今も忘れられない人がいる。顔も、声も、住んでいるところも知らない。教えてもらった名前が本当のものだったのかも分からない。
 それでも私たちは恋をした。あのひと時は、間違いなく恋だった。
 けれど人はそれを、依存、とも呼んだ。

 時は進んで十年後、失恋の傷も長い時には逆らえず、癒えてくれた時に結婚相手となる喜一と結ばれた。あの人とは全く関係のない人。それはそれは幸せなひと時を送っていた。

 ところが喜一が交通事故に巻き込まれ、意識不明の重体に。手術を繰り返すも意識は戻らず、心臓移植という形で意識を取り戻す。

 退院をし、今までと同じ日々を送れると思っていた矢先のことだった。

「夏菜子」

 喜一は私を、かな、かなちゃんのどちらかで呼ぶ。もちろんシリアスな場面、例えばプロポーズの時なんかは夏菜子さんとも呼ばれたが、今は何でもない、散歩の真っ最中。

 蒸し蒸しとする暑さのせいで汗が止まらない彼の額を、ハンカチで拭おうとしただけのこと。