20年の月日は瞬く間に過ぎた。
「寒いかしら」
窓の外から空を見上げながらティがつぶやいた。
3年前にドームの一部が解除されてから、気温の変化が大きくなった。
「そろそろ行くよ」
カインが言ったので彼女は上着をとりあげた。
「アキラ、ユイ、行くわよ」
ティは子供たちに声をかけた。
「最後なのはお母さんだよ。早くして!」
少女の甲高い声が聞こえて、ティは慌てて飛び出した。外のプラニカの脇に立つ少女の隣に黒髪の背の高い少年が立っている。
カインとティは結婚してふたりの子供を授かった。
カインそっくりの黒髪と切れ長の目を持つアキラは今年で18歳になる。
妹のユイは15歳だ。栗色の髪とふっくらした唇を母親から受け継いだ。
アキラは昨年から仕事に参加するようになった。
ふたりの名前はヨクがつけてくれた。
アキラは漢字で太陽と月を象徴する意味があるし、ユイは結ぶという意味があるらしい。繋ぎとめ、明るく照らす子供たち。ヨクはそんなふうに言って照れくさそうに笑った。
ふたりが生まれたとき、ヨクは自分の孫ができたように喜んだ。
もう今は引退して一人暮らしをしている彼に月に一、二度会いに行くことがカインたちの習慣になっていた。
ユイはかたことで言葉を発するようになってから、ヨクのことをずっと「おじいちゃん」と呼ぶ。彼女はつい最近までヨクのことを本当の祖父だと信じていたらしかった。
そのヨクももう70歳を過ぎた。
一人暮らしは心配だから一緒に住もうと何度も言ったが、彼はそのたんびに突っぱねた。
ティが煙草嫌いなので、煙草をやめることができないヨクは一緒に住むことで何度もティに注意を受けてしまうことを想像してうっとうしく思うようだった。
「今さら取り上げようなんて思わないわよ。度を越さなければ」
ティは苦笑したが、やはり頑なに同居を断った。彼自身のプライドもあるのかもしれない。年寄り扱いされるのが嫌なのだ。
今日は、いつもの習慣が変更になった。アシュアとの約束の日だったからだ。
ヨクには帰りに寄るからと伝えて、カインは家族を乗せてプラニカを出した。
本当に来るのだろうか。カインは半信半疑だった。あれから20年もたっている。
アシュアの書いていた通り、船は確かに出たようだった。レーダーに影は映らなかったが、離発着のない時間にかなりのエネルギー周波の残像のようなものがエアポートで捉えられていたとクルーレが教えてくれた。おそらく、捉えられたときにはとっくに旅発ってしまったあとだったのだろう。
アシュアからの手紙を読んだあと、カインはユージーに会って手紙を見せた。
ユージーはそれとなく『ノマド』たちがいなくなることを感づいていたようだが、最後まで明確なことは分からないままでいたらしい。
「『A.Jオフィス』が相当加担していたみたいだが……。この件についてはガードが固かった」
ユージーは不機嫌そうに言った。
「分かっていれば、行かせなかった。カートを見くびりやがって……」
悔しそうにつぶやきながら、急にぷつりと糸が切れたように彼は泣き崩れた。
ユージーは決して泣かない人だと思っていたカインは少しびっくりした。
押し殺したように声を漏らして泣く彼の姿をしばらく見つめて、カインはそっと部屋を出た。彼を慰める言葉を見出せなかった。しばらく俯いてオフィスのドアの前に立ち尽くしていたが、結局帰るために足を踏み出した。
涙が溢れそうになったのはプラニカに乗り込んだときだった。走り抜けた年月が一気に押し寄せる。彼は必死になって涙をこらえた。なぜこんなにも泣くことを拒んでいるのか、自分でもよく分からなかったが、意地でも泣くまいと思った。
命の操作をしてはならないと言う『ノマド』が最後に自らの命を操作する。
その選択は決して納得できるものではない。
彼は口を引き結んでプラニカのハンドルを握った。
カインがティと結婚した1年後、ユージーも結婚した。相手はクルーレの娘、ルージュだ。ダフルが亡くなったあと、何度か会っているうちに意気投合したらしい。
ルージュは濃い眉と高い鼻梁が父親であるクルーレにそっくりで、表情があまり出ず冷たい感じがする。だが、話をするととても穏やかで優しいとティは言っていた。父親に似たがために、小さい頃から友達を作るのが一苦労だった、と冗談めかして話したそうだ。
「お料理がとても上手なの。ルージュにいくつも教えてもらったわ」
ティは嬉しそうにそう言った。
