「そんな発想すら抱かないわよ。付き合ってって言ったときだって、二つ返事で『いいよ』だったけど、二言目には『俺はなにもできないけど』だし」

 ああ、と私は虚空に目をやった。
 それは容易に想像できる。ぴくりとも表情を動かさず、わかっているのかわかっていないのかも判然としない感じ。彼特有の、先輩ワールド。

「付き合ってる最中だって、キスのひとつもしたことなかった。彼女なんて名ばかりで、結生があたしを見てくれたことなんて一度もなかったわ」

「……それは……」

「別れるときもそう。『別れて』って言ったら、なんて返してきたと思う? 『うん?』よ。疑問符よ! 付き合ってたことすら忘れてたのよ、あいつ!」

 ここまでくると、もはや気の毒になってくる。次から次へと溢れ出てくる愚痴の数々に、私はひたすら同情の目を向けることしかできない。
 同じ恋する女の子としては、共感する部分も多々ある。
 けれどそれは、結局、私の好きな相手のことなわけで。
 複雑だ、となんともあやふやな顔をこしらえていた私に、沙那先輩は吐き捨てるようなため息をついた。八つ当たりしてひとまず鬱憤は晴らしたらしい。
 一度大きく深呼吸して荒ぶった息を整えると、改めて私に向き直る。

「……でも、そんな結生が」

 キュッ、と。まるで鈍い痛みを堪えるように、沙那先輩が眉根を寄せる。

「あの唐変木の人形が、ここ一ヶ月、ずっと気がそぞろだった」

「へ?」

 丁寧にネイルの施された爪先が、柔らかそうな手のひらに食い込んでいた。

「あなたのせいよ、小鳥遊さん」

「……それはまた、どういう意味で?」

 責めるような口調と共にキッと睨みつけられ、私はさすがに狼狽えた。

「あなたがいなかったこの一ヶ月、結生は一枚も絵を完成させてないの」

 思わず「えっ」と口から素っ頓狂な声が飛び出した。
 一日で大作を仕上げてしまうこともある天才画家のユイ先輩が、まさかそんな。
 そう思う傍ら、さきほど違和感を覚えた空虚なキャンバスを思い出す。
 たしかに、ほぼ白紙だった。
 そもそもアタリなんて、ユイ先輩は普段描かないのに。

「本人は、自分がどうして集中できていないのかも気づいていないみたいだったけどね。でも、周りからしてみれば一目瞭然よ。口を開けば『小鳥遊さん、見た?』だもの。おかげであたしは、毎日無駄に二年生の教室まで出向くハメになったわ」