まさか本当に来るつもりなのかと驚いて、けれどそのときはどうせそのうち来なくなるだろうと軽く捉えていた。これまでも何度かこういうことはあったから。
なぜか、俺に関わった者は、遠からず離れていくのだ。
怖い、とか。なにを考えているかわからない、とか。もう聞き飽きた言葉だ。
「集中切らしちゃってごめんなさい、ユイ先輩。ちょっと名残惜しいけど、私、戻りますね。入学式抜け出してきたので、そろそろ戻らないとバレて怒られそう」
「うん。……ん? は?」
入学式を、抜け出してきた?
頭のなかでゆっくりと反芻して、ふたたび「は?」と声が漏れる。
タタッと跳ねるように踵を返した小鳥遊さんを、理解が追いつかないまま呆気に取られて見送る。しかし彼女は、唐突に立ち止まった。
そしてなにやら慌てた様子でこちらへ戻ってくる。
「いちばん大事なことを言い忘れてました」
なに、と問い返す間もなく、小鳥遊さんは俺の頬に顔を近づける。
急激に縮まった距離にぎょっとする間もない。
耳朶を桜の花弁が掠めるように、そっと囁かれた言葉。
「──……です」
すぐさま離れた彼女の小ぶりな唇が、せんぱい、と動くのを見て。
「大好きです! ユイ先輩」
ふたたび紡がれたその言葉に、幻聴ではなかったことを思い知らされた。
「それじゃあ、また明日」
満面の笑みを浮かべて、とても満足そうに去っていった見知らぬ少女。
突然の嵐に見舞われ呆気に取られるしかなかった俺は、まさかそのあと本当に彼女が屋上庭園に通い続けるなんて思いもしていなかった。
そして、いつしかそんな彼女を待ちわびるようになる自分も。
たった一ヶ月顔を見ないだけで、絵が描けなくなるほど惹かれてしまうことも。
──そのときの俺は、なにもかも想像していなかった。
◇
「ユイ先輩、体育祭なに出るんですか?」
当たり前のように俺を呼ぶ小鳥遊さんに、ほんの少し鼓動が早まった気がした。
小鳥遊さんの前には、さまざまな色が円形に並べられたキャンバスがある。最近は筆で色を作って遊ぶ程度で、本格的に絵を描いているところを見ていない。
気分ではないのか、スランプなのか。どちらにしても楽しそうではあるけれど。
「ユイ先輩?」
黙り込んでいた俺を、小鳥遊さんが覗き込むようにして顔を出してきた。
ハッと我に返り、その距離の近さにどきりとする。