◇◇◇
「ああ、そうだった」
胸の中の霧が晴れた気がした。
視線の先に広がる星空は、まるで夢のように美しい。
「ここで階段を踏み外して……私、死んじゃったんだね」
「……」
「大好きな猫缶を買って帰るって、約束したのにね」
「……」
「ごめんね。ごめんなさい、ぶーちゃん……っ」
語尾が震える謝罪の言葉に、和佳子を支える相手は黙ったままだった。
それでも、和佳子は繰り返し謝り続ける。
階段を踏み外し落下しかけた彼女の身体は、急に訪れた柔らかな温もりに救われた。
いつも膝の上に乗せていたときとは桁違いに大きく膨れ上がった、白黒のブチ猫だ。
歩道橋の階段の幅をやや窮屈そうにはみ出した状態で、憮然とした顔でその場に居座っている。
和佳子の落下を今度こそ阻止するために、その巨大な身体でクッションになってくれたのだ。
あやかしの証しである、二股に分かれた尻尾を揺らしながら。
「ぶーちゃん。ぶーちゃんは、私のためと思って、こんなことをしていたんでしょう」
猫又の頬にそっと手を寄せると、大きくなった三角耳がピクリと震える。
生前はこんな風に撫でさせてくれることも稀だった。
和佳子が心底疲れているときや落ち込んでいるときだけ、全てを察したようなタイミングでそっと身を寄せに来てくれた。
いつも不平不満を持っていそうなむすくれた表情。
その奥にある優しい心に、誰よりも救われていたのは和佳子だ。
「私が仕事で疲れていたのを知っていたから。同じ仕事のメンバーのせいで私が死んでしまったと思ったんでしょう」
「……」
「でも違うよ。あのメンバーはみんなひとりひとり精一杯プロジェクトを頑張ってくれていたの。私がここで階段を踏み外したことと、彼女たちは何も関係ないんだよ」
「聞きとうない」
それが、猫又が初めて和佳子に掛けた言葉だった。
「そんな話など、聞きとうない。よしんばそこの術者の男と話を合わせたのであろう。本当は会社の人間に追い詰められていたのに、わらわを鎮めるために適当な嘘をついているのであろう」
「違う。違うよ。私、ぶーちゃんに嘘なんて一つも」
「でも約束は違えた」
心の奥底から絞り出された声色に、和佳子がはっと目を見開く。
「あの日の朝、和佳子は言っていた。今日で一段落付く予定だから、好物の猫缶を買ってくるからねと。ここまで頑張れたのはわらわのおかげだと。わらわに、名をつけた、ときだって……」
「っ……」
「なのになんで! わらわはお主を待っていた! それなのに……どうしてだ!」
「ぶーちゃん!」
和佳子の伸ばした手が、猫又の首元をぎゅうっと抱き寄せる。
次の瞬間人間の数倍はあろうという巨体は、煙に巻かれたように消えてなくなった。
残ったのは和佳子の膝に乗るほどの大きさになった、小さな二股尻尾のブチ猫だ。
その身体を両腕で優しく包み込むようにして、和佳子は頭を垂れていた。
「ごめんね。私、ぶーちゃんを拾ったときに約束したのにね。これからはずっと一緒だよって、もう寂しくないよって」
和佳子の言葉にブチ猫はきっと非難する目で見上げる。
その懐かしい眼差しに、和佳子は思わず笑みを浮かべた。
「ぶーちゃんを拾った時ね。本当に寂しかったのは私の方だったんだよ。仕事は大好きだったし可愛い後輩たちもいたけれど……時々すごく孤独だった。だからその想いを紛らわせたくて、ますます仕事を頑張って、身体を壊しかけたりして」
「……」
「ぶーちゃんに出逢ってから私、変われたの。この仕事を頑張ってぶーちゃんのおもちゃを買おうとか、早く帰ればぶーちゃんと一緒に過ごせるとか。ぶーちゃんが私の毎日に彩りをくれた。ぶーちゃんのおかげで私、すごく幸せだった」
「……当然だろう。他でもないわらわがそばにいたのだから」
ふてくされたように告げるブチ猫に、和佳子の目が細められる。
その目尻に、涙の温もりがわずかに滲んだ。
