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 藤野綾那。

 穏やかで少し気弱な父親と、しっかり者で料理上手な母親の間に生まれた、極々平凡な少女だった。

 幼稚園のころには将来お父さんと結婚すると言い張るような、お父さん子。

「でもお父さん、お母さんと結婚しているからなあ」

 そう言って弱り顔をする父親に号泣する綾那を、母親が慌てて抱きしめてくれた。

 性格は母親に似たのか、自分の思いは真っ直ぐ正直に伝える子どもだったし、それが悪いことと思ったことはなかった。
 嘘つきは泥棒の始まりなんだと、学校の先生も言っていた。

 それが大きく変わってしまったのは、小五のころ。
 両親が亡くなってからだ。

 嘘をつかなくては生きていけない世界に放り出され、綾那はすぐに嘘が上手になった。

 だって嘘をつかなければ、周りを困らせてしまうから。
 お父さんとお母さんに会わせてほしいと懇願されたって、無理に決まっているから。

 それでも、時間が次第に傷ついた心を癒やしていく。

 引き取られた祖母の家ではなるべく面倒を掛けないように多少の無理もしたが、それでも幸せだった。

 社会人一年目にその祖母も他界し、初めての一人暮らしが始まった。
 幸い大手の会社に就職を決めていたため、生活に困窮することはなかった。

 それでも、不意に襲う孤独は堪えようもない。

 このまま私が死んでも、誰も悲しまないんじゃないのか。
 むしろ、悲しませない方がいいんじゃないのか。

 そんな考えを定期的に過らせ、自分はずっと一人なのだろうなと思っていた。

 あなたと、巡り逢うまでは。

「あ……」

 美しい彫刻が施された教会の扉が開かれる。

 溢れるように届いたパイプオルガンの音色を肌に感じながら、綾那はそっとまぶたを開けた。

 ヴァージンロードの途中には、目を大きく見開き愛しい人の姿がある。

 そして傍らの席に腰掛けていたもう一人の人物は、ハンカチを口元に押しつけたまま無言で立ち上がった。

「あ……綾那……?」
「綾那ちゃん、なの……?」
「慎介! お義母さん……!」

 堪えきれずに溢れた涙が、目尻を熱く濡らす。

 ヴァージンロードを慣れないヒールで駆けだした綾那は、そのまま慎介の腕の中に飛び込んだ。

「綾那……綾那っ!」
「慎介……ごめんね! 悲しい思いをさせちゃって、本当にごめんね……!」

 覚えのある抱擁の感触だった。

 素直じゃない自分をいつも包み込んでくれた優しい感触。

「綾那……でも、どうして……」

 どうして、抱きしめることができるのだろう。

 そんな疑問を語る瞳に、綾那はふふっと笑みを漏らした。

「ある人に助けをもらったの。もう一度だけ、生者として時を過ごすとしたらどの場面を選びますかって」

 あれは一体どこで、いつのことだっただろう。
 目の前の景色もろくに見えない空間の中で、その人の声だけが明瞭に届いた。

 ──さあおいで。話を聞くよ。

 気づけば通されていた少し古びた和室には、初対面の茶髪の男性が佇んでいた。

「俺とのこの時を、選んでくれたのか」
「当たり前でしょう。私がずっとずっと待ち望んでいた、人生最良の日なんだもの」
「綾那……」

 慎介の瞳に浮かぶ涙を、そっと指で拭う。

 互いに微笑み合ったあと、綾那はそっと視線を傍らの席へ向けた。

「お義母さん……お久しぶりです」
「っ、あ」
「私、あれからずっとお義母さんのこと」
「ごめんなさい! 綾那ちゃんっ!」

 こみ上げるような激情が、義理母の──詩乃の表情を大きく崩す。

 ボロボロとこぼれ落ちた涙を拭う間もなく、詩乃はその場にがくりと膝をついた。

「綾那ちゃん……ごめんなさい! 慎介も、本当にごめんなさい!」
「お、お義母さん!?」
「私が、私があんなプレゼントなんて考えたばかりに……!」

 床にこうべを垂れた詩乃の慟哭が、教会に哀しく反響する。そんな義理母に、綾那はそっと肩に手を添えた。

「お義母さんのせいじゃないです。あれは不幸な事故だったんです。だから、もうそんな風に言わないで」
「う、うう……っ」
「お義母さんからプレゼントがあると聞いて私、すごく嬉しかったんですよ」

