改めて、綾那は教会の扉前に立った。
開かれた教会は、古い造りながらも深い歴史と伝統を感じさせる。
左右に並んだ焦げ茶の長椅子には、右最前列に義理母が座っている。
礼拝堂を包み込むような美しいステンドグラスに照らされる聖壇前で、慎介が綾那の到着を待っていた。
一歩、また一歩とかみしめるようにヴァージンロードを進んでいく。
どきん、どきんと心臓の鳴る音を感じ、不思議な心地になった。
この身体を貸してくれた女性の心音。
あの人がいなければ、こんな一時を過ごすことも叶わないままだった。
「新郎、藤井慎介さん」
「はい」
巡り巡った縁に支えられて、今自分はここに立てている。
それはとても幸福なことだった。
「貴方は藤井綾那を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、愛することを誓いますか」
「はい。誓います」
隣の慎介が、目の前の神父に真っ直ぐな瞳で答える。
後ろには、自分たちを見守っていく義理母の温かな眼差しを感じていた。
「新婦、藤井綾那さん」
「はい」
「貴方は藤井慎介を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、愛することを誓いますか」
「……はい。誓います！」
笑顔で答えた。
この誓いの言葉がいつの日か、残された二人の心を明るく照らしますように。
これから先を生きていく二人のお守りになりますように。
互いに向き合った二人が、それぞれの薬指に誓いの指輪をはめる。
そして慎介の左手に触れた綾那は、そのままぎゅっと両手で包み込んだ。
「綾那？」
「慎介」
優しく問う慎介を、ゆっくりと見上げる。
今でも変わらない、優しい瞳だ。
人と深く関わることを避けて生きてきた自分を、ときに支え、ときに叱咤し、ときに寄り添ってくれた。
慎介。私の、大切な人。
「今日は、私のわがままで驚かせてごめんなさい」
「いいよ。綾那に驚かされることには、もう慣れてるから」
「ねえ慎介。わ、私、ね……」
言葉が急に詰まる。
そのことに、動揺で心臓がどくんと鳴った。
「綾那？」
「あ、あのね。その、身体にはくれぐれも気をつけてね。慎介、限界ギリギリまで頑張っちゃう質なんだから。それから、お義母さんとずっとずっと仲良くしてね。それから、その……」
咄嗟に俯いた綾那を見て、慎介が両手を握る。
震えが伝わってしまう。どうしよう。こんなはずじゃなかったのに。
「その、ね。わ、私、ちゃんと大丈夫だからね。だから慎介、もしも、その、他に……」
「うん」
「他に、ね。この人と幸せになりたいって。そう、思える人と出逢えたら……」
「綾那」
たどたどしく言葉を続けていた綾那を宥めるように、ふわりと慎介が抱擁する。
真綿で包むような優しい温もり。大好きな慎介の温もり。
いつか、誰かのものになってしまう。
「っ……ふ、うう……っ」
もっとちゃんとやれるはずだった。この日を迎えるまでの間、ずっとずっと考えてきたのに。
今日このときが、慎介と義理母に言葉を残せる最後のチャンスだ。だから素敵な言葉を残して別れたい。
今までの感謝。
自分の素直な気持ち。
残される二人の励ましになるエール。
そして──どうか自分に囚われないで、幸せになってほしいと。
「綾那、ごめん」
身体を包んでいた腕に、僅かに力がこもる。
「綾那は優しいから、ずっと考えていたんだな。俺たちのために自分が何をできるのか、ずっとずっと考えていてくれたんだな」
「っ……！」
お見通しだった。
二人がともにいた時間は、短いものだったかもしれない。
それでも綾那にとってこの人といる時間こそ、真に一生涯望んだものだった。
「本当はね。他の人と慎介が結婚したりするの、まだあまり想像できないの」
「うん」
「でも、慎介には幸せになってほしいの。私のことだけに囚われて、寂しい気持ちを背負って生きてほしくはないの……っ」
「どうかな。綾那のことを想うとき、確かに寂しさもあるけれど、それだけじゃないよ」
慎介の胸に寄り添っていた綾那が、ゆっくりと顔を上げる。
