お腹を満たしたあと、瑠衣に連れられるままに川辺へと向かった。

「おっ日高もきたか」 
「何やってるの?」

 葉山くんと数人の男子達は、ズボンと腕をまくりあげ何か水遊びをしているようにみえた。瑠衣は既にその中に混じっており、水の中でも軽快に足を動かし男子たちと川を走り回っている。

「ここ綺麗な川だからさ、ヤマメとかアマゴがいるんだ」    
「……。」
「あっ魚ね。ここみたいに綺麗な川にしかいないんだ。だから今取れないかなって頑張ってる」

 葉山くんが優しくて良かった、突然並んだ三文字のカタカナ達に私の頭は追いついてなかったから。それにしても、手掴みで魚を取ろうとするなんて葉山くんは男の子だなと改めて思うのと同時に、それになんの違和感もなく男子達に混ざれる瑠衣は凄いと思った。

「日高もこっちにおいでよ」

 川岸に立つ私に手を差し伸べた葉山くんの顔は、水面のひかりが反射してより輝いてみえた。甘い言葉が私の心に染み込むと、ぽぅっと底から温まっていくのを感じた。

 靴を脱ぎ、つま先から順に水面に浸していく。ひんやりとした冷たい水が熱を持ち始めていた身体を少しずつ冷やしていくのを感じた。

 冷えていく身体と温まっていく心。この歪みが今の私は心地よくて、水面を蹴り葉山くんとの距離が近づく程に大きくなるそれを私は愛した。

「日高なんか最近変わったよな。前より明るくなったっていうか、接しやすくなったっていうか、分かんないけど今の日高は凄く魅力的にみえるよ」 
「……ありがとう。」

 時が一瞬止まった気がした。別に告白された訳でもないのに、頬が熱くなり思わず視線を反らしてしまう。

 水面に映る顔が揺れてる。

「前の日高はさ……」

 そこで言葉をつぐんだ葉山くんをみて、彼なりに私に対する言葉を選んでくれてるのだろうと分かった。

「いいよ。もう過去のことだしなんでも言って?」 
「じゃあ遠慮なく……」

 一瞬申し訳無さそうに視線下ろすも、改めて私の顔に澄んだ瞳を向けて続ける。

「なんか近寄りがたいっていうか。表情も常に暗くて、もう世界の何にも興味ないみたいな顔をしてたから話しかけづらかったんだ。だから俺もそんな日高をみてて話しかけたいと思わなかったし」

 葉山くんの言う通りだと思う。私は誰とも話したくなかった。それに何をしても、何を見ても、心は揺れない。母という大切な存在を失った私は、この世界で生きていく道標すら見失っていたのかもしれない。早く消えたい。そんな風にすら思ってた。

「葉山くんの言う通りだよ。私……この世界で生きていく喜びとか幸せを見出だせなくて、何を目標に人生を生きていけばいいのかも分かんなくなってた」

 この二年間ずっと私が思ってたこと。振り返ればすぐそこにあるはずの記憶が、遠い昔のように感じる。

「でもね、今は違う。私みんなと一緒にいれて楽しいの。勉強も絵も頑張りたいと思ってるし、みんなとの思い出を作りたいとも思ってる」

 これが今の私の気持ち。もっと早くに気付くべきだった。私の生きるこの世界は、ひかりで満ち溢れてるということを。

「そっか、じゃあ思い出作らないと…なっ」

 葉山くんはそう言葉を切ると、身体を屈め手のひらで弾いた川の水を私に向けてかけてきた。

「きゃっ、ちょっと…」
「思い出作るんだろ?ほら、日高もかけてこいよ」

 口角を上げ、にっと笑った葉山くんが再度水をかけてきたので負けじと私も水をかけ返す。弾かれた水滴が宙を舞い、陽の光を反射して煌めいてた。川のせせらぎが、葉山くんや瑠衣、みんなの声が、私の鼓膜を震わせる。 

 ずっと憧れてたような高校生活が、今、目の前にある。

 そう思うと胸が熱くなった。

 葉山くんとの水遊びに終止符を打ち、「ちょっと休憩させて」と呟きながら空に視線を送った時、何かの虫の羽音が聴こえた。 

「きゃーっ」

 近くに虫がいると思い、柄にもなく叫んでしまった。同時に右手を自分の顔の前で何度も大きく振る。

「日高、駄目だ!!」

 空に響き渡るような葉山くんの大きな声で、身体を仰け反らせてしまう。そのまま川の中へと吸い込まれていきそうな時、私は葉山くんに手を引かれ、なんとか態勢を立て直せた。突然大きな声を上げた葉山くんに、瑠衣や他の男子達も驚き私達の元に駆け寄ってきた。

「大きな声出してごめん。でも、ほらあれみて」

 葉山くんの指を差す方へ視線を送る。静かにせせらぐ川の水面から少しだけ顔を出した岩のうえに、さっき私が手で振り払おうとした虫が佇んでる。 

 私にはただの虫にしかみえない。

「あれがなんなの?」
「あれはカゲロウっていう虫なんだ。幼虫で一年からニ年。そして成虫になってからは、たった一日しか生きられない短命の虫。だから、殺したら駄目だ」

 目を細め儚げにみつめる葉山くんの言葉に、私は罪悪感に駆られた。知らなかった……。

 たった一日しか生きられない虫がいるなんて。もし、私の手が当たってたらあの虫は、ただでさえ短い命を使い切ることなく散っていたんだ。

「ごめんなさい」

 私は顔を俯け、葉山くんの顔を見れなかった。ただ消え入るような声で謝るだけで。

「日高は知らなかったんだから仕方ないよ。それにまだ生きてる。何もしてないんだから謝らなくていいんだよ。……ほら、みて!」

 葉山くんに言われるがまま、私はさっきの岩に視線を戻す。岩肌に止まっていたカゲロウは、今まさに飛び立とうとしていた。微かに動いた羽が私達にそれを知らせる。

 そして。

 辺り一面に燃えたぎるようなひかりが射し込む中、静かに飛んだ。鮮やかな茜色に染めた羽根を、身体を、燐光を発するかのように輝かせながら。

 私は、その姿をただ見つめていた。

 いや、動くことが出来なかったのだ。命の灯火を最後の瞬間まで燃やすかの如く力強く羽ばたくその姿が、茜空に消えるまで。

「綺麗……」

 ぽつりと放たれたその言葉が、自分の口から出たものだと気付くまでに数秒の時間を要した。

 それくらい魅せられていたのだ。
 あんな風に私も生きられたら。
 一種の憧れの気持ちもあるのかもしれない。
  
「俺も好きなんだカゲロウ。なんか生きる活力を貰えるっていうか、あんなに小さな身体でもこの世界を全力で生きてるのに、俺はなにやってんだろうって。頑張ろうって思えるんだ。」
「なんか分かる気がする。」

 川のせせらぎが静かに鼓膜を揺らす中、いつになく真剣な眼差しで話す葉山くんの言葉は不思議なくらい私の心に染み渡っていった。

「日も暮れてきたし、そろそろ解散にするか。明日も学校だしな」
「そうだね!」

 葉山くんの放った言葉に、私は力強く頷いた。

 そして、振り返った。

 同じように、あの瞬間をみた瑠衣の方へ。

「瑠衣、帰ろ」

 夕陽を見つめていた瑠衣は、下唇を噛んでいるようにみえた。

 でも、私の声と共に顔を明るく染めると、いつものように屈託のない笑顔を浮かべる。

 潤んだ目で私をみつめて。

「うん、帰ろ。」  

 消え入るような声で呟いた。