その日、私の身体に微かに宿っていた命の灯火が完全に燃え尽きたのを感じた。

 寸前まで見えていた景色が少しずつ白く霞んでいき、やがて全てが白に染まった。最後に見たのは、必死に涙を(こら)えながらも無理に笑顔を作ろうとしている娘の顔だった。きっと、最期には笑顔をみせて欲しいという私の言葉を、願いを、娘なりに叶えてくれようとしていたのだと思う。本当に、いい子に育ってくれた。そう思いながら、私は意識を手放した。

 気づいた時には、私は私の身体を上から見下ろしていた。白い壁に囲まれた無機質な病室の、中央に鎮座するベッドのうえで眠るように瞼を閉じている私を、第三者の視点でみるのは不思議な心地だった。

 壁と同じ色の布団が胸元まで掛けられているが、その身体を包んでいる布は微かにすら動かない。何故なら、もう私の呼吸は止まっているからだ。

 そう、私は死んだ。

 辛い、悲しい、そんな気持ちは微塵のかけらもなかった。勿論、この世に未練が無かったといえば嘘になる。出来ることなら夫と残りの余生を過ごしたかったし、娘の成長をもっと見守ってあげたかった。でも、もう十分だ。たった一人の私の娘は、今年で14歳になる。もう自分で物事を考えれる年なうえに、親バカかもしれないがとっても素敵な子に育ってくれた。それだけで、私の心は満たされていた。

 穏やかな心地で、ある種抜け殻のようになってしまった私の身体をみつめる。そうしていると、柔らかなひかりの中に導かれた。

 その場所は、黄白色のひかりをやんわりと灯す小さな玉が、粉雪のように降り注ぐ不思議な空間だった。程なくして、今までの人生の軌跡が映画の早送りのように流れ、私は海月みたいに揺蕩いながらそれをみていた。

 自分の人生に魅せられて。
 ひかりに魅せられて。
 静かに涙を流した。

 小さなひかりの玉が、小さなひかりの玉と触れ合うと、一粒、また一粒と弾けて私の周りに少しずつ集まってきた。あっという間に私はひかりの玉に包まれて、一つの大きなひかりの塊になっていた。安らぎ、幸福、喜び、人の幸せに通じるような全ての感情が満たされていく。そんな時、誰かの声が聞こえた。鼓膜に触れるというよりは、頭や心に訴えかけてくるような不思議な感覚だった。

 私はその声に意識を向ける。すると、もう一度人生を歩めるとしたら、やりたいことはないのかと聞かれているようだった。

 だから私は答えた。

 彼女の笑顔がまたみたいと。 
 娘の笑顔がまたみたいと。
 美咲の笑顔がまたみたいと。

 そう答えた。




 私はひかりの中にいた。

 望みをひかりの声に答えると、意識が遠のいていった。ついさっきまであの場所にいたようにも感じるが、遠い昔のようにも思える。ゆっくりと瞼を開き目覚めた瞬間、私は現実世界に戻ってきたことを理解した。
 
 まず目に映ったのは、真っ白な天井と白くか細い腕だった。持ち上げられたその右手は、私の意思で動いてるとは思えず、身体に違和感を感じた。壁に寄りかかるようにして身体を起こすと、部屋に立てかけられた全身鏡には制服姿の少女が映り込んでいる。先程持ち上げた右手を動かすと、その少女の頬に触れた。指先から、柔らかな感触としっとりとした質感が伝わる。

 辺りを見回すと、机の上にはプラスチック製の大量の容器が置かれており、全ては見てないが睡眠薬や安定剤と書かれていた。

 そこで私はようやく悟ったのだ。

 自死という道を選択したこの子と入れ替わるようにして私は生まれ変わったのだと。 

「……ごめんね、この身体お借りします。ひかりの中で……、幸せになってね。」

 掠れるような声で呟いた。この身体で声を出すことは初めてだったから、うまく声を出すことが出来なかった。身体も右手が少し動かせるくらいで、四肢のほとんどが私の言うことをきかない。

 まあそれも仕方ないと思った。

 私はまだ、生まれたばかりなのだから。

 初めの一週間は、この身体に慣れることに費やした。身体を動かせないことには、美咲に会いにいくことすら叶わない。早く。早くしないと。私は焦っていた。この身体は、私の魂は、きっかり二年しか保たないことを何かが必死に訴えてきていたからだ。  

 私がこの世界で再び目覚めてから三週間が経ち、私はようやく美咲の通う高校へと向かうことが出来た。

 やっと美咲に会える。
 やっと美咲の笑顔をみれる。
 そう思うと、胸が踊った。 

 なんて声をかけようか。お母さんだよ、なんて声をかけたらびっくりされるかもしれない。でも、明るい美咲のことだ、どこかタイミングをみて私が打ち明けたら全て受け止めてくれるだろう。そう思った。

 三十分程待っていると、美咲が校門から出てきた。

 周りにいるのは友達だろうか?

