それからは、怒濤の日々だった。

 ティアラの修繕、ドレスの最終調整、式場となる舞台の手配、招待状の作成、生花の発注、その他装飾品の在庫確認、などなど。

 本業の合間に頻繁に手伝いに出ていた遥だったが、その度に結婚式準備の多忙さを目の当たりにしていた。

 劇団拝ミ座でドレスの最終調整を受けた日、遥は大人しくお茶の間に腰を下ろしていた。

 当日手配済みの式場に招待するのは、新郎と義理母の二人だ。

 二人に招待状を渡すのは式当日。
 その日は、すでに雅たちが事前に偽の予定で抑えているらしい。

 近づいてきた一大イベントに、花嫁役という重大な役割が徐々に実感されていく。
 小さく高鳴る心音を感じながら、遥は円卓に置かれたお茶にそっと口をつけた。

「ドレスの調整は終わった。あとは当日を待つだけだ」
「和泉さん、お疲れさまでした」

 作業部屋から出てきた和泉が、自分の湯飲みを持って現れた。

 遥の対面に腰を下ろし、自ら淹れたお茶に口をつける。

「にしても……あんたも相当物好きな演者だな」

 必要最低限しか口を開かない彼からの唐突な言葉に、遥は目を丸くした。

「今まで単発でスカウトしてきた演者は、こういった裏方作業に関わらないのが基本だった。もともとこちらも、当日の協力のみ受ける約束でスカウトしているからな」

 確かに、雅からも最初はそのように話をされていた。

 それを他にも何か協力させてほしいと申し出たのは、遥自身のほうだ。

「すみません。私のわがままで、和泉さんにもいろいろとお手間を取らせてしまいましたね」
「そうは言っていない。むしろティアラはあんたがお義母さんから譲り受けたお陰で、相当手間が省けた。洋裁教室前で一瞬目にしたあれだけじゃ、さすがに再現は厳しい」
「あ、ありがとうございます」

 もしかすると、少しは拝ミ座の二人の役に立てたのだろうか。

 いつも通り素っ気ない口調ながらも感じ取れた労りの言葉に、小さな喜びが胸に沸いてくる。

「お。タイミングがいいね。二人とも休憩時間?」
「雅さん!」

 玄関からひょいと顔を出した雅が、笑顔で円卓に加わった。
 手に提げているのはこの近所で有名な和菓子屋の紙袋だ。

「みんなお疲れさま。お菓子でも食べて元気出してね」
「はい。ありがとうございます」
「和泉も食べるよね。小皿だそうか」
「ああ」

 袋から顔を出したのは、一口サイズの可愛らしい練り切り菓子だった。

 桃色の桜の花と薄黄緑色のウグイスに象られた練り切りは、眺めているだけでも存分に楽しむことができる。
 お茶が一層進むしとやかな甘さに、遥はほっと幸せな息を吐いた。

「今回も無事に舞台の幕を上げられそうだね。これも遥ちゃんのお陰だよ。ありがとう」
「いえそんなこと。私がしたことは本当に微々たるものですから」

 謙遜ではなく冷静な判断からの返答だったが、雅は静かに首を横に振る。

「ここでこうして花嫁のことを思ってくれているだけでも、充分過ぎるくらいだよ。君みたいな子に寄り添ってもらえて、彼女もきっと喜んでる」
「そう、でしょうか」

 雅と和泉の二人は、ともに亡き人を視る目を持つと聞いている。

 遥はただ想いを馳せるのみでその姿を目にすることができないが、受け取った言葉は胸をじんわり温かくさせた。

 でもきっと、ここに来るのも今日が最後なのだろう。
 次はいよいよ結婚式当日。それを終えればもう、この屋敷に来訪する必要はなくなる。

 ふとそんな事に思い至り、遥は屋敷内を見回した。

 歴史を感じさせる柱や梁の木材に、丁寧に手入れされていることが分かる若草色の畳。
 座卓が置かれた居間のスペースも、いつの間にか遥にとって馴染みある空間になっていることに気づく。

「美味しいお菓子をありがとうございました。それじゃあ、私はそろそろお暇しますね」
「わかった。送っていくよ」
「いえ。雅さんも準備でお疲れでしょうから、しっかり休んでください」

 まるでボタンの掛け違いような出逢いだった。

 代わり映えのない日常に落とされた鮮やかな彩りのひと時は、もうすぐ終わりを告げる。

「雅さん、和泉さん、さようなら。当日を楽しみにしていますね」

 僅かに滲んだ寂しさを胸にしまい、遥は笑顔で劇団拝ミ座をあとにした。



 身体に張り巡らされていた緊張の糸は、いつの間にか緩く解かれていた。

 鼻筋や頬に丁寧に伸ばされていくクリームに、撫でるように乗せられていくパウダー。
 目もとに徐々に足されていく色味は、気づけば美しい瞬きをはらんだグラデーションになっている。

 頬に何層にも渡って丁寧に乗せられたチークも、まるで花が咲いたように美しい。
 最後に桃色のリップと少しのグロスを乗せた唇をティッシュで押さえ、遥はほうと息を吐く。

 ウエディングドレスに似合いの夜会巻きにまとめられた髪の上から、淡い白のヴェールが丁寧に下ろされた。

「完成だ」
「ありがとうございます」

 念入りに確認を済ませた和泉が、すっと遥の前から身を避ける。

 目の前の鏡台に写った姿に、改めて見惚れる。

 今まで幾度も目にしてきた自分の中で、間違いなく最高に美しかった。