「失うことは、もう慣れたはずで。でも、このさきにある死だけは、どうしても実感できなくて。それが無性に怖くなるんです。実感なんてできない方がいいに決まってるのに変ですよね」

 おかしいな、と思う。
 この五年、片時もそれを忘れたことはないのに。
 いつだって目先にある死を自覚して、受け入れることに専念してきたはずなのに。

「変、ではない。すごくね、難しいことだと思うよ。誰だって命が尽きる瞬間のことなんてわからないし、怖くないわけがないんだから」

 先生は少し寂しげに目を細めながら、ふるふると首を横に振った。

「経験したことがないものは誰だって怖いもの。私は医者だから日々患者さんと一緒に生死と向き合って生きているけど、それでもわからないわ。こんなこと、あまり大きな声で言えないけどね」

「ふふ、先生でもわからないんじゃ私にわかるわけないですね」

 思わずくすりと笑ってしまう。先生は決して表面上の慰めを言わない人だ。病気のこともすべて包み隠さず、私がわかるように教えてくれる。だから、信頼できる。
 先生はどこかホッとしたように表情を和らげながら、私の絵を覗き込んできた。

「なにか描きたいものがあるの?」

「はい。久しぶりに評価を気にせず描いてるものだから、すごく楽しいです」

「そっか。それはよかった。心の持ちようは体調にも関わってくるからね」

「本当に。病は気からって言葉、ほんとに馬鹿にできないなってずっと思ってますよ」

 それからしばらく先生と他愛のない話をした。先生が仕事に戻ったあともスケッチブックに向き合っていたら、いつの間にか眠ってしまったらしかった。
 そして起きたとき、いちばんに見つけたのはユイ先輩の残り香。
 机の上に置いてあったメモ用紙に記された『おはよう。寝顔、ごちそうさま』という先輩の癖のない綺麗な字。
 今日も来てくれたんだと素直に嬉しくなって、けれど起きていなかった自分が心底嫌になって、なぜか無性に、どうしようもなく泣きたくなってしまった。

「……死にたくない、なあ」

 こんなにもつらいのは、それほど先輩が好きだからだ。
 ユイ先輩は、私の光そのもの。
 いつだって私が手を伸ばす先には、ユイ先輩がいた。
 深い深い水の底から見上げると、水面越しにはいつもこちらを見下ろす月がいた。