「ぞうさんの歌ってどうして『かあさん』しかでてこないんだろうな」
 大きなぞうを見ながら、中瀬の父がぼそっと呟いた。
 まだ五歳になったばかりの中瀬は首を傾げ、ぞうさんの歌を小さく口ずさんで歌詞を確かめる。あまり気にしてなかったから、最後まで『かあさん』しかでてこないことに改めてはっとして驚いた。
 父親の手をそっと掴み、歌に『とうさん』がでてこなくても、自分は父親が大好きだといいたかった。
「どうした、モモちゃん?」
「あのね、えっと、モモはちゃんと、『とうさん』って歌うから」
 中瀬は子供心ながら喜んでもらえると思っていた。だけど父親ははっとして顔を曇らせた。
 中瀬にはその時ぞうさんのお父さんのことを言ったのに、父親には皮肉にも『倒産』と聞こえてしまった。
「お父さん、どうしたの? なんで悲しそうな顔をするの?」
「ごめん、ごめん。気にしないでいいんだよ。なんでもないから。ところで、モモはぞうが好きか?」
「うん。大好き」
 はっきりと答えたのは、長くゾウを眺めていた父親を喜ばせたかったからだ。
「ぞうは大きくて強いもんな。子象を大切にして優しいし」
 父親の目が潤んでいた。
 いつもは忙しい父親と一緒に動物園に来られたことがとても嬉しくて、中瀬は楽しんでいたのだけれど、それが父親との別れのときになることをまだこのとき知らなかった。
 父親は腕時計を気にし、午後三時になったとき、中瀬と向き合った。
「お父さんはこれから会社にもどらないといけないんだ」
「ええ、今日はずっと一緒にいてくれるんじゃないの?」
「ごめんね、モモちゃん」
「やだ。もっとお父さんと一緒にいたい」
 その言葉に父親の胸が張り裂けそうになる。でもぐっとこらえて父親は真剣に向き合った。
「あのね、モモちゃんの名前はね、お父さんがつけたんだよ。それでモモちゃんはピンク色が大好きだよね」
「うん、そうだよ」
「ピンク色はモモちゃんの色。だからお父さん、ピンク色を見る度、モモちゃんを思い出して一生懸命頑張るからね。お父さんはいつもモモちゃんのこと大好きだからね」
「お仕事が終わったら、また一緒に遊んでくれる?」
 あどけない瞳。それを見つめながら父親は嘘をつかなければならなかった。
「うん、わかった」
「やった。早くお仕事終えてね。モモね、お父さんと行きたいところいっぱいあるんだ」
 後ろから母親が悲しそうに小さい中瀬の肩に手を置いた。父親は目で何かを問いかけ、母親は黙って頷いた。
「それじゃモモちゃん、お母さんの言うことをよく聞くんだよ」
「うん、モモ、いい子にしておく」
 それが父親との最後の会話だった。
 それから父親が戻ってこないことを知り、中瀬は悲しみに包まれる。そんな中で描いたピンクのゾウの絵。父親のために描いた絵だった。
 いつか戻ってきてくれる、願いをこめて描いていたときにピンクのゾウはいないと意地悪な男の子に否定された。
 ピンクのゾウなんて居るわけがないくらい、幼稚園児の中瀬にも分かっていた。礼子も先生の立場上傷つけないように言葉を探してごまかそうとしていた。そんな時に耀だけが、はっきりと居るといってくれた。
 どれだけ中瀬を勇気付けたことだろう。
 あの日から中瀬は耀のことが好きだった。耀は自分がすごいことをした自覚がなく、ずっと忘れていた。それどころか中瀬を怖がっていた。
 でもピンクのゾウがさまざまな人のイメージで形になり始めたとき、みんなの思いが繋がって抱えていたそれぞれの傷口を癒してくれた。
 ピンクのゾウは人々の心を鼻でノックする。
 ――ノック、ノック
「どちら様ですか?」
 ――ピンクのゾウです。
 人々はそういう不思議な瞬間を知らずと待っている。このままの自分でいたくない変われるきっかけを。
 中瀬も待っていた。
 あの夕暮れに耀と手を繋いでぞうさんの歌を歌ったとき、ありのままのお互いを認め合えた気がした。
 自然と歌ってしまうぞうさんの歌だけど、あの短い歌詞の中にはとても深い意味がこめられている。
 ぞうは長い鼻をからかわれるも、大好きな母さんも長い鼻だからそれでいいと自分に誇りを持つ歌だ。
 耀がそれに気づいたことを中瀬は喜んだ。そして耀と距離が近くなっていく予感を感じていた。
 中瀬はあの時、耀とピンクのゾウの背中に乗って空を飛んでいる気分でいた。耀とならどんなイマジネーションも一緒に描ける。まるで未来を設計するように。
 だけどその次の日、急激に魔法が解けて教室で顔を合わすのが恥ずかしくなってしまったけど、どちらも踏ん張って「おはよう」と挨拶した。
 挑むような目つきの中瀬。少し怯える目の耀。その裏でお互いドキドキしていたと思う。
 周りのみんなの視線も感じていた。だけどふたりは気にしなかった。
 そのうち噴出して笑いが止まらなくなってくる。
「おっす、坂内、中瀬! 何を見詰め合って笑ってるんだよ」
 翔平が慣れ慣れしくふたりの間に入ってそれぞれの肩を組んで引き寄せた。
「ちょっと八頭君、離れてよ」
 それを言ったのは耀だった。自分だけならまだしも、中瀬にまで体を密着させてるのが気に入らない。
「おいおい、いいじゃん、もう俺たち友達だろ」
「だから、その」
 耀は中瀬にくっ付くなといいたかったのだろう。肝心なところでまだ強く翔平には言えなそうだ。
 中瀬はフフフと笑ってしまう。このままでは本当に筋書き通りに三角関係に発展しそうだ。それはそれで面白いと自分がヒロインになれる色んな筋書きを想像していた。
 教室の隅で友達ABCの三人が、耀と翔平と仲良くなっている中瀬の様子を見て驚いていた。
 中瀬は三人に声を掛ける。
「美香ちゃん、由真ちゃん、亜紀ちゃん、こっちおいでよ」
 素直に彼女たちの名前を呼んで手招きしていた。
 これから楽しい高校生活になる。中瀬は、みんなを取り込んで頭の中で青春ストーリーを想像する。たとえそれがベタでよくある展開であっても、最後は必ずハッピーエンドを迎える。
 それは先の未来までずっとずっと思い描き続けていく。