思いがけない人物が飛び出して、俺はガクンと動きを止める。靴を履こうとしていた足をそのままに、勢いよくハル兄を見上げた。
「……母さん?」
「うん。母さん、亡くなる前に言ってたよ。結生にはこの家に縛られずに、自由に生きてほしいって。なんというか、おまえはどうも、幼い頃からうちの空気には馴染まなかっただろう。それを母さんはずっと心配していてね」
ぐらりと脳が直接的に揺れた気がした。
「だから、私としては美大に進んでくれて安心してるよ。父さんも口先ではなんだかんだ言っているけど、本当はほっとしてるんだと思う。ただ、おまえと一緒で不器用なだけで」
「……わ、かってる。今朝、父さんがアトリエにきたから」
「えっ」
正直、俺も驚いた。俺のことなどそもそも眼中になく、そう遠くないうちに勘当されるとばかり思っていたから。いや、むしろ最初は卒業と共に追い出されるのかと身構えたくらいだ。だが、いざ父さんの口から飛び出したのは──。
「……『卒業おめでとう』ってさ。大学も頑張れ、って言われたよ」
「うっそ。あの父さんが?」
「うん。それと……心配もされた」
靴に足を嵌めこみながら続けると、ハル兄がわずかに息を詰めたのがわかった。
父さんの『心配』はハル兄も理解できるところなのだろう。むしろ、同じ気持ちを抱いたからこそ、わざわざこうして俺のもとにやってきたに違いない。
だから、聞かれる前に答えることにする。
「──俺は、大丈夫だよ。ハル兄」
「っ……でも、ショックだろう」
「だとしても、大丈夫。俺はこれから美大に進んで絵を学ぶ。絵を描き続ける。それが俺が選んだ道だから、そこはもう揺るがない」
約束したのだ。他でもない、鈴と。
だから、どれだけつらくとも、暗れ惑いそうになっても、俺は歩む足を止めることは許されない。止めてしまえば、彼女が悲しむから。心配させてしまうから。
「……生きなくちゃいけないんだ。俺は、ひとりでも、この世界で」
泣いている暇なんて、どこにもない。
「っ、結生。そんなに気を詰めていたら、すぐに限界がくるよ」
「わかったようなこと言わないでくれる? とにかく、大丈夫だから。俺のことは気にしないで、ハル兄は当主に集中したら」