念入りに確認を済ませた和泉が、すっと遥の前から身を避ける。

 目の前の鏡台に写った姿に、改めて見惚れる。

 今まで幾度も目にしてきた自分の中で、間違いなく最高に美しかった。

「すごい……メイクの力は偉大ですね……」
「あんたは元々薄化粧だからな。代わり映えがある」
「何だか別人みたいです……」
「ただメイクをしただけじゃない。件の花嫁の面差しに近づけるためのメイクでもある」

 確かに、鏡に映るその姿はまるで別人のようにも見える。

 この人が、今まで想いを馳せつつも、一度も目にすることができなかった花嫁さんの姿。

 そう考えるとなんだか感慨深く、挨拶をする心境で鏡越しにふわりと笑みを浮かべた。

「遥ちゃん、和泉。入るよ」

 部屋がノックされたあと、扉が開く音がする。

 現れた人物と目があった瞬間、互いに目が僅かに見張られた。

「わあ、雅さん、素敵な服装ですね」
「いやいやいや。その言葉、百パーセント俺が言うべきだよね?」

 困ったように笑う彼に、遥もふふっと笑みを漏らす。

 現れたのはフォーマルスーツをさらりと着こなした雅だった。

 元々長い四肢が際だつような佇まいに、茶色の癖毛は額を少し出す形で整えられている。

 今日の雅は、新郎新婦をエスコートするプランナー役だ。

 教会で職務を全うする者の神聖な空気を感じさせる佇まいに、遥の心も改めて引き締まる。

「和泉。新郎と義理母さんは控え室で待ってるよ」
「わかった」

 短く答えた和泉が、辺りの荷物を素早くまとめる。
 一度遥を振り返り髪の毛を小さく整えたあと、納得したように部屋をあとにした。

 式場の場所は、近隣の山の麓にある小さな教会だった。

 薄緑色に染まった木々に真っ直ぐ延びる道。視界が開けた先には陽の光に淡く包まれた建物が佇んでいた。

 もともと小規模な結婚式に利用されることも多く、内部には新郎新婦や親族の控え室も併設されている。

 今日ここを使用するのは、遥たちだけだ。

 部屋に残った二人の間に、しばらく透明な沈黙が落ちてくる。

「なんだか、不思議な気持ちです」

 呟きながら、そっと椅子を立ち上がる。

 既にまとっていたドレスの重みも、今はとても心地がよかった。
 自然に背筋が伸び、改めて鏡に映された自身を見つめる。

 夢の中で何度も目にした、ウエディングドレス。
 この姿を見て、花嫁は一体どんな顔をするのだろう。

「新郎さんとお義母さんは、今から準備を?」
「うん。急な呼び立てに混乱している様子だったけれど、和泉と他のスタッフがうまくやってくれるから大丈夫だよ」

 劇団拝ミ座の仕事は、依頼人の未練の内容によってその仕事も大きく変わるという。

 キャストだけを完璧に整え、舞台は街中を利用する小規模な演出のときもあれば、今回のように舞台まで完璧に準備した大規模な演出まで様々なのだ。

 そして後者の場合には、当日様々な仕事を協力してくれる臨時スタッフが数多くいるらしい。
 そのほとんどは、今まで雅らが接する機会のあった元依頼人やその関係者なのだという。

 当日の段取りを正確に遂行していく黒子のような存在。
 今日この時のために、遥が想像するよりもたくさんの人が力を貸してくれている。
 そのことが遥は何より嬉しかった。

「今日が本番なんですね」
「うん。遥ちゃんに一番頑張ってもらうのも、これからだね」
「やっぱり、何だか少しドキドキしますね」

 事前に何度も言い含められてきたこと。

 花嫁の霊を、遥の身体に入れる。

 憑依させたあとに遥の意識がどの程度残るのか。
 言葉や動作にどの程度影響を及ぼせるのか。憑依後はどんな状態になるのか。

 それらは全て、やってみないとわからない。

「せめて、花嫁さんがこの身体を気に入ってくださるといいなあって思います」

 ぽつりと零した呟きに、雅は目を瞬かせた。

 そして次の瞬間、ぷっと吹き出すと肩を揺らして笑い始める。

「え、雅さん?」
「ははっ、本当、遥ちゃんって面白いこと言うね」
「面白くありませんよ。花嫁さんにとっては、とっても大切なことです」

 命を落とした花嫁が雅に今回の依頼をしたいきさつも、遥はよく知らない。

 それでも、今回の依頼が花嫁自身のためだけのものではないことだけは、遥にも伝わっていた。

「遥ちゃんは優しい子だね。君に出逢えて、本当によかった」
「私も、雅さんたちに出逢うことができてよかったです」

 ほんの僅かに胸に滲んだ哀愁を誤魔化すように、遥はふわりと笑顔を浮かべた。

 そんな遥に答えるように微笑んだ雅は、後ろの鞄からおもむろに何かを取り出した。

「それじゃあ、そろそろ俺たちも始めようか」

 ばさりと広げられたのは、美しい藍色の羽織だった。

 見ただけで上質とわかる紺色の織り目に、繊細な金糸の刺繍が施されている。
 金色に浮かび上がる模様は植物のようにも動物のようにも見え、不思議な魅力が感じられた。

「雅さん。その紺色の羽織は……?」
「うん。これが俺の正装。力を使うときはいつも、この羽織を掛けるのがマイルールなんだ」

 フォーマルスーツ姿の雅が、慣れた手つきで紺羽織を肩にまとう。

 その瞬間、雅を取り巻く空気が凜と整えられた心地がした。

 ゆっくり見開かれた雅の瞳に、遥の心臓が小さく音を立てる。

「準備には最善を尽くしてる。遥ちゃんはいつも通り、気持ちを安らかにしてい。花嫁は時折うちの家に来ては君のことも覗いていた。いつもいつも、君への感謝の言葉に溢れていたよ」

 差し出された長い人差し指が、そっと遥の額に触れる。

 瞬間、少しひやっとした心地のあとに、身体が柔らかな絹に包まれたような感覚に落ちていくのが分かった。

「大丈夫。俺が君を、命を懸けて守るよ」

 はい。信じています。

 その返事が言葉となっていたのか、遥には分からなかった。