「少し、落ち着きましたか」
「はい……本当に、お世話をおかけしました」

 その後、遥と雅は顔色の悪い成美をつれて馴染みのお店を訪れた。
 雅とも以前話し合いの場として選んだ、カフェレストランだ。

 角の席に腰を下ろし温かな紅茶に口をつけた頃には、成美も大分落ち着いた様子だった。

「先ほどは取り乱してすみませんでした。遥さん、先ほどは庇っていただいて本当にありがとうございました」
「どういたしまして。もうかさぶたになってますから、本当に気にしないでくださいね」

 遥は笑顔でそう言うと、成美は弱々しく頷いた。

 しばらく沈黙が落ちる。
 さりげない小花の装飾が施されたハンドルを指で撫でたあと、成美は意を決したように口を開いた。

「実は……さっきのような切り裂き被害は、今回が初めてではないんです」
「えっ」

 思いがけない言葉に、遥は声を漏らした。

「私自身が狙われたのは今回が初めてです。でも、私が所属している部署の社員が、続けざまに今回のような切り裂き被害に遭っているんです。私を入れて、もう五人目でしょうか」
「そ、そうだったんですか?」
「はい。といっても、今までは怪我をするまでは至りませんでした。気づいたら鞄が裂かれてるとか、服が破れてるとか、物の被害ばかりだったです。どれも自分で知らぬ間につけてしまった傷かが判断しにくくて、みんな警察にも相談していなかったんです」

 なるほど。
 今回のように加害相手の姿を誰一人見ていないならば、なおのこと事件沙汰にするのも躊躇われてしまうかもしれない。

「でも、もしかしたら成美さんは、犯人に心当たりがあるんじゃないのかな」

 運ばれてきた抹茶ケーキを頬張るなり、雅は穏やかに告げた。

 淀みのない真っ直ぐな問いに、遥も成美も息をのむ。

「俺の勘違いだったらごめんね。でも、さっきの君の口ぶりが、何かを知っているように聞こえたから」
「み、雅さん」

 それは確かに、遥も感じ取ってはいた。

 成美は先ほど、しきりに『自分のせいで』と言っていた。
 その言葉に込められた熱量は、果たして遥が庇って負傷したことだけを示していたのだろうか、と。

「……仰るとおりです。実は最近、部署内で嫌な噂が立つようになっていたんです」
「噂ですか?」
「二ヶ月前に、同じ部署の先輩が亡くなったんです。帰宅途中に、歩道橋の階段から誤って転落して……突然の訃報でした」

 思いがけない報に、遥が目を見張る。

 声を震わせながらも、成美はしっかりを話を進めた。

「とてもいい先輩だったんですよ。誰にも分け隔てなく優しくて、仕事も優秀で、入社したときから私の憧れの女性でした」
「そうだったんですね」
「それなのに。あんなに素敵な人はいないのに。最近の切り裂き事件が先輩の仕業じゃないかという噂が流れ始めたんです。先輩の霊が、同じ部署だった社員に憑いて回っているんじゃないかって……!」

 語尾を大きく震わせた成美の瞳から、再び涙の粒がぽろぽろと落ちていく。

「もともと先輩のことをよく思っていなかった人が話し始めた、でっち上げです。でも、不安な社員たちがそれをまことしやかに広め始めてしまったんです。同じ部署にしか被害がないこともその証拠だって。そんなことあるわけないって思っています。でももしそれが本当だとしたら、私、どうしたらいいんだろうって……!」
「成美さん……」

 小さく名を呼ぶ遥に、成美ははっと我に返った様子だった。

「急に熱くなってしまってすみません。実は今朝も近くの席でそんな話になっていて、私、それがとても嫌で……」
「成美さん、亡くなった先輩のことが大好きなんですね」
「はい。大好きですし、今でも、とてもとても尊敬しています」