「お主がいなくなってから、わらわはまた野良に逆戻りだ。お主が妙な食料を与え続けたおかげで、わらわの舌はすっかり肥えてしまったぞ。どうしてくれる」
「ふふ。最初に逢ったときは、どんな餌も全然口をつけてくれなかったよね」
そう言って、和佳子は懐から何かをそっと取りした。
一瞬月明かりに反射したそれに、ブチ猫は瞬く間に目を見開く。
「今さっき、コンビニの店員さんに言われたんだ。この猫缶を買うときの私、いつもとても嬉しそうだったって」
「嬉しそう?」
「だってこの猫缶を初めてぶーちゃんが口にしてくれたとき、本当に本当に嬉しかったから」
和佳子は慣れた手つきで猫缶の封を開けると、自分の手のひらに四半分を乗せた。
「本当はもう一度、ぶーちゃんがこの猫缶を食べる姿を見たかった。それが私の残した未練なの」
「ずいぶんと安い未練だ」
「そんなことないよ。大切な家族との食事の時間だもの」
「和佳子……」
ぐ、と猫又の眉間に力が入る。
ふてぶてしい態度の仮面を被り、斑猫は向けられた餌にそっと舌を伸ばした。
初めてこの餌に口をつけたときの光景がよみがえる。
猫又に食事は不要だ。
この尾を見れば、通常の猫ではないことは和佳子にも容易に判断はついた。
それでもこの猫又を助けたいと思った。
ただ、それだけのことだ。
「……しょっぱい」
「え」
「しょっぱいぞ。なんだこれは。いつもと味が違うぞ」
「そ、そうかな? でも、いつもと同じ猫缶のはず……」
そこまで話す和佳子は、続く言葉を呑み込んだ。
ぺろぺろと丁寧に餌を食すブチ猫は、頑なに顔を上げようとしない。
「まったく。最後の食事も満足に出せないとは。お主は本当に半人前だな」
「うん。本当、そうだね」
「本当に……お主という奴は……」
猫缶を開けたあとも、ブチ猫は差し出された手のひらに静かに寄り添っていた。
時折そっと撫でつける手の温もりを忘れぬよう、胸にしっかり刻みつけながら。
「ああ、そうだった」
胸の中の霧が晴れた気がした。
視線の先に広がる星空は、まるで夢のように美しい。
「ここで階段を踏み外して……私、死んじゃったんだね」
「……」
「大好きな猫缶を買って帰るって、約束したのにね」
「……」
「ごめんね。ごめんなさい、ぶーちゃん……っ」
語尾が震える謝罪の言葉に、和佳子を支える相手は黙ったままだった。
それでも、和佳子は繰り返し謝り続ける。
階段を踏み外し落下しかけた彼女の身体は、急に訪れた柔らかな温もりに救われた。
いつも膝の上に乗せていたときとは桁違いに大きく膨れ上がった、白黒のブチ猫だ。
歩道橋の階段の幅をやや窮屈そうにはみ出した状態で、憮然とした顔でその場に居座っている。
和佳子の落下を今度こそ阻止するために、その巨大な身体でクッションになってくれたのだ。
あやかしの証しである、二股に分かれた尻尾を揺らしながら。
「ぶーちゃん。ぶーちゃんは、私のためと思って、こんなことをしていたんでしょう」
猫又の頬にそっと手を寄せると、大きくなった三角耳がピクリと震える。
生前はこんな風に撫でさせてくれることも稀だった。
和佳子が心底疲れているときや落ち込んでいるときだけ、全てを察したようなタイミングでそっと身を寄せに来てくれた。
いつも不平不満を持っていそうなむすくれた表情。
その奥にある優しい心に、誰よりも救われていたのは和佳子だ。
「私が仕事で疲れていたのを知っていたから。同じ仕事のメンバーのせいで私が死んでしまったと思ったんでしょう」
「……」
「でも違うよ。あのメンバーはみんなひとりひとり精一杯プロジェクトを頑張ってくれていたの。私がここで階段を踏み外したことと、彼女たちは何も関係ないんだよ」
「聞きとうない」
それが、猫又が初めて和佳子に掛けた言葉だった。
