私が事の顛末を全て聞き終えた頃には、長針が時計をニ周以上し時刻は二十一時を過ぎていた。 

「あり得ない……。なんの冗談なの?瑠衣、そんな冗談面白くもなんともないから」
 
 私は全てを聞いた上で、そう発した。でも、その言葉とは裏腹にもう心のどこかで瑠衣の話を信じ始めている自分がいた。

 もしかしたら、今、聞いた話は全て嘘偽りのない真実で、目の前にいる一人の少女は私の母かもしれないということを。瑠衣は私の話してない過去や母と私しか知らないはずの話を知っていた。そこに関してはもう疑いようの余地すらない。それでも、認められなかった。いや認めたくなかったが正しいのかもしれない。十六年しか生きてない私でも、この世界の常識は頭の中にこびり付いてる。

 ”死んだ人は戻ってこれない“

 その考えが、今、私の目の前で起きている現実を頑なに否定するのだ。

「ほんとだよ。私はあの日の夜、一緒にみてたの。それに私が死んだ時だって…」
「もう、やめて!!」
「美咲…」

 張り裂けるような声で叫ぶ私をみて、瑠衣は私の元へ歩み寄ってきた。

「近寄らないで!ちょっと、ほんの少しでいいから整理させてよ」
「……分かった」  

 ゆっくりと私の側で腰を下ろした瑠衣を横目に、私はぐちゃぐちゃになった頭を必死に整理する。こんなことが現実にあり得るのだろうか。私が瑠衣だと思ってきた人は母で、死後の世界から生まれ変わってきたなんて。目の前が一瞬で真っ白になった。

 心の中から込み上げる感情は、悲しみなのか喜びなのか、怒りや寂しさなのか、充てる言葉が分からない。ただ目元から溢れ頬を伝う涙は、その感情に呼応してることは確かだった。 

 手のひらで目元を拭った私はふっと視界に入った傷跡をみて思い付く。  

「これ、ここの手のひらの傷がいつ出来たか答えて!あなたが本当にお母さんなら答えられるはずだよ。」 

 左の手のひらを瑠衣にみえるように向けると、瑠衣は間髪入れずに口を開いた。

「小学校三年生の時。ちなみに手のひらだけじゃなくて脇腹にも同じような傷があるはずだけど。」 

 瑠衣の言う通りだった。

 小学校三年生の時、私は補助輪を外した友達に憧れて母に無理を言って外してもらい、坂道を全力で駆け下りた。その結果、私はブレーキをかけるも横転し、小さな怪我ではあるが今でも私の身体に残る傷跡となった。手のひらはともかく、脇腹に関しては父すら知らない。知っているのは母だけだ。 

 瑠衣は、本当に母の生まれ変わりだ。
 もう、微塵も疑いの気持ちはなかった。

「信じられないのも分かる。受け入れられないのも分かる。でも、もし私のことを友達だと思ってくれてるなら私を信じて」

 私だって出来ることなら母にまた会いたいと思ってた。

 それと同時に、もう叶わないとも思ってた。

 肌に触れることも。抱きしめることも。

 でも、今やっとこうしてまた会えたんだ。

「本当に……お母さんなの?会いた……かったよ。ずっと会いたかった」  

 私は嗚咽を漏らしながら、瑠衣の胸の中に飛び込んだ。ニ年間の寂しさを、悲しみを、全てぶつけるかの如く子供みたいに声をあげて泣いた。冷たくも柔らかい瑠衣の身体を、もう離さないと言わんばかりに強く抱きしめて。 

