ベンチにゆったり腰掛けているのは、一人の男だった。

 座っていても分かる、すらりと長い手足。

 眠っているのかまぶたは閉ざされているが、白い肌に筋の通った目鼻立ちはそれだけで造形の美しさが見てとれる。
 少し癖のある茶髪は無造作に見えなくもないが、それがかえって彼の持つ不思議な魅力をおのずと伝えていた。

 しかし、それだけではここまで往来の人々の視線を攫うには弱い。
 問題は彼が抱えている「あるもの」にあった。

 両腕では収まらないほどの、眩しい純白の生地だ。

 夕陽に照らされるその生地の美しさは、スーツ姿で先を急ぐ人々の目を思わず惹き付ける。

 春風にふわりとなびく白のチュールには、ビジューが満天の星のように瞬いていた。
 細かな刺繍が施された生地の至る箇所に、大小様々なレースがふんだんにあしらわれている。

 ウエディングドレスだ。

 私服姿でベンチに座った顔立ち端正な男が、ウエディングドレスを両腕に抱えて眠っている。
 その妙な構図に気づいた人々により、好奇の視線が徐々に増えつつあった。

 そして、駅近くのオフィスビルから家路につこうとしていた小清水(こしみず)(はるか)もまた、その男の姿を前に駅へ向かう足を止めている。

 ただし、周囲の女性がまぶたを閉ざした美丈夫に視線を送る中、遥が視線を注ぐのは純白のドレスだ。

 男が佇むベンチまで数メートル。
 そんな微妙な距離から、不意に声を聞いた気がした。

 きっとこれは女性の声だ。
 儚く、か細く、寂しい声。自分に助けを求める声。

 ああ、いけない。
 また妙な想像力を巡らせ始めていることに気づき、遥は首を横に振った。

 止めていた歩みを再開し、ベンチ前を静かに通り過ぎる。
 無意識に息を止め、不自然にならない程度に素早く。

 視界からベンチが消える。ほっと息をついた直後、夜風に何かがはためく音がした。

「ねえ君」
「えっ」

 思いのほか至近距離から掛けられた声に、びくりと肩が跳ねる。

 背後を振り返った遥の身体に、ふわりと空気を含んだ何かが当てられた。
 瞬間、眩い光に包まれた心地がして、咄嗟に声が出てこない。

「やっぱり思った通りだ。よく似合ってる」

 夕焼けが夜を連れてきた空を背景に、見目麗しい男がこちらを見下ろしていた。
 先ほどまでベンチで双眼を閉ざしていたイケメンさんだ。

 柔らかそうな茶髪がふわりと夜風に揺れ、星屑を集めたように光瞬く瞳が、真っすぐこちらに向けられる。

「突然ごめんね。君に、どうしても頼みたいことがあるんだ」
「え……え?」
「俺のために、このドレスを着てほしいんだ。どうかな」
「……」

 はい?

 心の中で辛うじて呟いた遥に、目の前の男はにっこり笑みを浮かべる。

 会社帰りのスーツ姿の人々が行き交う駅前広場にて。

 遥の身体に押し当てられていたものは、先ほどまで男に抱えられていた純白のウエディングドレスだった。



「遥先輩! 昨日駅前広場で超絶イケメンにプロポーズされたって本当ですか!?」

 嬉々とした後輩の問いに、オフィスにいる人の視線が一挙に集まった。

「プ、プ、プロポーズ……違うよ違う! あれは何かの間違いでちょっと声をかけられただけで、大それた意味はないよ……!」
「でもでも私ちゃーんと同期の子から聞きましたよ! 遥先輩に突然迫ったイケメンが、俺のためにウエディングドレスを着てほしいって迫ってきたんですよね!?」

 瞳をらんらんと輝かせながら詰め寄ってくる後輩の背後で、何人かの女性社員が「きゃー!」と黄色い歓声を上げる。

 由々しき事態だ。
 しかも内容はほぼ間違っていない。

「とにかくプロポーズではないの! ただちょっとだけ、頼まれごとをされただけだから!」
「えええー、本当ですかあ?」
「本当の本当! はい! このお話はこれでお終いね……!」

 明確に甘い噂の種を否定したあと、遥は足早に自分のデスクに向かった。
 周囲からはまだちらほら真意を窺う視線もあるが、じきに消えていくだろう。

 遥が勤める会社オフィスは、環状線駅から徒歩数分の高層ビルに構えられている。

 植物をあちこちに植えられたレンガ敷きの駅前広場はなかなかセンスが居心地よく、商業施設やレストラン街も整備された一帯は昼夜問わず人の気配が途切れることはない。

 三十階建てのビル内には他にも多くの企業が入っているが、その数は勤続四年目の遥も正確に把握できていなかった。

「小清水さん、昨日頼んでたパワポ資料だけど」
「はい。昨日完成版を共有フォルダに保存しておきました」
「小清水さんっ、この一覧にある企業に打ち合わせのアポを入れておいてくれる?」
「はい。承知しました」

 徐々に慌ただしくなっていく社内の波に身を委ねるようにして、遥の脳内も仕事モードに切り替わっていく。

 遥は最初、無害そうな穏やかな雰囲気がかわれ営業課に配属された。
 ところが現在は社内で事務仕事をさばく総務課に所属している。

 パソコンと向き合う仕事は楽だ。
 相手の些細な表情や心の変化に気づかなくて済むから。

 人嫌いというわけでは決してないが、遥は元来考え込みすぎる性格らしい。

 例えば相手の表情の微妙な変化、会話中に生まれた些細な間、人がまとう何となくの空気感。
 それら全てを必要以上に受信しては一人慌て、困惑し、悩んでしまう。

 直属の上司に直談判した結果、幸運にも人材を求めていた総務課への移動が叶った。
 胃痛に負けてお手洗いに籠もる回数も格段に減ったのだ。

「ありがとう小清水ちゃん。今度コーヒーおごるね。それじゃあ、社外コンペ行ってきます!」
「はい、いってらっしゃい」

 笑顔でオフィスを後にする先輩を見送り、再びパソコンに向き直る。

 そのときふと目についた鞄に手を伸ばし、財布にしまっていた名刺を手に取った。
 昨日、ウエディングドレスを遥に当てた男が残していった名刺だ。

 ──劇団拝ミ座(げきだんおがみざ) 御護守(おごもり)(みやび)──

 シンプルなデザインのそれには、住所と電話番号が小さく記載されていた。

 もしも気が向いたら連絡して。いつでも待ってるから。

「……どうしたらいいのかなあ……」

 ため息交じりに独りごち、遥は額にそっと手を添える。

 脳内にリフレインするのは男の声ではなく、か細くも助けを求める女性の声だった。