室内にいる時もずっと聴こえていたヒグラシの鳴き声が、外に出るとより一層大きくなる。悲しげで、夏の終わりを惜しむかのように私には聴こえた。
「そこの通路を曲がって左手にあるのが……食堂で、私達の寮は反対側にあるからついてきて」
言いながら、何で私がこんな事をしなければならないのだろうと思わずにはいられなかった。きらきらと目を輝かなせながら時折「わぁ……」と感嘆の溜息を溢し、私の隣を歩いているのは今日転校してきたばかりの彼女だ。クラスメイト達への挨拶も早々と切り上げて、私の元へとそさくさと歩いていきたあと、友達になって?と言ってきたのが今朝のこと。それをみていた白石先生は白い歯をみせてにっと笑い、「大橋の積極的に友達を作っていく姿勢、先生は凄く好きだな。よし、じゃあご指名だし日高が放課後に校舎と寮を案内してやってくれ!」とあろうことかクラスで最も友達という言葉とは縁遠い私にその任を託してきたのだ。
いくら同性とはいえ、もう二年もの間まともにクラスメイト達と話していないうえに、あまりにも唐突な出来事が続いていたせいで私が魚みたいに口をぱくぱくとさせていると、「じゃあ、頼んだぞ!」と念を押すように言われてしまい、渋々引受けざる負えなくなってしまった。
「ねぇ、美咲凄いね!自販機が二つもあるの?」
「うん……、あと寮の前にも二つ……あるよ」
彼女は、今日出会ったばかりの私のことを下の名前で呼ぶ。距離感が近すぎて、どう接したらいいのか逆に分からなくなってしまい、私はたどたどしくなってしまう。彼女から足元へと視線をすぐに流し、左手で額を拭った。ただ歩いているだけで汗が滲む。もうカレンダーでは9月に入っているというのに、気温は一向に下がらない。昼の間、まるで夏が最後の力を振り絞っているかのような強い陽の光が空から降り注ぎ、それを目一杯吸い込んだ地面から発せられたねっとりとした空気に一歩外に出ると包まれる。
「うわぁ、今の高校ってこんなに設備が整ってるんだね!」
きょろきょろと顔を通路や校舎へと向けながら、彼女が言う。
前の高校には自販機は置いてなかったのだろうか。そういえば、彼女がどこの県から転校してきたのかまだ聞いてない。まあ、私にはそれを聞く勇気も、彼女がずっと話し続けているせいで聞くタイミングなどなかったのだけれど。
校庭の外周を囲み込むようにして繋がっている校舎から寮への通路を横並びになって五分程歩いていくと私が寝泊まりしている女子寮がある。鍵を差し込み入口の扉を開け、三階にある私の部屋へと案内する。年季の入った階段や建物はお世辞にも綺麗とは言えないが、部屋の中は私が入学する少し前にリノベーションされただけあって綺麗だ。
「えっすごい綺麗!二段ベッドまであるじゃん!私、上がいい……!」
部屋の中に入ると開口一番に彼女はそう言って、ベッドの上に自分の手にしていた荷物を置いた。階段に足をかけ、意気揚揚と登っていく。こういう時、ふつう確認したりしないものなのだろうか。もし、私が使っていたらどうすつもりだったんだろう。
「ねぇ美咲、上使っても大丈夫だった?」
心の中でそんなことを考えていたら、彼女が言う。
「うん……大丈夫だよ。私は、下を使ってるから」
そう、私は彼女とルームメイトになった。この高校では入学すると同時に男女それぞれに二人〜三人部屋が与えられる。二段ベッドとクローゼットとテーブルがあるだけの簡素な部屋だが、室内にトイレとシャワールームもついている為に住心地は良かった。以前は、私ともう一人の女の子でこの部屋を使っていたのだが、その子は高一の夏休みに入る前に親の仕事の都合で海外に行った為に、それからは私一人の部屋になっていた。その一人分の空きを埋めるような形で彼女は私と同じ部屋になった訳だ。放課後、転校してきた彼女が私のルームメイトになるということを白石先生から聞かされた時は思わず目を大きく見開いて「え」と声を出してしまった。