「ほんとはね何も言わずにいこうかとも思ってたんだ」   

 胸元で泣き続ける私の頭に瑠衣の声が降ってくる。

「でもね、私にはそんなこと出来ないと思った。美咲は私のことを大切にしてくれてるから。人として愛してくれてるから」

 柔らかくて、私が悲しみの淵に立つといつも手を差し伸べてくれた瑠衣の声。 

「だから、私は最後の日に美咲に全てを伝えて残された時間を一緒に過ごしたいと思ったんだ。」  

 温かったはずの声が、唐突に私に冷たい現実を突きつける。

「えっ?どういうこ…と?」
 私は咄嗟に顔をあげた。瑠衣の言葉の意味が分からない。訴えかけるように瑠衣の顔をみつめる。その目は全てを悟ったかのように、深い黒を宿していた。

「私に与えられた時間は約ニ年。今日がその期限なんだ。日付が変わると同時に私の存在はこの世から消えるの。たぶん誰の記憶にも残らない、それは美咲も例外じゃないと思う」

 瑠衣が何を言っているのか私には全く理解が出来なかった。いや、心の整理が追いついていかないという方が正しいのかもしれない。喉がきゅっと締まり声を発することすら出来ない。

「私ね今日葉山くんの話を聞いて、茜空に消えていったカゲロウをみて、思ったんだ。私と同じ余命を持つカゲロウに妙に親近感が湧いたの。命を燃やし、この世に授かった生を全うする姿をみて、あぁ私もカゲロウみたいだって思った。私も全力で生きた。美咲の笑顔を取り戻す為に、全力で生きたんだよ。だからもう満足してる。」 

 ──嫌だ。嫌だよ。
 ──また私の前からいなくなるの?
 ──なんでそんなに明るくいられるの?

 ──お母さんも瑠衣も、何で?何で私の大切な人ばかり。 

「瑠衣!お母……さん、もうどっちでもいい。どっちでもいいから私を置いていかないで。もう一人にしないでよ!」

 そう発した私の嘆きも、祈りのような言葉も小さく首を横に振った瑠衣の動きで、それは叶うことがないと私は知る。

「無理だよ。これは決まりだから。美咲の笑顔がまたみたいと言ったその時から決まってたことだから」  

 私は肩を大きく震わせ嗚咽を漏らしていた。そんな私の頬を、瑠衣の左手が優しく包む。

「でも、もう大丈夫。美咲は私がいなくても生きていける。この三週間で美咲は変わったよ。また前みたいに心から笑ってるようにみえるから。」

「嫌……だ。瑠衣がいない学校なんて楽しくない。ずっと一緒に……いるって言ってよ」
「ごめんね、それは言えない…。けど、ずっと傍にいるよ。姿がみえないだけで、美咲の目に映る世界を私も一緒にみてるから」 
 瑠衣の目は、持ち上げられた口元の両端は、慈愛に満ちており温かみを感じた。

 それをみて、思った。

 今、私の前には溢れんばかりの笑顔が咲いてる。夜を灯すほどに、ひかり輝く笑顔がそこにある。そうだ。いつも私はこの笑顔に導かれて、暗闇から、悲しみの淵から、助け出されてた。何度も何度も前を向いて歩く力を貰ってた。だとしたら、いつまでも泣いてたら駄目だ。昔の私みたいに心から笑って明るく送り出さないと。お母さんを。瑠衣を。

「今の私があるのは全部瑠衣のおかげだね。最初は馴れ馴れしいなって思ったけど、今は友達になれて良かったって思ってる」 

 両手で目元を拭ったあと、私は口元の両端を持ちあげた。 

「馴れ馴れしいってひどっ。これでも私なりにいろいろ話すこと考えたし緊張してたんだよ」 

 瑠衣が笑みを浮かべたあと、壁に掛けられた時計に視線を送ったので、私もそれにつられて視線を送る。時刻は十時四十五分。 瑠衣の言った通りなら、こうして瑠衣と話せるのもあと一時間十五分。

「ねぇ、美咲。昔話でもしよっか」
「うん、いいよ」

 もう泣かない。笑顔で送り出すって決めたから。瑠衣の命の灯火が消えるその瞬間まで、私は笑顔でいよう。心からの笑顔で。