その先には、穏やかに笑みを浮かべる慎介がいた。
「側にいられなくて寂しいし、綾那との未来をなくしてしまったことは悔しいけれど。綾那のことを想うと元気になれる。自分に優しくなれる。胸の奥が……温かくなる」
「慎介……」
「綾那は、これからもずっと俺の中にいる。これからもずっと」
寂しかった。
悔しかった。
もう彼の側にいられないこと。
彼との未来をなくしてしまったこと。
「きっときっと、幸せになってね」
「うん」
「やきもちは焼いちゃうかもだけど、我慢するから。私はいつだって、慎介の味方だから」
「うん」
「ねえ慎介」
美しい光の雫が、綾那の頬を辿る。
次の瞬間、花嫁の身体を淡く白い光が覆った。
慎介と義理母が、はっと息を呑む。
「私と出逢ってくれて……ありがとう」
「綾那」
「私を愛してくれて、ありがとう」
「綾那」
「二人に出逢えて、家族になれて。私はとっても幸せでした」
「綾那逝くな」
光に包まれた手を、ぎゅっと握りしめる。
感じる小さな震えは、綾那のものではなかった。
「逝くな……頼む。俺を置いていかないでくれ」
「慎介」
「あの日、あのとき、俺も一緒に行っていればよかった。そうすれば綾那は事故になんか遭わなかったかもしれないのに。なのに、どうして」
いつも穏やかに笑っていた。
その奥で人を想い心に押し込めた気持ちがあることを、綾那は知っている。
そんな彼を、自分が一生支えたいと思ったのだから。
「慎介。大好きだよ」
「綾那……っ」
「ねえ、慎介も、私のことが好き……？」
恋人になってから幾度となくかけられてきた問いだった。
自分に自信を持てない綾那は、時折冗談めかしてそんなことを聞いた。
慎介の頬にそっと手を添える。
その手を包むように握り、慎介は笑った。
「好きだよ。綾那のことが……大好きだ」
「うん。嬉しい」
「俺と出逢ってくれて……ありがとう。綾那」
愛してる。
思いを象った唇が、静かに重なる。
淡く包み込んでいた光が、まるで天使の梯子のように空に向かって続いていく。
それはとても美しく、幸福そうな光だった。
開かれた教会は、古い造りながらも深い歴史と伝統を感じさせる。
左右に並んだ焦げ茶の長椅子には、右最前列に義理母が座っている。
礼拝堂を包み込むような美しいステンドグラスに照らされる聖壇前で、慎介が綾那の到着を待っていた。
一歩、また一歩とかみしめるようにヴァージンロードを進んでいく。
どきん、どきんと心臓の鳴る音を感じ、不思議な心地になった。
この身体を貸してくれた女性の心音。
あの人がいなければ、こんな一時を過ごすことも叶わないままだった。
「新郎、藤井慎介さん」
「はい」
巡り巡った縁に支えられて、今自分はここに立てている。
それはとても幸福なことだった。
「貴方は藤井綾那を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、愛することを誓いますか」
「はい。誓います」
隣の慎介が、目の前の神父に真っ直ぐな瞳で答える。
後ろには、自分たちを見守っていく義理母の温かな眼差しを感じていた。
「新婦、藤井綾那さん」
「はい」
「貴方は藤井慎介を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、敬い、慰め合い、共に助け合い、愛することを誓いますか」
「……はい。誓います！」
笑顔で答えた。
この誓いの言葉がいつの日か、残された二人の心を明るく照らしますように。
これから先を生きていく二人のお守りになりますように。
互いに向き合った二人が、それぞれの薬指に誓いの指輪をはめる。
そして慎介の左手に触れた綾那は、そのままぎゅっと両手で包み込んだ。
「綾那？」
「慎介」
優しく問う慎介を、ゆっくりと見上げる。
今でも変わらない、優しい瞳だ。
人と深く関わることを避けて生きてきた自分を、ときに支え、ときに叱咤し、ときに寄り添ってくれた。
慎介。私の、大切な人。
「今日は、私のわがままで驚かせてごめんなさい」
「いいよ。綾那に驚かされることには、もう慣れてるから」
「ねえ慎介。わ、私、ね……」