鼻歌を歌いながらベッドの上に鞄から取り出した洋服を丁寧に並べていく姿を、私は下から見上げるようにしてみつめる。小窓から差し込む西日は既に橙色に染まっており、彼女の透き通るような白い肌がほんわりと染まっている。私は部屋の中央に位置するテーブルの前に腰を下ろしてみたり、立ち上がってはまた彼女をみつめてみたりと、自分の部屋にいるはずなのに落ち着かない。まるで、初めて友達の家にきたかのようでそわそわする。
「どうしたの?もしかして緊張してる?」
心の中を読めるかのように、彼女は優しげな表情で問い掛けてくる。
「うん……、前の子が転校してからずっと一人だったし、大橋さんとも今日会ったばかりだから緊張してるかも」
言い終えて、視線を下に向けた。心做しかスカートの先から伸びる足が小刻みに震えてる気がした。手も、震えてる。もう長い間、誰と話す時も水面の上澄みを掬ったような会話だけでまともな会話をしていなかったせいか、少し話すだけでも口の中が乾き、心臓が跳ねるように早くなっているのが分かった。
「瑠衣だよ」
「え?」
顔を上げると、大きな目の中にある澄んだ瞳が私を見つめていて、ゆっくりと彼女は笑った。
「私も美咲って呼ぶから、瑠衣って呼んでって言ったじゃん。」
「え……、でも今日会ったばかりだし、そんなすぐに名前で呼べないよ」
「じゃあ、練習しよ!」
よっ、と二段ベッドの上から階段を半分程降りた所で飛び降りて、彼女は私の前に立った。眉の辺りで切り揃えられた綺麗な髪に、大きな目、それに透き通るような白い肌。教室にいる時も遠目でみて思ったが、近くでみるとより整った顔立ちをしているなと思わず見惚れてしまった。
「はい、瑠衣って言って?」
「る……い」
「もっと大きな声で」
「瑠衣!」
久しぶりにこんなに大きな声を出した。喉が少しいがいがする。
「あははっ」
「え、なに?」
突然声を出して笑う彼女に──瑠衣に、私は戸惑いを隠せない。
「だって美咲が大きな声を出そうとする時の必死な顔が面白かったんだもん」
そういうことかと思った瞬間、全身が熱を持った。今の私は耳たぶまで赤くなっているのじゃないだろうか。先端まで熱を持っていることが分かる。
「ちょっと、ひどいよ……。瑠衣が大きな声を出してって言ったんじゃん」
そう言った瞬間、今度は瑠衣が優しげな笑みを浮かべた。新緑の芽が春の風にそよがれるような、そんな優しい笑顔だった。
「やっと自然に瑠衣って言ってくれた」
「あ……」
私は思わず口元に手を当てた。
「はい、じゃあ私達これで本当に友達ね。」
右手が差し出される。今日二度目となる“友達”というその言葉が鼓膜に触れて、心に染みた時、穏やかな温もりを感じた。私は、ゆっくりと左手を持ち上げて瑠衣の手を掴んだ。細く、しっとりとした触覚で、瑠衣の手は冷たかった。
「……うん、これからよろしくね。私も……、瑠衣と友達になりたい」
考えるより前にその言葉が出ていた。不思議な心地だった。母が死んで私の世界は壊れてしまい、現実と私の世界の間にはいつも透明なみえない膜のようなもので隔てられている感覚があった。その膜を通して現実と触れ合う時、何をみても綺麗だとは思えず、何を食べても美味しいと思えなかった。そして、誰と話していても楽しさや安らぎといったような心が波打つことはなかった。虚無感という感情だけが私の心を満たしていたのだ。
でも、瑠衣と話している時は違った。妙な安心感というか、心が穏やかな心地になっていくのを感じた。教室にいる時は他のクラスメイト達もいたせいかその感覚にはならなかったが、二人で部屋で過ごし話している内に、瑠衣の明るい性格が、瑠衣の存在が、私の世界と現実を隔てている膜をすり抜けるかのように入ってくることが心地よく感じた。
目の前に咲く眩い笑顔の向こうで、あの日と同じような陽の光が窓から差し込んでいる。
もし、あともう少し早く瑠衣と出会うことが出来ていたなら、私の世界が壊れることはなかったのかな。