母親のいなかったカート家でユージーはルージュの手料理を口にしてきっと相好を崩していることだろう。
今日はユージーの家族もダム湖に向かっているはずだ。
ユージーの娘、サナは13歳になる。クルーレが早く二人目を作れとうるさい、と前にユージーがこぼしていた。
「おやじが生きていてもああなったかな。サナを前にするとあの顔が実にだらしなくなるよ。ルージュはしょっちゅう甘やかせるなと怒ってばかりいる」
そう言うユージーも娘が可愛くてしようがないようで、今まで見たこともない彼の表情に思わず顔がほころんだのを思い出す。
ダム湖が見えてきてカインはプラニカを砂浜に下ろした。ユージーのプラニカは既に着いていて、サナが砂浜に足跡をつけて遊んでいた。
ユイが彼女の姿を見つけて走り寄った。ふたりとも同じ『ジュニア・スクール』だったので仲がいい。サナは年齢よりもかなり大人びていて、ユイよりもずっと上に見える。落ち着いた物腰は父親であるユージーに似たようだ。
ユージーがアキラを見て笑みを浮かべた。
「久しぶりだな。仕事は慣れたか」
アキラは微かに笑ってうなずいた。
「ええ、少しずつですが」
「なんだか、どんどんおやじそっくりになっていくな。昔のカインを見ているみたいだ」
ユージーはアキラの頭の先から足の先までを見て言った。アキラは確かにカインによく似ている。仕草までも似ているので、カイン自身も、母親であるティもびっくりすることがある。
「サナの進路は決まったんですか?」
カインが尋ねると、ユージーは肩をすくめた。
「ユイと同じ『スクエア』がいいんだと。『ライン』は性に合わないらしい」
「へえ?」
カインはサナに目を向けた。父親譲りの黒髪が風になびいている。ユイと何やら話をしてくすくす笑っている顔は大人びてはいてもやはりまだどこかあどけない。
「『スクエア』で医療関係に進みたいらしい。世話になるかもしれないからよろしくな」
「リィを志望してくれるのなら喜んで」
カインは笑みを浮かべてうなずいた。
サナとユイの小さな笑い声を聞きながら、ダム湖の水平線に顔を向けた。
空がゆっくりとオレンジ色に染まっていく。
あの日もこんな感じだった。
沈んでいく夕日を見ていると、そのまま20年前に戻っていくような気がする。
やがて夕日の中にぽつりと小さな黒い点が見えた。
カインは無意識に、自分の胸元にあるケイナのネックレスを手で確かめていた。
点は次第に大きくなり、機影が確認できて10分後にそれは水際に着陸した。
最初に降りてきた人影を見てカインは思わず息を呑んだ。
横に立つユージーからもさっと緊張が伝わる。
夕日を背に降りてくる黒い影はケイナだった。続いてふたり降りてくる。
近づいてくる3人を見てカインたちは声を無くした。
「ケイナ……」
20年前と変わらない姿……? いや、違う。彼は金髪に青い瞳だった。
目の前に立つ少年は栗色の髪にかすかにグリーンがかかった茶色の瞳だ。
後ろから歩いてくるふたりは顔がそっくりの男女だ。ブランとダイだろう。
「カインさん、やっと会えたね」
ブランはリアそっくりの顔で笑みを浮かべてカインを見た。
もうすっかり大人になった彼女は昔のようなこましゃくれた雰囲気はない。
隣にいるダイも思慮深い面立ちの男になっていた。くるくるとした巻き毛がアシュアを思い出させた。
「さすがにここまで来るのに地球の時間で半年かかったわ」
ブランはそう言うとくすりと笑った。
カインはケイナそっくりの少年に目を移した。
「彼、名前はケイナ。お父さんからそのままもらったの」
カインの視線にブランが言った。
「お父さん……?」
カインはつぶやいた。
「そうよ。ケイナとセレスの息子よ」
それを聞いて、カインもユージーも呆然とした。彼の耳にはあのときの青いピアスが光っている。
少年は少しはにかんだ表情を見せながらカインに手を差し出した。
「初めまして…… ケイナです」
カインはその手を握り返しながら、まだ呆然として彼の顔を見つめていた。
彼はユージーにも握手を求めた。ユージーの表情も不思議そうだ。時間が止まってしまったような錯覚を覚える。
「父と同じ名前なので、よく混乱したんです。でも、母が絶対この名前だと聞かなかったらしくて」
『ケイナ』は笑った。
「あの…… ケイナとセレスは……」
カインが尋ねると、息子のケイナはカインの顔を見た。
「父は、5年前に亡くなりました」
くらりと眩暈がした。死んだ? ケイナが?