 楽しげに話す三人の女子生徒の後ろに美咲がついていくように歩いていた。私は嬉しくて飛び上がりそうになる。でも、美咲の元へと駆け寄ろうとして、寸前で足を止めた。

 ──なんで?
 ──なんでそんな顔してるの?

 目に映るもの全てが虚無に満ちてるかのような雲った目。人生に絶望し、生きる道標すら見失ってしまったかのような表情。美咲の前を歩いていた三人は楽しげに笑いながら、交差点を右に曲がった。美咲は一人だった。   

 ──もしかして……、私のせいなの?

 私はこの世を去る寸前、美咲に笑ってと伝えた。その時は確かにうまく笑えてなかったけど、実の母親の死を目の当たりにしたら当然の反応だろうと思い、私はこの世を去った。でも、美咲の明るい性格なら私がこの世を去った後も、前を向いて生きていくと思ってた。それは、ただの私の独りよがりの想いだったのかもしれない。

 私は踵を返した。美咲に話しかけることすらせずに。帰りのバスで、電車で、ひとり声を殺して泣いた。

 ──私が美咲から笑顔を奪ったんだ。

 そう思うと胸が張り裂けそうになった。
 私が大好きだった娘の笑顔を、私自身の手で消してしまった。

「美咲、ごめんね……本当にごめんね。お母さんが悲しい想いをさせちゃったからだよね。辛かったね。ごめん、ごめん。」

 人目もくれず、謝り続けた。自分の腕に爪を立て、血が滲むまで握りしめる。この声が届かないことは私だって分かってる。でも、そうでもしないと私は自分を許せなくて消してしまいそうだったから。 

 それだけはあってはならないと思った。

 この身体の元の持ち主の為にも。

 涙が枯れるまで泣き続け、私の心に降る雨はやがて止んだ。そして、家に着く頃には私の決意は固まっていた。

 私が美咲の笑顔を取り戻す。必ず、必ず。
夕焼けのように周りを明るく染めるあの笑顔を、私が絶対に取り戻してみせる。

 だから、私は母親という役を捨てた。もう必要ないと思った。美咲の笑顔を取り戻すには邪魔になるだけだ。私は決意した。

 この身体の持ち主として生きていくと。 


 美咲の高校に編入する為に、要した時間は約二年。まずは、この身体の持ち主の親を説得し編入を認めてもらった。美咲の通う高校は美術の知識も経験も皆無な私には、あまりにも高い壁だった。でも、私は諦めなかった。必ずやり遂げてみせると強い意志があったから。

 毎日絵の勉強をした。寝る間も惜しんで。

 本を読み、絵と向き合う時間を取り憑かれたかのように過ごし、描いて、描いて、描き続けた。

 そして、ようやく手にした美咲の高校に編入出来る切符。ついていたのは美咲と同じクラスになれたこと。あのひかりの声が私に贈り物としてくれたのかもしれない。

 私は残された余命の殆どを使い果たしてしまった。でも、不思議と焦ってはいなかった。もうここまで来てしまえば、あとはなるようにしかならない。それに、美咲のことは世界で一番私がよく知ってる。 

 必ず美咲の笑顔を私が取り戻すんだ。

 その硬い決意の元、初めての登校日を迎えた。

 四角い眼鏡をかけた担任の先生が私の代わりに紹介してくれていたが、正直私の耳には一切声が届いていなかった。クラス中の視線が私に向けられる中、私は美咲を探す。 

 そして、やっとみつけた。

 呆然と窓をみつめる姿、虚無に満ちた目が横顔からでも見て取れた。

 私は誰に目を向ける訳でもなく、ただ美咲だけをみて駆け寄った。少しずつ美咲との距離が近くなり、美咲と目が合った気がした。その瞬間、今すぐにでも抱き締めたい気持ちに駆られた。その気持ちを舌を強く噛んで必死に押し殺す。

 出来るだけ自然に、今の自分に出来る最高の笑顔で。

 そう意識して、私は言った。

「初めまして。私は、大橋瑠衣。ねぇ私と友達になって?」