 ゆるりと持ち上げた詩乃の顔に、綾那は笑顔を向ける。

 互いの頬に泣き痕を見る。教会のステンドグラスから注ぐ陽が僅かに反射して、きらきらと美しかった。

「私、お義母さんにたくさんのものをもらいました」

 落ち着いて伝えたい気持ちの一方で、喉の奥が微かに震える。

 しっかりしろ。この想いを伝えるために、自分はここまで来たのだから。

「私に新しい家族をくれたこと。心底愛する慎介さんを産んでくれたこと。私を……本物の娘として接してくれたこと」
「綾那ちゃん……っ」
「幸せでした。信じられないくらい嬉しかった。ずっとずっと、私はひとりぼっちで生きていくんだと思っていたから」

 詩乃の頬に流れる涙の色が徐々に変わっていくのを感じる。

 すると詩乃の背後に、フォーマルスーツをまとった男が立った。
 まるでそよ風に自然に肩に触れ、詩乃にあるものを差し出す。
 シルクのハンカチをといて現れたそれに、詩乃は目を見張った。

 用意されたそれは、詩乃が密かに制作を進めていたサプライズプレゼントのティアラだった。

 ステンドグラスからの彩りを含んだ光が、現れた美しい造形を淡く瞬かせる。

 表面にかけてなだらかな高さを描いていく曲線の先に、パールの淑やかな白が輝いていた。
 本体を彩るジルコニアが、先端から根を下ろす花と蔓の模様の合間に施されている。

 その象られた花の形状に、絢香は小さく息を呑んだ。

「お義母さん……覚えていてくれたんですね。私が、桜の花が大好きだってことを」
「っ……」
「お義母さん。それをどうか、私の頭につけてくれませんか」

 そっと傍らにしゃがみ込んだ花嫁に、詩乃は酷く狼狽した。

「で、でも、これは……」
「私、ウエディングドレス姿になれなかったこと、すごくすごく後悔したんです。大好きな人の手で作られた衣装をまとって、大好きな人に見守られて、大好きな人との愛を誓う機会を失ってしまったことが」
「っ……あやな、ちゃん……」

 止めどなく流れる涙を、詩乃はきゅっと自分で押し止めた。

 差し出されたままになっていたそれをそっと手に取り、綾那のほうへ振り返る。

 差し出された綾那の頭上に、詩乃は静かにティアラを櫛でそっと固定した。

 ゆっくり顔を上げた綾那が、頬を淡く紅潮させる。

「へへ……似合いますか。お義母さん」
「ええ、ええ。勿論よ。綾那ちゃんのためだけに作った、あなただけのティアラだもの」

 次の瞬間、くしゃりと表情を歪めた二人は揃って互いに腕を回した。

「ありがとうございますお義母さん。こんなに素敵なプレゼント、受け取れなくてごめんなさい。ごめんなさい……!」
「どうして謝るの。あなたは何も悪くないわ。気が逸った私が突然呼び出してしまったのがいけなかった。本当にごめんなさい。ごめんなさいね、綾那ちゃん……!!」

 しばらくの間二人の泣き声が、教会内を小さく反響させていた。

 震える背中に、そっと手が添えられる。

 温かい。慎介の手だ。

「ほら、俺の言ったとおりだろう。やっぱり二人はよく似てる。人のために自分を責めがちなところも、気が強いけれど本当は泣き虫なところも」
「慎介……」
「本物の、親子みたいだよ」

 そう言った慎介は、泣きそうな顔をして笑った。