「いったいどうして……」
つぶやくと『ケイナ』は少し目を伏せた。
「眠ったまま、朝にはもう冷たくなっていました」
言葉が出なかった。ユージーも青ざめた顔で呆然としている。ティが震える手でカインの腕を掴んだ。
「母は、3年前に亡くなりました。衰弱死です。父が死んでからあまり食べ物を受け付けなくなって……」
目の前にいるこの子はケイナそっくりなのに…… ケイナ自身はもういない。
「カインさん、悲しまないで。……これがふたりの決められた寿命だったの」
ブランが言った。
寿命だなんて……。ケイナはわずか33歳ではないか。眠り続けていた7年分をくわえても40歳だ。あまりにも早すぎる。
「知らせる手段はいくらでもあっただろう」
ユージーが思わず非難めいた口調で詰め寄ったので、ブランが悲しそうな表情で彼を見た。
「ごめんなさい。……船には、一切の通信機器はないの……」
「それでも…… それでも、今、ここに戻って来ているんだ。その前に戻る手段がなかったわけじゃ……」
言い募ろうとして、ユージーは言葉を切ると口を引き結んだ。
もう、何を言っても遅い。ケイナはいない。
「……ごめんなさい」
彼の辛そうな表情に、ブランは微かに頬を震わせた。
「ケイナは…… 苦しまなかったんだな」
搾り出すような声で言うユージーの顔を息子のケイナが見た。
「ええ。伯父さん……」
その言葉にユージーの顔が歪んだ。彼は腕を伸ばすと、半ば乱暴に引き寄せてケイナの息子を抱きしめた。初めて見る父親の姿に娘のサナがびっくりしたような顔になり、ティが鼻をすすりあげる。
「……アシュアは?」
カインがブランに目を向けて尋ねると、ブランは横のダイにちらりと視線を向けて再びカインを見た。
「父ももうあまり長くないの。母がずっとそばについています。……ごめんね、カインさん…… 約束を守れなくて……」
カインはうなずいた。泣くまいと必死になって涙をこらえた。
ブランはそんなカインを見つめながら数歩彼に近づいた。
「ここにいられる時間はそんなにないの。だから言うわ」
全員が彼女に目を向けた。
「お願いがあるの」
ブランはちらりとダイを振り向いた。ダイはそれを見てうなずいてみせた。
「わたしたち、あと80年しないうちに全員いなくなるの」
カインは彼女の顔を無言で見つめた。
「この子を……」
ブランは『ケイナ』に目をやった。
「ケイナをこの星に置いてやって」
カインは思わずユージーの顔を見た。ユージーもびっくりしているようだ。
「あの機は一度きりの往復しかできないの。置いていくなら今しかない」
「どうして……」
つぶやくカインを見てブランは頬を震わせた。
「ケイナとセレスの願いは、できればこの星にいることだったの。ふたりは何も言わなかったけれど、わたしたちには痛いほど分かってた」
ブランはこぼれそうになった涙を慌てて指でぬぐった。
「みんなそうよ……。この星で生きていきたかった。でも、あたしたちはだめなの。帰れない。だけど、この子はもう星に負担をかけないから」
カインはかつてのケイナにそっくりな少年に目をやった。
「彼には『グリーン・アイズ』がもうないの」
ブランは言った。
「皮肉な話よね。『グリーン・アイズ』の血を引くふたりが普通に子供を生んだら、『グリーン・アイズ』ではなくなるのよ。遺伝子操作じゃなくて、普通に子供を産んだら。こんなこと…… なんでもっと早く……」
「彼にはもう『グリーン・アイズ』の遺伝子がないんです」
泣き出してしまったブランの代わりにダイが口を開いた。
「ぼくらと同じ船に乗る理由がない」
