そのときだった。

 突然何者かからの声がかかり、三人は揃って後ろを振り返る。

 そこには、大学生とおぼしき若い男の子が立っていた。
 暗めの茶髪を適度に遊ばせ、私服もどこかセンスよく着崩している。

「突然すんません。もしかしてあなたたちも、亡くなられた方のお知り合いですか」
「は、はい。まあ」
「そっかあ。いい人そうでしたもんね、あの人」

 そう言うと若者はそっと遥の隣に屈み、献花の脇にそっと何かを供えた。
 小さな花束とともに、硬い音を立ててカコンと地面に音が鳴る。

 青年の手から離れたそれに、遥は思わず目を丸くした。

「それはもしかして、缶詰ですか?」
「はい。俺、そこのコンビニのアルバイトなんすけど、よく仕事帰りに寄ってもらってたんすよ。この猫缶を買いに」
「猫缶?」

 目をぱちくりさせる遥に、コンビニ店員の青年は頷いた。

「お客さん、食にうるさい猫を飼っていたみたいっすね。この缶詰って結構値が張るんすけど、これじゃなくちゃ絶対駄目って日があるらしくて。そんな日は夜でもよくこのコンビニに来ていました。亡くなったあの日も」
「そうだったんですか……」
「お兄さん、よく事情をご存じですね。和佳子さんとはよくお話をされていたんですか?」

 遥の受け答えを引き継ぐように、雅が自然に会話へと加わる。

 突然向けられた長身イケメンの微笑みに、コンビニ店員の青年は一瞬虚を突かれたような顔をした。

「ああいや、そんな大した関係じゃあ。ただ彼女、二ヶ月くらい前に、買ったばかりの猫缶をすぐに買い直しに来たことがあったんすよね」

 つい先ほど購入したはずの猫缶を再びレジに置いた彼女は、照れくさそうに言ったらしい。

 買ったばかりの猫缶を、歩道橋前の側溝に転がり落としてしまった。
 こんなふうにドジばかりだから、猫にも怒られてばかりなんですよね、と。

 そのことがきっかけで、夜の来店で顔を見るたびに短い会話をするようになったらしい。

 そのあと、手を合わせた青年は勤務先のコンビニへと向かっていった。

「きっと和佳子さんは、亡くなったあの晩も、猫さんのためにコンビニに行っていたんですね」

 思いがけず紐解けた疑問の答えに、遥はか細く告げた。

 遺された愛猫はどうなったのだろう。
 彼女の家族に引き取られたんだろうか。

 ともに過ごしていた主人が突然いなくなり、ショックを受けるのは人間だけではないはずだ。

 事情をろくに把握できないまま離ればなれになってしまった和佳子の愛猫を思い、胸が苦しくなる。

「雅さん。和佳子さんがこの世に遺した未練は、一緒に暮らしていた猫さんに関することなんじゃないでしょうか」
「うん。確かに、その可能性は高いね。ひとまず明日、和佳子さんの飼い猫について調べてみるよ」
「はい。よろしくお願いします、雅さん」

 仕事で多忙を極めていた和佳子は、帰宅時に愛猫の好物を購入した。
 きっと喜ぶ愛猫の様子を思い浮かべ階段を上っていたに違いない。

 次の瞬間、誤って階段を踏み外してしまうなんて夢にも思わずに。

「となれば、駅前広場で起きていた切り裂き事件は、全くの別件か」

 和泉の鋭い指摘に、遥もはっと息をのむ。

 そうだ。
 和佳子の本来の未練が愛猫への思いだとすれば、切り裂き事件は全く無関係の事件ということになる。
 妙にタイミングが合致しすぎているのは、ただの偶然だったのだろうか。

「別件だとしても、そちらはそちらできちんと解決しないといけないね。すでに和佳子さんはその事件のことを知っていて、胸を痛めてる」

 迷いなく言い放つ雅に、遥はこくりと頷く。

 愛猫のこともそうだが、切り裂き事件のことも解決しない限り、和佳子さんはきっと安心して空へ向かえない。

 とはいえ成美から聞き出した限りでは、切り裂き事件の犯人の手がかりは全くと言っていいほど残っていない。
 だからこそ、先月亡くなったばかりの和佳子が無闇に疑われたのだ。

 目の前の二つの未練には、まだまだ薄ぼんやりと靄がかかっているような心地がする。

 けれど、その靄を晴らすために、霊視もできない自分にいったい何ができるのだろう。

「今日はもう遅い。そろそろ帰ろう」
「……はい」

 穏やかな笑顔で雅に促され、遥は力なく笑みを浮かべる。

 自分の無力さを痛感しながら、遥は先ほどの青年が入っていったコンビニへ視線を向けた。

 その前方には、夜風に草を揺らす急傾斜の坂に挟まれた、深い側溝があった。