なんとなく、そう思った。
「そこの通路を曲がって左手にあるのが……食堂で、私達の寮は反対側にあるからついてきて」
言いながら、何で私がこんな事をしなければならないのだろうと思わずにはいられなかった。きらきらと目を輝かなせながら時折「わぁ……」と感嘆の溜息を溢し、私の隣を歩いているのは今日転校してきたばかりの彼女だ。クラスメイト達への挨拶も早々と切り上げて、私の元へとそさくさと歩いていきたあと、友達になって?と言ってきたのが今朝のこと。それをみていた白石先生は白い歯をみせてにっと笑い、「大橋の積極的に友達を作っていく姿勢、先生は凄く好きだな。よし、じゃあご指名だし日高が放課後に校舎と寮を案内してやってくれ!」とあろうことかクラスで最も友達という言葉とは縁遠い私にその任を託してきたのだ。
いくら同性とはいえ、もう二年もの間まともにクラスメイト達と話していないうえに、あまりにも唐突な出来事が続いていたせいで私が魚みたいに口をぱくぱくとさせていると、「じゃあ、頼んだぞ!」と念を押すように言われてしまい、渋々引受けざる負えなくなってしまった。
「ねぇ、美咲凄いね!自販機が二つもあるの?」
「うん……、あと寮の前にも二つ……あるよ」
彼女は、今日出会ったばかりの私のことを下の名前で呼ぶ。距離感が近すぎて、どう接したらいいのか逆に分からなくなってしまい、私はたどたどしくなってしまう。彼女から足元へと視線をすぐに流し、左手で額を拭った。ただ歩いているだけで汗が滲む。もうカレンダーでは9月に入っているというのに、気温は一向に下がらない。昼の間、まるで夏が最後の力を振り絞っているかのような強い陽の光が空から降り注ぎ、それを目一杯吸い込んだ地面から発せられたねっとりとした空気に一歩外に出ると包まれる。
「うわぁ、今の高校ってこんなに設備が整ってるんだね!」
きょろきょろと顔を通路や校舎へと向けながら、彼女が言う。
前の高校には自販機は置いてなかったのだろうか。そういえば、彼女がどこの県から転校してきたのかまだ聞いてない。まあ、私にはそれを聞く勇気も、彼女がずっと話し続けているせいで聞くタイミングなどなかったのだけれど。
校庭の外周を囲み込むようにして繋がっている校舎から寮への通路を横並びになって五分程歩いていくと私が寝泊まりしている女子寮がある。鍵を差し込み入口の扉を開け、三階にある私の部屋へと案内する。年季の入った階段や建物はお世辞にも綺麗とは言えないが、部屋の中は私が入学する少し前にリノベーションされただけあって綺麗だ。
「えっすごい綺麗!二段ベッドまであるじゃん!私、上がいい……!」
部屋の中に入ると開口一番に彼女はそう言って、ベッドの上に自分の手にしていた荷物を置いた。階段に足をかけ、意気揚揚と登っていく。こういう時、ふつう確認したりしないものなのだろうか。もし、私が使っていたらどうすつもりだったんだろう。
「ねぇ美咲、上使っても大丈夫だった?」
心の中でそんなことを考えていたら、彼女が言う。
「うん……大丈夫だよ。私は、下を使ってるから」
そう、私は彼女とルームメイトになった。この高校では入学すると同時に男女それぞれに二人〜三人部屋が与えられる。二段ベッドとクローゼットとテーブルがあるだけの簡素な部屋だが、室内にトイレとシャワールームもついている為に住心地は良かった。以前は、私ともう一人の女の子でこの部屋を使っていたのだが、その子は高一の夏休みに入る前に親の仕事の都合で海外に行った為に、それからは私一人の部屋になっていた。その一人分の空きを埋めるような形で彼女は私と同じ部屋になった訳だ。放課後、転校してきた彼女が私のルームメイトになるということを白石先生から聞かされた時は思わず目を大きく見開いて「え」と声を出してしまった。
