翌日。

 太陽が高々と上がった昼食休みの頃合いに、遥は一人ある場所に佇んでいた。

 時折すれ違う人の視線を背中に感じながらも、その手に握ったあるものにぎゅっと力を込める。

 握っているのは、つい先ほど隣のコンビニで購入したばかりの桃の缶詰だった。
 果物の中でいちばん好きなのでそれにした。

 そして今遥が見つめる先は、さわさわと風に草が揺れる側溝だ。

 日中ということもあり、昨夜よりは視界も随分とよく、側溝の底に流れる水の流れも目視することができる。

 とはいえ斜面はやはり急勾配で、側溝の下までは二メートルほどはあった。
 下手に立ち入れば転がってしまいそうな溝の手前には、落下防止の柵が設置されている。

「でも、大好きな桃の缶が落ちてしまったのだとしたら……慌てて取りに行くのはそこまで不振ではない……よね?」

 いや駄目でしょ。

 もう一人の自分の声が聞こえたが、遥はあえて耳を塞いだ。

 幸いこの辺りは、車通りは多いものの歩行者はさほどでもない。
 遥一人が側溝に拾い物に入ったとしても、そう簡単に騒ぎにはならないだろう。

 そこで、二ヶ月前になくなった「別の缶」を見つけたとしても、それはただの偶然である。

「よし。ではさっそく」

 むん、と気合いを入れた遥が、手にした桃缶をぱっと側溝に手放す。

 鬱蒼と生えた草の影に消えていった缶詰を見送ったあと、遥は意を決して柵を乗り越えた。

「怪我をしないように、無茶をしないように、慎重に、慎重に……」

 自分に言い聞かせるようにして、少しずつ急斜面の地面を下っていく。

 時折草の表面に滑りそうになるが、それも持ちこたえた。足元の警戒を怠らない。
 決して怪我をしない。

 自分の身体もちゃんと大事にすると、雅と約束したからだ。

「缶詰……落としたとしたら多分、この辺りに……?」

 歩道から見えうる限りでも確認したが、やはり溝の中には缶詰の姿はなかった。
 となると、落とした缶詰は生え広がった草の中にあるのだろう。

 骨が折れる作業だが、できない作業ではない。

 何より、和佳子が落下させた猫缶をみつけることができれば、自分にも何かできることがあるかもしれないのだ。

「はーるーかーちゃーんー?」
「ひえええっ!?」

 晴天にもかかわらず、雷が落ちたかのような響きだった。

 激しく胸を叩く心臓を感じながら、恐る恐る背後を振り返る。

 柵の向こう側には、あってはいけない人物の姿があった。

 逆光で薄暗いはずの面差しが、今は不思議とはっきり浮き上がって見える。
 端正な顔の人の不穏な表情は、想像以上に威力のあるものだった。

「こんな道の脇で会うなんて奇遇だねえ。今は会社のお昼休憩の時間かな。ご飯はもう済ませたの?」
「は、はい、あのその。も、桃の缶詰を、うっかり落としてしまいまして……っ」
「あー、いいねえ桃。俺も好きだよ。桃っていいよねえ、ついお昼にむしゃっと食べたくなっちゃうよね?」

 ああああ。まずい。怒ってる。

 雅さん、間違いなく怒ってる!

「……すみません。実は、昨日コンビニの方から聞いた猫缶のことが、どうしても気になってしまったんです……」
「だろうねえ。まさかと思ったけれど、一応立ち寄ってみて正解だったな」

 小さなため息の気配が届き、びくっと肩を震わせる。

 続く叱責の言葉を身を固めて待っていると、柵を越え草むらの坂を降りてくる足音に気づいた。

 気づけば目の前まで降りてきていた雅に、遥は目を丸くする。

「み、雅さん?」
「怪我は? 転んで足をひねったとか、草で手足を切ったとか、妙な悪霊にちょっかい出されたとかはない?」
「だ、大丈夫です。足元もスニーカーに履き替えましたし、慎重に慎重を重ねて下ってきましたから」

 いつもの革靴では動きにくいかもしれないと、万全を期して用意してきた装備だった。

「雅さんと約束しましたから。自分の身体もきちんと大事にするって」

 遥の隣に立つ雅を、遥は真っ直ぐ見つめる。

 向けられた薄茶色の瞳の中に、小さく揺れる光が見えた。

「心配をかけてしまってすみませんでした。和佳子さんが落とした猫缶を見つけることができれば、彼女が残した想いを知ることができるんじゃないかと思ったんです」

 生前の和佳子が愛猫への想いを乗せて購入していた猫缶。

 それが少しでも残っているのならば、遥の力で読み取ることができるかもしれない。

 日が経っているため確証はなかったが、可能性があるのならばどんなに小さな未練の欠片も拾い集めたかった。

「少しでも役に立ちたかったんです。私も劇団拝ミ座の一員、ですから」
「……うん。そうだね」

 ふっと口元に浮かんだ微笑みに、遥の身体の力するりとほどける。

 すると雅の両手が伸び、遥の両頬をむにっと挟み込んだ。
 唇がまるでくちばしのように尖らされ、遥は一瞬目を丸くする。

「み、み、みやびひゃんっ?」
「でも、俺らに内緒でここに来たってことは、遥ちゃんも感じてたんだよね? もしかしたら俺らに止められるんじゃないかって」

 う。確かに、それは否めない。

「一人でできることなら俺らの手を煩わせなくてもと思ったのかもだけど、そういうところでの遠慮は要らない。だって俺らは、仲間なんだからさ」
「……!」

 仲間。
 その言葉の誠実さに、胸がじんと熱くなる。

 言葉に詰まった遥を見透かしたように、雅は包んだままの両頬を再度むにっと寄せて笑顔を見せた。

「さてと。遥ちゃんの昼食を食べる時間も確保しなくちゃだし。雅さんも一緒にちゃっちゃと猫缶を探しますか」