「今…… いくつになるの?」
震える声でカインは『ケイナ』に尋ねた。
「18です」
彼は答えた。アキラと同じ歳だ。ユージーに目を向けると、彼は小さく息を吐いた。
「こっちから連れて行くなと言うところだった」
ユージーは妻のルージュの顔を見た。ルージュは一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐにうなずいた。
「そうね。これで父も納得するんじゃない?」
そして娘のサナを見た。
「お兄さんが欲しかったんでしょ? ユイが羨ましいって言ってたじゃない?」
その言葉にアキラがサナに目を向けるとサナは真っ赤になった。
「うちがいいわ」
ユイが言った。
「ねえ、お父さん、うちに来てもらって」
彼女は『ケイナ』に走り寄ると彼の手をとった。サナの顔に不安が浮かぶ。
「お任せしていいですか」
ダイの言葉にカインはうなずいた。
「もちろんです」
「なんだかひと悶着起きそうな気もするけど?」
アキラが睨み合っているサナとユイをちらりと見て笑って言った。
ブランとダイはひとりひとりにノマドのキスをした。
『ケイナ』はかなり長い間、ブランとダイを抱きしめていた。
歳は離れているが、3人はおそらく兄姉同然に育ってきただろう。かつてのケイナがリアやトリと過ごしたように。
「『ノマド』には別れの言葉がないの」
ブランは言った。
「本当は見送りもしないの。また会えると思うから。今回は一度きりの例外よ」
泣きながら笑みを見せて彼女はそう言うと、ダイと一緒に背を向けた。
ふたりが乗り込み、飛び立って機影が見えなくなるまで、全員がずっと砂浜でそれを見送った。
これで本当にさようならになる。
ケイナ、セレス、アシュア、リア。今までありがとう。
最後に大きな贈り物をくれた。
カインはケイナそっくりの少年が空を見つめている横顔を見て思った。
「寒いかしら」
窓の外から空を見上げながらティがつぶやいた。
3年前にドームの一部が解除されてから、気温の変化が大きくなった。
「そろそろ行くよ」
カインが言ったので彼女は上着をとりあげた。
「アキラ、ユイ、行くわよ」
ティは子供たちに声をかけた。
「最後なのはお母さんだよ。早くして!」
少女の甲高い声が聞こえて、ティは慌てて飛び出した。外のプラニカの脇に立つ少女の隣に黒髪の背の高い少年が立っている。
カインとティは結婚してふたりの子供を授かった。
カインそっくりの黒髪と切れ長の目を持つアキラは今年で18歳になる。
妹のユイは15歳だ。栗色の髪とふっくらした唇を母親から受け継いだ。
アキラは昨年から仕事に参加するようになった。
ふたりの名前はヨクがつけてくれた。
アキラは漢字で太陽と月を象徴する意味があるし、ユイは結ぶという意味があるらしい。繋ぎとめ、明るく照らす子供たち。ヨクはそんなふうに言って照れくさそうに笑った。
ふたりが生まれたとき、ヨクは自分の孫ができたように喜んだ。
もう今は引退して一人暮らしをしている彼に月に一、二度会いに行くことがカインたちの習慣になっていた。
ユイはかたことで言葉を発するようになってから、ヨクのことをずっと「おじいちゃん」と呼ぶ。彼女はつい最近までヨクのことを本当の祖父だと信じていたらしかった。
そのヨクももう70歳を過ぎた。
一人暮らしは心配だから一緒に住もうと何度も言ったが、彼はそのたんびに突っぱねた。
ティが煙草嫌いなので、煙草をやめることができないヨクは一緒に住むことで何度もティに注意を受けてしまうことを想像してうっとうしく思うようだった。
