けてごめんね、遥ちゃん」
「み、雅さん……!」
ウエディングドレスの件は、一週間とぼけきることでどうにかほとぼりが冷めたというのに。
慌てて服の裾を引いた遥に、雅はどこか嬉しそうな顔をする。
そんな二人の様子をしばらく眺めた後輩は、乾いた笑いを浮かべた。
「どうやら、勝負に出るには遅すぎたみたいですね」
「うん。でも心配しないで。彼女は必ず、俺が守ってみせるから」
「そんな言葉もさらっと言っちゃうイケメンとか、ズルすぎません?」
何やら自分をおいて進んでいるらしい会話に、遥は一人首をかしげる。
そんな遥に向き直った後輩は、ぺこりと深く頭を下げた。
「小清水さん、今まで本当にお世話になりました。次の職場でも、無理だけはしないで頑張ってくださいね」
「ありがとう。大沢くんも元気でね」
「はい!」
元気に返事をしたあと、後輩は先に自動ドアをくぐりビルをあとにした。
残された遥と雅は、無言でその背中を見送る。
「さてと。俺たちも帰ろうか。遥ちゃん」
「あ、はい」
遥の鞄を肩に抱えた雅に促され、遥も家路についた。
外を出ると無数の街灯が辺りを照らし、星の瞬きも薄まるほどだった。
「この広場からこうして星を見ることも、きっとないんでしょうね」
「寂しい?」
「少しだけ。でも、後悔はしていません」
たくさんの優しい人との絆で生まれた空間。
別離は寂しさも浮かぶが、その先には新たな未来が待っている。
「これからは、劇団拝ミ座のお仕事に全力を注げますから。そう考えると、今からわくわくします」
「ん。そう言ってもらえて、俺も嬉しい」
ふわりと微笑んだ雅に、遥も照れくさげにはにかむ。
以前は隣を歩くことすら躊躇われた麗しの男性も、今はこうして共立つことがとても自然になっていた。
「そういえば、今回の切り裂き事件の犯人の猫又のことだけれど、しばらくは反省も贖罪のためにとある施設に送られることになったよ。ちゃんとやるべきことを終えれば、またこの街に戻ってこれるって」
「わあ、よかった。そのときはまた、ぶーちゃんさんにも会えるかもしれませんね」
和佳子と最期の時を過ごせたあと、猫又は大人しく雅たちの説得を聞き入れた。
今回の被害と事情を踏まえた上で今後の処置を考えると聞いていたので、遥はほっと胸をなで下ろす。
「今回の件、和泉のほうはブーブー文句垂れてたけどね。今回色々用意していたことも、結果として必要なくなったわけだから」
「和泉さんは、衣装の準備以外もマンションの一室の手配もしてくれていたんですもんね」
遥が和佳子に身体を明け渡し、生前の未練を解いたあの夜。
和佳子と猫又のふたりの最後のひとときをどの場所でも過ごせるようにと、実は様々な準備がされていた。
彼女が生前住んでいた自宅マンションも、どう手を回したのか同じマンションの別室を急遽用意していたらしい。
遥が猫缶から見ることができた内装も、可能な限り再現させていた。
最終的に二人が語らったのは終始歩道橋の上だったが、それでも最期の和佳子はとても幸せそうだったそうだ。
「今回の事件が解決したのも、遥ちゃんが和佳子さんと向き合って、受け容れてくれたおかげだね」
「そんな。私はただ信頼していただけですから。和佳子さんの誠実さと、雅さんとの約束を」
遥の言葉に、雅は目を瞬かせる。
あの夜、遥の身体を借りた和佳子が生前と同様に、歩道橋の階段で足を踏み外した。
そのことをある程度予想していた雅は遥にも話を共有し、いつもの笑顔で付け加えた。
でも、大丈夫。
俺が必ず君を守るから。
「まあそれも結局、あの猫又が先にクッションになってくれたんだけどね。実は雅サンも、頑張って階段まで駆けつけたんだけどなあ」
「でも、雅さんの言葉があったから私は、和佳子さんに身体を貸し出すことができたんですよ」
初対面から繰り返される、雅の真っ直ぐな約束の言葉。
その言葉があったから、階段から落ちる可能性に躊躇する心を支えてくれた。
「ありがとうございます雅さん。貴方のお陰で今回も、無事に和佳子さんを空へ送ることができました」
「……もしかしたら似ているかも、なんて、安直だったかな」
「え?」
「遥ちゃんは、本当に優しい子だね」
遥の小さな問いかけは、日だまりのような雅の笑顔に溶けていった。
すっと差し伸べられた大きな手のひらに、心臓がドキンと音を立てる。
「これからは正式な劇団拝ミ座の一員として。改めて、どうぞよろしくね」
「はい。こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」
大きな手のひらを、自分の手のひらでそっと掴む。
きゅっと握られた手は一回り大きく、少し温かい。
嬉しそうに細められた雅の瞳のなかに、きらきらと瞬く美しい星屑を見るようだった。