 迷う様子なく頷く成美に、遥は笑顔で頷く。

 こんなに後輩に親しまれていた先輩は、きっととてもいい人だったのだろう。
 そんな温かな絆を素直に羨ましく思う。

「私、なんとなくですけれどわかるんです。この傷をつけたのは、成美さんの先輩ではないってこと。その先輩もきっと、成美さんのことが大好きだったんだってことも」

 気づけば差し伸べていた手が、成美の手をそっと包みこんでいた。

「だから、どうか気を病まないでください。きっと先輩も、成美さんのそんな表情を望んでいませんよ」
「っ……」

 ぐっと口元を締めた成美が、目元を擦りながら何度も首を縦に振る。

 そんな二人の様子を、雅は穏やかな眼差しで見守っていた。 



 カフェをあとにした遥たちは、環状線駅まで成美を見送った。

 彼女の話では、切り裂き被害の現場は駅前広場と決まっているらしく、駅まで来ることができればこれ以上の被害は心配ないようだ。

 その後、ゆっくり話す場を望んだ結果、遥は雅とともに線路沿いの散歩道を歩いている。
 涼しく肌を撫でる夜風に、遥はふーっと長い息を吐いた。

「雅さん、今日は本当にありがとうございました。雅さんがいなかったら私、きっとわたわた慌てふためいていただけでした」
「そんなことないよ。俺は時々口を挟んでただけで、成美さんの心を落ち着けたのも辛い想いを吐き出すきっかけを作れたのも、全部遥ちゃんだからね」

 隣を歩く雅が、優しい笑みを向けてくれる。

 そんな表情を向けられるたびに、自分が少しでも誰かの力になれた気がして、胸がくすぐったかった。

「それはそうと、雅さんは今日はどうしてあの駅前広場にいらっしゃったんですか? 何か別に用事が?」
「んー。実はちょうど、あの駅前広場に関わる依頼があってね。偵察もかねてさっそく向かったわけだけど……一足遅かったみたいだな」

 そう言うと、雅は歩みを止め遥の肩に手を添えた。

「ごめんね。俺がもっと早く駆けつけていれば、こんな傷を負わせることもなかったのに」
「い、いいえそんな。もう痛みもないくらい、小さな小さな傷なので……!」

 負傷した遥の右肩は、今もなお雅の上着が掛けられている。

 確かに傷痕があるがちょっとしたひっかき傷のようなもので、もうほとんど気にならない程度のものだ。

「でも、約束したからさ。命に代えても君を守るって」

 真っ直ぐ注がれた眼差しとともに告げられたのは、幾度となく告げられている約束の言葉だった。

「今回のは完全に俺の落ち度だ。遥ちゃんは元々感受性の高い子なんだから、こういった事故も当然予想するべきだったのに」
「雅さんに落ち度なんでありませんよ。私が判断して、私が行動した結果です」

 きっぱり言い放った遥に、雅は小さく目を見張った。

「今回のことも、むしろよかったと思っています。こんなに小さな傷一つで、成美さんを守ることができたんですから」
「そっか。遥ちゃんは、強いんだね」
「え……、強い?」

 あまりに自分と縁遠い言葉に、思わず聞き返してしまう。

 疑問に目を瞬かせる遥に、雅はふっと笑みを漏らした。

「遥ちゃんは、とても強いよ。他の人のために、そんなに一途に、一生懸命になれる」
「……!」
「でも、これからは自分の身体もちゃんと大事にすること。それだけは、忘れないでいて」
「は、はい。わかりました」
「ん。約束ね」

 満足げな笑みを浮かべた雅は、ごく自然な動作で遥の小指と自分のそれを絡めた。

 絡まった小指は遥のものよりすらりと長くて、関節がはっきり感じられて、皮膚が少し硬い。

 あまり考えないようにしていた雅の男性の部分を嫌でも感じてしまい、遥はかあっと頬に熱が集まってしまう。

「え、え、えっと。そうですそうです。成美さんがお話ししていた、亡くなった先輩のことなんですが……!」

 互いの小指が無事に離れたあと、少しの沈黙も埋めるように遥は慌てて話題を戻した。

「今回起こっている切り裂き被害が、成美さんの先輩の霊の仕業なんて言われているようですが……少なくとも成美さんの話を行く限り、信じられないんです。雅さんはどう思いますか?」
「そうだね。少なくとも先輩本人は、自分がやったことじゃないって話してくれたんだけどねえ」
「……」

 しばし、硬直。

「人の口に戸は立てられないとはいうけどね。本当に困ったものだよねえ」
「え? 本人? あの、本人ってことはまさか」

 慌てて聞き返す遥に、雅はこくりと頷いた。

「さっきも話した、今夜俺が駅前広場に現れた理由。実は件の先輩の霊から、依頼を受けたからだったんだ」