「今さら取り上げようなんて思わないわよ。度を越さなければ」
ティは苦笑したが、やはり頑なに同居を断った。彼自身のプライドもあるのかもしれない。年寄り扱いされるのが嫌なのだ。
今日は、いつもの習慣が変更になった。アシュアとの約束の日だったからだ。
ヨクには帰りに寄るからと伝えて、カインは家族を乗せてプラニカを出した。
本当に来るのだろうか。カインは半信半疑だった。あれから20年もたっている。
アシュアの書いていた通り、船は確かに出たようだった。レーダーに影は映らなかったが、離発着のない時間にかなりのエネルギー周波の残像のようなものがエアポートで捉えられていたとクルーレが教えてくれた。おそらく、捉えられたときにはとっくに旅発ってしまったあとだったのだろう。
アシュアからの手紙を読んだあと、カインはユージーに会って手紙を見せた。
ユージーはそれとなく『ノマド』たちがいなくなることを感づいていたようだが、最後まで明確なことは分からないままでいたらしい。
「『A.Jオフィス』が相当加担していたみたいだが……。この件についてはガードが固かった」
ユージーは不機嫌そうに言った。
「分かっていれば、行かせなかった。カートを見くびりやがって……」
悔しそうにつぶやきながら、急にぷつりと糸が切れたように彼は泣き崩れた。
ユージーは決して泣かない人だと思っていたカインは少しびっくりした。
押し殺したように声を漏らして泣く彼の姿をしばらく見つめて、カインはそっと部屋を出た。彼を慰める言葉を見出せなかった。しばらく俯いてオフィスのドアの前に立ち尽くしていたが、結局帰るために足を踏み出した。
涙が溢れそうになったのはプラニカに乗り込んだときだった。走り抜けた年月が一気に押し寄せる。彼は必死になって涙をこらえた。なぜこんなにも泣くことを拒んでいるのか、自分でもよく分からなかったが、意地でも泣くまいと思った。
命の操作をしてはならないと言う『ノマド』が最後に自らの命を操作する。
その選択は決して納得できるものではない。
彼は口を引き結んでプラニカのハンドルを握った。
カインがティと結婚した1年後、ユージーも結婚した。相手はクルーレの娘、ルージュだ。ダフルが亡くなったあと、何度か会っているうちに意気投合したらしい。
ルージュは濃い眉と高い鼻梁が父親であるクルーレにそっくりで、表情があまり出ず冷たい感じがする。だが、話をするととても穏やかで優しいとティは言っていた。父親に似たがために、小さい頃から友達を作るのが一苦労だった、と冗談めかして話したそうだ。
「お料理がとても上手なの。ルージュにいくつも教えてもらったわ」
ティは嬉しそうにそう言った。
母親のいなかったカート家でユージーはルージュの手料理を口にしてきっと相好を崩していることだろう。
今日はユージーの家族もダム湖に向かっているはずだ。
ユージーの娘、サナは13歳になる。クルーレが早く二人目を作れとうるさい、と前にユージーがこぼしていた。
「おやじが生きていてもああなったかな。サナを前にするとあの顔が実にだらしなくなるよ。ルージュはしょっちゅう甘やかせるなと怒ってばかりいる」
そう言うユージーも娘が可愛くてしようがないようで、今まで見たこともない彼の表情に思わず顔がほころんだのを思い出す。
ダム湖が見えてきてカインはプラニカを砂浜に下ろした。ユージーのプラニカは既に着いていて、サナが砂浜に足跡をつけて遊んでいた。