言葉が急に詰まる。
そのことに、動揺で心臓がどくんと鳴った。
「綾那？」
「あ、あのね。その、身体にはくれぐれも気をつけてね。慎介、限界ギリギリまで頑張っちゃう質なんだから。それから、お義母さんとずっとずっと仲良くしてね。それから、その……」
咄嗟に俯いた綾那を見て、慎介が両手を握る。
震えが伝わってしまう。どうしよう。こんなはずじゃなかったのに。
「その、ね。わ、私、ちゃんと大丈夫だからね。だから慎介、もしも、その、他に……」
「うん」
「他に、ね。この人と幸せになりたいって。そう、思える人と出逢えたら……」
「綾那」
たどたどしく言葉を続けていた綾那を宥めるように、ふわりと慎介が抱擁する。
真綿で包むような優しい温もり。大好きな慎介の温もり。
いつか、誰かのものになってしまう。
「っ……ふ、うう……っ」
もっとちゃんとやれるはずだった。この日を迎えるまでの間、ずっとずっと考えてきたのに。
今日このときが、慎介と義理母に言葉を残せる最後のチャンスだ。だから素敵な言葉を残して別れたい。
今までの感謝。
自分の素直な気持ち。
残される二人の励ましになるエール。
そして──どうか自分に囚われないで、幸せになってほしいと。
「綾那、ごめん」
身体を包んでいた腕に、僅かに力がこもる。
「綾那は優しいから、ずっと考えていたんだな。俺たちのために自分が何をできるのか、ずっとずっと考えていてくれたんだな」
「っ……！」
お見通しだった。
二人がともにいた時間は、短いものだったかもしれない。
それでも綾那にとってこの人といる時間こそ、真に一生涯望んだものだった。
「本当はね。他の人と慎介が結婚したりするの、まだあまり想像できないの」
「うん」
「でも、慎介には幸せになってほしいの。私のことだけに囚われて、寂しい気持ちを背負って生きてほしくはないの……っ」
「どうかな。綾那のことを想うとき、確かに寂しさもあるけれど、それだけじゃないよ」
慎介の胸に寄り添っていた綾那が、ゆっくりと顔を上げる。
その先には、穏やかに笑みを浮かべる慎介がいた。
「側にいられなくて寂しいし、綾那との未来をなくしてしまったことは悔しいけれど。綾那のことを想うと元気になれる。自分に優しくなれる。胸の奥が……温かくなる」
「慎介……」
「綾那は、これからもずっと俺の中にいる。これからもずっと」
寂しかった。
悔しかった。
もう彼の側にいられないこと。
彼との未来をなくしてしまったこと。
「きっときっと、幸せになってね」
「うん」
「やきもちは焼いちゃうかもだけど、我慢するから。私はいつだって、慎介の味方だから」
「うん」
「ねえ慎介」
美しい光の雫が、綾那の頬を辿る。
次の瞬間、花嫁の身体を淡く白い光が覆った。
慎介と義理母が、はっと息を呑む。
「私と出逢ってくれて……ありがとう」
「綾那」
「私を愛してくれて、ありがとう」
「綾那」
「二人に出逢えて、家族になれて。私はとっても幸せでした」
「綾那逝くな」
光に包まれた手を、ぎゅっと握りしめる。
感じる小さな震えは、綾那のものではなかった。
「逝くな……頼む。俺を置いていかないでくれ」
「慎介」
「あの日、あのとき、俺も一緒に行っていればよかった。そうすれば綾那は事故になんか遭わなかったかもしれないのに。なのに、どうして」
いつも穏やかに笑っていた。
その奥で人を想い心に押し込めた気持ちがあることを、綾那は知っている。
そんな彼を、自分が一生支えたいと思ったのだから。
「慎介。大好きだよ」
「綾那……っ」
「ねえ、慎介も、私のことが好き……？」
恋人になってから幾度となくかけられてきた問いだった。
自分に自信を持てない綾那は、時折冗談めかしてそんなことを聞いた。
慎介の頬にそっと手を添える。
その手を包むように握り、慎介は笑った。
「好きだよ。綾那のことが……大好きだ」
「うん。嬉しい」
「俺と出逢ってくれて……ありがとう。綾那」
愛してる。
思いを象った唇が、静かに重なる。
淡く包み込んでいた光が、まるで天使の梯子のように空に向かって続いていく。
それはとても美しく、幸福そうな光だった。