鼻歌を歌いながらベッドの上に鞄から取り出した洋服を丁寧に並べていく姿を、私は下から見上げるようにしてみつめる。小窓から差し込む西日は既に橙色に染まっており、彼女の透き通るような白い肌がほんわりと染まっている。私は部屋の中央に位置するテーブルの前に腰を下ろしてみたり、立ち上がってはまた彼女をみつめてみたりと、自分の部屋にいるはずなのに落ち着かない。まるで、初めて友達の家にきたかのようでそわそわする。
「どうしたの?もしかして緊張してる?」
心の中を読めるかのように、彼女は優しげな表情で問い掛けてくる。
「うん……、前の子が転校してからずっと一人だったし、大橋さんとも今日会ったばかりだから緊張してるかも」
言い終えて、視線を下に向けた。心做しかスカートの先から伸びる足が小刻みに震えてる気がした。手も、震えてる。もう長い間、誰と話す時も水面の上澄みを掬ったような会話だけでまともな会話をしていなかったせいか、少し話すだけでも口の中が乾き、心臓が跳ねるように早くなっているのが分かった。
「瑠衣だよ」
「え?」
顔を上げると、大きな目の中にある澄んだ瞳が私を見つめていて、ゆっくりと彼女は笑った。
「私も美咲って呼ぶから、瑠衣って呼んでって言ったじゃん。」
「え……、でも今日会ったばかりだし、そんなすぐに名前で呼べないよ」
「じゃあ、練習しよ!」
よっ、と二段ベッドの上から階段を半分程降りた所で飛び降りて、彼女は私の前に立った。眉の辺りで切り揃えられた綺麗な髪に、大きな目、それに透き通るような白い肌。教室にいる時も遠目でみて思ったが、近くでみるとより整った顔立ちをしているなと思わず見惚れてしまった。
「はい、瑠衣って言って?」
「る……い」
「もっと大きな声で」
「瑠衣!」
久しぶりにこんなに大きな声を出した。喉が少しいがいがする。
「あははっ」
「え、なに?」
突然声を出して笑う彼女に──瑠衣に、私は戸惑いを隠せない。
「だって美咲が大きな声を出そうとする時の必死な顔が面白かったんだもん」
そういうことかと思った瞬間、全身が熱を持った。今の私は耳たぶまで赤くなっているのじゃないだろうか。先端まで熱を持っていることが分かる。
「ちょっと、ひどいよ……。瑠衣が大きな声を出してって言ったんじゃん」
そう言った瞬間、今度は瑠衣が優しげな笑みを浮かべた。新緑の芽が春の風にそよがれるような、そんな優しい笑顔だった。
「やっと自然に瑠衣って言ってくれた」
「あ……」
私は思わず口元に手を当てた。
「はい、じゃあ私達これで本当に友達ね。」
右手が差し出される。今日二度目となる“友達”というその言葉が鼓膜に触れて、心に染みた時、穏やかな温もりを感じた。私は、ゆっくりと左手を持ち上げて瑠衣の手を掴んだ。細く、しっとりとした触覚で、瑠衣の手は冷たかった。
「……うん、これからよろしくね。私も……、瑠衣と友達になりたい」
考えるより前にその言葉が出ていた。不思議な心地だった。母が死んで私の世界は壊れてしまい、現実と私の世界の間にはいつも透明なみえない膜のようなもので隔てられている感覚があった。その膜を通して現実と触れ合う時、何をみても綺麗だとは思えず、何を食べても美味しいと思えなかった。そして、誰と話していても楽しさや安らぎといったような心が波打つことはなかった。虚無感という感情だけが私の心を満たしていたのだ。
でも、瑠衣と話している時は違った。妙な安心感というか、心が穏やかな心地になっていくのを感じた。教室にいる時は他のクラスメイト達もいたせいかその感覚にはならなかったが、二人で部屋で過ごし話している内に、瑠衣の明るい性格が、瑠衣の存在が、私の世界と現実を隔てている膜をすり抜けるかのように入ってくることが心地よく感じた。
目の前に咲く眩い笑顔の向こうで、あの日と同じような陽の光が窓から差し込んでいる。
もし、あともう少し早く瑠衣と出会うことが出来ていたなら、私の世界が壊れることはなかったのかな。
なんとなく、そう思った。