「先輩、徒競走に出てたんだって。そういえば私、すごく楽しみにしてた気がする」

「ああうん。言ってたね。今日の朝も」

「なんで忘れてたのかなあ。きっと見れてないよね」

 不意に、沙那先輩の姿が頭によぎった。そういえば、眠る前に沙那先輩と話したような気がする。ということは、沙那先輩がここへ連れてきてくれたのか。
 ひとつ思い出すと、雲隠れしていた記憶が徐々に紐解かれていく。
 よかった。今回は完全に忘れてしまったわけではなさそうだ。
 それでもたぶん、徒競走は見れていないけど。
 だって、もしユイ先輩の競技を見ていたら、きっと忘れないから。

「愁、保健室に来たとき、誰かと会った?」

「いや、会ってない。保健室の先生には話を聞いてきたけど、まだ体育祭の後片付け中だから誰もいないよ」

「そっか」

 仕方ない、と私は息をつく。
 ──自分のなかでなにかがはっきりと変わっている。
 それを自覚できるようになったのは、一年ほど前からだ。記憶というわかりやすいものではなく、単純に日常生活において『あれ?』と思うことが増えた。
 夜はしっかり寝ているのに、授業中信じられないくらいに眠いとか。
 一階ぶん階段を上っただけで、全速力で走った後のような息切れを覚えたりとか。
 とりわけ、食生活は顕著に変化していた。視覚や聴覚には今のところ大きな支障は現れていないものの、味覚はほとんど失われてしまっている。
 最近は胃の消化機能の衰えも激しいらしく、油ものなどの負担のかかるものは食べられなくなった。消化しきれなくて、具合が悪くなってしまうのだ。
 だから基本的には、ゼリーやスープなどの吸収しやすく食べやすいものが主食で、香りだけで食事を楽しむようにしている。
 そんな、ちょっとしたことの積み重ね。
 それが、だんだん、本当に少しずつ重くなっていく。
 蝕まれていく身体は、まるで水面に垂らした墨が水と混ざり合って広がる様に似ていた。やがてはすべて、黒一色に染まるのかもしれない。
 それはきっと、ユイ先輩が描くモノクロの世界よりも、ずっとずっと深い黒。
 光のない、真っ暗な闇の世界──。

「姉ちゃん?」

「え、あ、なに?」

「大丈夫? やっぱり病院行った方がいいんじゃ……」

 愁の心配と不安が綯い交ぜになった表情にハッとする。