「遥先輩! やっぱり! 先月のあれはプロポーズだったんですね!?」

 部長から正式に遥の退社日が報告された、朝礼後。

 すぐさまデスクまで駆けてきた後輩が、鼻先がつきそうな距離感でにじり寄ってきた。

「だから違うよ。あれはちょっと特殊な頼まれごとをされただけでね?」
「じゃあじゃあ! どうしてこの仕事を辞めちゃうんですかー! あのイケメンが関係してるんじゃないんですか?」
「えっと、関係していると言えばしているんだけど」
「やっぱり! 寿退社じゃないですかー!」
「違う違う! 全然違うよ!」

 じたばたする後輩を遥はなんとか宥めた。
 同時に、先月の出来事をよく記憶しているなあと感心する。

 雅に被憑依者として協力を頼まれたのが、先月のこと。

 その後、正式に拝ミ座のメンバーになってほしいと告げられた遥は、翌日には上司に退職の意向を伝えていた。

 寝耳に水の報告に上司は目を丸くしていたが、決意に満ちた遥の様子に執拗に残留を望むことはしなかった。
 総務課への異動といい今回のこといい、上司には本当に頭が上がらない。

 そして何より、人生の転機となる一歩を踏み出す勇気をくれたあの人に、遥は深く感謝をしていた。



 進められる限りの業務の合間に引き継ぎ作業を詰め込み、遥は本日の勤務を終えた。

 ビルの玄関ホールを出れば、疲労の熱に浮かされた身体に、夜風がほんのり吹き付ける。

 オフィスビル群を少し行けば、レンガ敷きの駅前広場が姿を見せた。
 星が瞬く夜八時でも、駅とオフィスビルを繋ぐ広場にはスーツ姿の人がせわしなく行き交っている。

 こんな風景を見るのもあと少しなんだ。
 少し感慨深く思いながら、遥はいつも通り環状線駅の方向へ歩みを向けた。そのときだった。

 かしゃん。

 遥の脇をある女性が通り過ぎた瞬間、床に何かが弾けるような音が耳に届いた。

 視線を下げるとレンガ敷きのタイルに小さな何かが落ちていて、遥は慌てて拾い上げる。

 ブチ模様の猫のキーホルダーだ。

 ツリ目のぽっちゃりとしたフォルムが少しふてぶてしくて、何だか可愛い。

 首元には小さな鈴が付いていて、動かすたびに小さな音を奏でていた。
 もしかしたら、今の女性が落としたのだろうか。

「あの!」

 先ほどの女性の背中に急いで駆け寄り、遥は声をかけた。

「すみません。このキーホルダー、落としませんでしたか」
「え……っ」

 振り返った女性は、どこか硬い表情を浮かべていた。

 それでも遥が手にしたキーホルダーを目にすると、事情を察したらしく緊張を緩める。

「ああ、すみません。わざわざ拾っていただいてありがとうございます」
「いいえ。可愛い猫のキーホルダーですね」

 微笑みながら、女性にキーホルダーを手渡す。

 その瞬間、女性の背後に薄暗い空気の淀みを見た気がした。
 そして上空から振り下ろされる、鋭い光も。

「危ない!!」
「え!?」

 キーホルダーの女性の手首を、咄嗟にこちらに引き込む。

 すると立ち位置の入れ替わった遥の肩に、一拍遅れでかすかな痛みがじわりと広がった。

「あ……だ、大丈夫ですか!?」
「っ、はい、大丈夫。かすり傷です」

 努めて笑顔を浮かべ、遥は女性に応じる。
 どうやら彼女に怪我はないらしい。

 自分の肩部分をそっと見遣るも、騒ぐほどの傷ではなかった。
 ブラウスが小さく裂けてしまったが、傷としては浅く、幅二センチほどのかすり傷だ。

 それにしても、今のは一体何だったんだろう。

 彼女の背後に妙な気配は感じた。一瞬瞬く鋭い光も見た。

 問題は、そこに人影らしき者が何一つ見えなかったことだ。

 全て遥の見間違いといえば片付く話だが、現に振り下ろされた何かによって遥の肩は傷ついている。

 ということは、もしかして。

「ごめんなさい、ごめんなさい。どうしよう。私のせいでこんな」
「大丈夫ですよ。服も安物ですし、本当に小さな傷ですから」
「あ、私、このオフィスビルに勤めている者です。庇っていただいたお礼と服の弁償をさせてください! こちらが私の名刺ですので……!」

 差し出された名刺を、条件反射で受け取る。
 勤務先は確かに、遥にも見覚えのある社名が記されていた。 

 名を#池口__いけぐち__##成美__なるみ__#というらしい。

「あ、ご丁寧にどうも……でも、本当に結構ですから。絆創膏を一晩貼っておく程度の傷なので、どうぞ気になさらないで」
「いいえ、そんなわけには」
「遥ちゃん?」

 終わりの見えない二人のやりとりに、凜とした声が優しく割って入ってきた。

 振り返った遥は、佇む人物をとらえ目を丸くする。

「み、雅さん!」
「どうしたのこんなところで。会社はもう終わり?」
「あ、は、はい。ええっと」

 突然現れたのは、新しい転職先の雇い主でもある御護守雅だった。

 月夜を背景にこちらを見つめる彼は、今日もやはりイケメンだった。
 隣にいる成美も、その美貌に当てられたのか目を見開いたまま固まっている。

 今夜は拝ミ座関係の約束はしていない。なのに雅は何故こんなところにいるのだろう。

「この怪我、どうしたの? なにかあった?」

 めざとく見つけられてしまった肩の怪我に、雅の労るような手がそっと触れる。

 僅かに眉をしかめたあと、雅はおもむろに自らの上着を遥の肩に巻いた。
 一応露わになった肌を気にかけてくれたようだ。

 その温かさに一瞬胸が音を奏でるのを感じながら、遥は慌てて首を振った。

「大したことじゃないんです。ただちょっと、どこかに擦ってしまっただけで」
「いいえ、いいえ。違います。私のせいです」

 成美の強張った声が、広場の一角に響いた。

「私のせいなんです。あんなに近くにいたのに、私……!」
「成美さん?」

 いつの間にか涙を浮かべて身体を震わせる成美に、遥は慌てて宥めるように背中をさする。

 彼女の手には、先ほど遥が拾い上げた猫のキーホルダーが強く握られていた。