ユイが彼女の姿を見つけて走り寄った。ふたりとも同じ『ジュニア・スクール』だったので仲がいい。サナは年齢よりもかなり大人びていて、ユイよりもずっと上に見える。落ち着いた物腰は父親であるユージーに似たようだ。
ユージーがアキラを見て笑みを浮かべた。
「久しぶりだな。仕事は慣れたか」
アキラは微かに笑ってうなずいた。
「ええ、少しずつですが」
「なんだか、どんどんおやじそっくりになっていくな。昔のカインを見ているみたいだ」
ユージーはアキラの頭の先から足の先までを見て言った。アキラは確かにカインによく似ている。仕草までも似ているので、カイン自身も、母親であるティもびっくりすることがある。
「サナの進路は決まったんですか?」
カインが尋ねると、ユージーは肩をすくめた。
「ユイと同じ『スクエア』がいいんだと。『ライン』は性に合わないらしい」
「へえ?」
カインはサナに目を向けた。父親譲りの黒髪が風になびいている。ユイと何やら話をしてくすくす笑っている顔は大人びてはいてもやはりまだどこかあどけない。
「『スクエア』で医療関係に進みたいらしい。世話になるかもしれないからよろしくな」
「リィを志望してくれるのなら喜んで」
カインは笑みを浮かべてうなずいた。
サナとユイの小さな笑い声を聞きながら、ダム湖の水平線に顔を向けた。
空がゆっくりとオレンジ色に染まっていく。
あの日もこんな感じだった。
沈んでいく夕日を見ていると、そのまま20年前に戻っていくような気がする。
やがて夕日の中にぽつりと小さな黒い点が見えた。
カインは無意識に、自分の胸元にあるケイナのネックレスを手で確かめていた。
点は次第に大きくなり、機影が確認できて10分後にそれは水際に着陸した。
最初に降りてきた人影を見てカインは思わず息を呑んだ。
横に立つユージーからもさっと緊張が伝わる。
夕日を背に降りてくる黒い影はケイナだった。続いてふたり降りてくる。
近づいてくる3人を見てカインたちは声を無くした。
「ケイナ……」
20年前と変わらない姿……? いや、違う。彼は金髪に青い瞳だった。
目の前に立つ少年は栗色の髪にかすかにグリーンがかかった茶色の瞳だ。
後ろから歩いてくるふたりは顔がそっくりの男女だ。ブランとダイだろう。
「カインさん、やっと会えたね」
ブランはリアそっくりの顔で笑みを浮かべてカインを見た。
もうすっかり大人になった彼女は昔のようなこましゃくれた雰囲気はない。
隣にいるダイも思慮深い面立ちの男になっていた。くるくるとした巻き毛がアシュアを思い出させた。
「さすがにここまで来るのに地球の時間で半年かかったわ」
ブランはそう言うとくすりと笑った。
カインはケイナそっくりの少年に目を移した。
「彼、名前はケイナ。お父さんからそのままもらったの」
カインの視線にブランが言った。
「お父さん……?」
カインはつぶやいた。
「そうよ。ケイナとセレスの息子よ」
それを聞いて、カインもユージーも呆然とした。彼の耳にはあのときの青いピアスが光っている。
少年は少しはにかんだ表情を見せながらカインに手を差し出した。
「初めまして…… ケイナです」
カインはその手を握り返しながら、まだ呆然として彼の顔を見つめていた。
彼はユージーにも握手を求めた。ユージーの表情も不思議そうだ。時間が止まってしまったような錯覚を覚える。
「父と同じ名前なので、よく混乱したんです。でも、母が絶対この名前だと聞かなかったらしくて」
『ケイナ』は笑った。
「あの…… ケイナとセレスは……」
カインが尋ねると、息子のケイナはカインの顔を見た。
「父は、5年前に亡くなりました」
くらりと眩暈がした。死んだ? ケイナが?
