面食らいながら振り返ると、隼は面倒見のいい兄のような顔をして「ほら」と顎で行けよと促してくる。ぶっきらぼうながら、そこには諭すような強い思いがあった。

「気になってんだろ、結生」

「っ……うん。ありがとう」

 俺はひとこと言い残し、タッと走り出した。
 例年、展示会の構造はほぼ変わらない。入口近くから始まり、順序通り奥に進むにつれて賞の格がだんだんと上がっていく。つまり、最も優秀たる金賞は最奥だ。
 俺は途中の作品にはいっさい目もくれず、真っ直ぐに毎年自分の絵が飾られているエリアへと向かう。朝一だからか、まだ観覧客はまばらだ。館内では走るなと注意されそうだが、運よく警備員と遭遇することなく、目的の場所まで辿りつく。
 そして、俺の足は止まった。
 A4サイズよりも二回りほど大きいF6キャンバス。金賞と冠を被ってそこに飾られていたそれは、受賞者の名前を見るまでもなく、鈴の絵だとわかった。

「……す、ず」

 俺は一歩、一歩、とその絵へと歩みを進める。
 震えていた。足も、手も、喉も。けれどそんな自分に気づかないくらい、俺はただただ目の前の絵に魅了されていた。

 ──それは、広大な空に泳ぐクラゲの絵だった。

 心臓が不思議なほどゆっくりと音を立てている。体中の血液の流れが止まってしまったのではないかと思うほど、俺はすべてを忘れてその絵に魅入った。

 朝と昼と夕と夜。一日の空の様子がすべて詰め込まれたような空に、ふわりふわりと流れるように、雄大に身体を委ねて揺蕩うクラゲ。

 俺のことをクラゲみたいだと言った鈴の笑顔が、ふいに脳裏に浮かんだ。
 海ではなく空。空に泳ぐクラゲ。
 色の使い方だとか、技術だとか、そんなことはいっさい気にならない。ただとにかく、その一枚絵が訴え働きかけてくる情念が、俺にとってはあまりにも衝撃だった。
 ゆっくり、ゆっくりと視線を下へなぞらせて、ようやく『小鳥遊鈴』という名前を見つけた。そしてさらにその下。この絵のタイトル。

 タイトル:私の好きな人

 サブタイトル:海の月の道しるべ

「……海の、月──くらげ、って……俺、かな」

 その瞬間、俺の瞳からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
 耐え切れなかった。
 泣きたい、という気持ちを抱く前に泣いたのは、生まれて初めてだった。
 次から次へと流れていく涙は、頬を伝って地面へ吸い込まれていく。