「そんな話など、聞きとうない。よしんばそこの術者の男と話を合わせたのであろう。本当は会社の人間に追い詰められていたのに、わらわを鎮めるために適当な嘘をついているのであろう」
「違う。違うよ。私、ぶーちゃんに嘘なんて一つも」
「でも約束は違えた」
心の奥底から絞り出された声色に、和佳子がはっと目を見開く。
「あの日の朝、和佳子は言っていた。今日で一段落付く予定だから、好物の猫缶を買ってくるからねと。ここまで頑張れたのはわらわのおかげだと。わらわに、名をつけた、ときだって……」
「っ……」
「なのになんで! わらわはお主を待っていた! それなのに……どうしてだ!」
「ぶーちゃん!」
和佳子の伸ばした手が、猫又の首元をぎゅうっと抱き寄せる。
次の瞬間人間の数倍はあろうという巨体は、煙に巻かれたように消えてなくなった。
残ったのは和佳子の膝に乗るほどの大きさになった、小さな二股尻尾のブチ猫だ。
その身体を両腕で優しく包み込むようにして、和佳子は頭を垂れていた。
「ごめんね。私、ぶーちゃんを拾ったときに約束したのにね。これからはずっと一緒だよって、もう寂しくないよって」
和佳子の言葉にブチ猫はきっと非難する目で見上げる。
その懐かしい眼差しに、和佳子は思わず笑みを浮かべた。
「ぶーちゃんを拾った時ね。本当に寂しかったのは私の方だったんだよ。仕事は大好きだったし可愛い後輩たちもいたけれど……時々すごく孤独だった。だからその想いを紛らわせたくて、ますます仕事を頑張って、身体を壊しかけたりして」
「……」
「ぶーちゃんに出逢ってから私、変われたの。この仕事を頑張ってぶーちゃんのおもちゃを買おうとか、早く帰ればぶーちゃんと一緒に過ごせるとか。ぶーちゃんが私の毎日に彩りをくれた。ぶーちゃんのおかげで私、すごく幸せだった」
「……当然だろう。他でもないわらわがそばにいたのだから」
ふてくされたように告げるブチ猫に、和佳子の目が細められる。
その目尻に、涙の温もりがわずかに滲んだ。
「お主がいなくなってから、わらわはまた野良に逆戻りだ。お主が妙な食料を与え続けたおかげで、わらわの舌はすっかり肥えてしまったぞ。どうしてくれる」
「ふふ。最初に逢ったときは、どんな餌も全然口をつけてくれなかったよね」
そう言って、和佳子は懐から何かをそっと取りした。
一瞬月明かりに反射したそれに、ブチ猫は瞬く間に目を見開く。
「今さっき、コンビニの店員さんに言われたんだ。この猫缶を買うときの私、いつもとても嬉しそうだったって」
「嬉しそう?」
「だってこの猫缶を初めてぶーちゃんが口にしてくれたとき、本当に本当に嬉しかったから」
和佳子は慣れた手つきで猫缶の封を開けると、自分の手のひらに四半分を乗せた。
「本当はもう一度、ぶーちゃんがこの猫缶を食べる姿を見たかった。それが私の残した未練なの」
「ずいぶんと安い未練だ」
「そんなことないよ。大切な家族との食事の時間だもの」
「和佳子……」
ぐ、と猫又の眉間に力が入る。
ふてぶてしい態度の仮面を被り、斑猫は向けられた餌にそっと舌を伸ばした。
初めてこの餌に口をつけたときの光景がよみがえる。
猫又に食事は不要だ。
この尾を見れば、通常の猫ではないことは和佳子にも容易に判断はついた。
それでもこの猫又を助けたいと思った。
ただ、それだけのことだ。
「……しょっぱい」
「え」
「しょっぱいぞ。なんだこれは。いつもと味が違うぞ」
「そ、そうかな? でも、いつもと同じ猫缶のはず……」
そこまで話す和佳子は、続く言葉を呑み込んだ。
ぺろぺろと丁寧に餌を食すブチ猫は、頑なに顔を上げようとしない。
「まったく。最後の食事も満足に出せないとは。お主は本当に半人前だな」
「うん。本当、そうだね」
「本当に……お主という奴は……」
猫缶を開けたあとも、ブチ猫は差し出された手のひらに静かに寄り添っていた。
時折そっと撫でつける手の温もりを忘れぬよう、胸にしっかり刻みつけながら。