「いったいどうして……」
つぶやくと『ケイナ』は少し目を伏せた。
「眠ったまま、朝にはもう冷たくなっていました」
言葉が出なかった。ユージーも青ざめた顔で呆然としている。ティが震える手でカインの腕を掴んだ。
「母は、3年前に亡くなりました。衰弱死です。父が死んでからあまり食べ物を受け付けなくなって……」
目の前にいるこの子はケイナそっくりなのに…… ケイナ自身はもういない。
「カインさん、悲しまないで。……これがふたりの決められた寿命だったの」
ブランが言った。
寿命だなんて……。ケイナはわずか33歳ではないか。眠り続けていた7年分をくわえても40歳だ。あまりにも早すぎる。
「知らせる手段はいくらでもあっただろう」
ユージーが思わず非難めいた口調で詰め寄ったので、ブランが悲しそうな表情で彼を見た。
「ごめんなさい。……船には、一切の通信機器はないの……」
「それでも…… それでも、今、ここに戻って来ているんだ。その前に戻る手段がなかったわけじゃ……」
言い募ろうとして、ユージーは言葉を切ると口を引き結んだ。
もう、何を言っても遅い。ケイナはいない。
「……ごめんなさい」
彼の辛そうな表情に、ブランは微かに頬を震わせた。
「ケイナは…… 苦しまなかったんだな」
搾り出すような声で言うユージーの顔を息子のケイナが見た。
「ええ。伯父さん……」
その言葉にユージーの顔が歪んだ。彼は腕を伸ばすと、半ば乱暴に引き寄せてケイナの息子を抱きしめた。初めて見る父親の姿に娘のサナがびっくりしたような顔になり、ティが鼻をすすりあげる。
「……アシュアは?」
カインがブランに目を向けて尋ねると、ブランは横のダイにちらりと視線を向けて再びカインを見た。
「父ももうあまり長くないの。母がずっとそばについています。……ごめんね、カインさん…… 約束を守れなくて……」
カインはうなずいた。泣くまいと必死になって涙をこらえた。
ブランはそんなカインを見つめながら数歩彼に近づいた。
「ここにいられる時間はそんなにないの。だから言うわ」
全員が彼女に目を向けた。
「お願いがあるの」
ブランはちらりとダイを振り向いた。ダイはそれを見てうなずいてみせた。
「わたしたち、あと80年しないうちに全員いなくなるの」
カインは彼女の顔を無言で見つめた。
「この子を……」
ブランは『ケイナ』に目をやった。
「ケイナをこの星に置いてやって」
カインは思わずユージーの顔を見た。ユージーもびっくりしているようだ。
「あの機は一度きりの往復しかできないの。置いていくなら今しかない」
「どうして……」
つぶやくカインを見てブランは頬を震わせた。
「ケイナとセレスの願いは、できればこの星にいることだったの。ふたりは何も言わなかったけれど、わたしたちには痛いほど分かってた」
ブランはこぼれそうになった涙を慌てて指でぬぐった。
「みんなそうよ……。この星で生きていきたかった。でも、あたしたちはだめなの。帰れない。だけど、この子はもう星に負担をかけないから」
カインはかつてのケイナにそっくりな少年に目をやった。
「彼には『グリーン・アイズ』がもうないの」
ブランは言った。
「皮肉な話よね。『グリーン・アイズ』の血を引くふたりが普通に子供を生んだら、『グリーン・アイズ』ではなくなるのよ。遺伝子操作じゃなくて、普通に子供を産んだら。こんなこと…… なんでもっと早く……」
「彼にはもう『グリーン・アイズ』の遺伝子がないんです」
泣き出してしまったブランの代わりにダイが口を開いた。
「ぼくらと同じ船に乗る理由がない」
「今…… いくつになるの?」
震える声でカインは『ケイナ』に尋ねた。
「18です」
彼は答えた。アキラと同じ歳だ。ユージーに目を向けると、彼は小さく息を吐いた。
「こっちから連れて行くなと言うところだった」
ユージーは妻のルージュの顔を見た。ルージュは一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐにうなずいた。
「そうね。これで父も納得するんじゃない?」
そして娘のサナを見た。
「お兄さんが欲しかったんでしょ? ユイが羨ましいって言ってたじゃない?」
その言葉にアキラがサナに目を向けるとサナは真っ赤になった。
「うちがいいわ」
ユイが言った。
「ねえ、お父さん、うちに来てもらって」
彼女は『ケイナ』に走り寄ると彼の手をとった。サナの顔に不安が浮かぶ。
「お任せしていいですか」
ダイの言葉にカインはうなずいた。
「もちろんです」
「なんだかひと悶着起きそうな気もするけど?」
アキラが睨み合っているサナとユイをちらりと見て笑って言った。
ブランとダイはひとりひとりにノマドのキスをした。
『ケイナ』はかなり長い間、ブランとダイを抱きしめていた。
歳は離れているが、3人はおそらく兄姉同然に育ってきただろう。かつてのケイナがリアやトリと過ごしたように。
「『ノマド』には別れの言葉がないの」
ブランは言った。
「本当は見送りもしないの。また会えると思うから。今回は一度きりの例外よ」
泣きながら笑みを見せて彼女はそう言うと、ダイと一緒に背を向けた。
ふたりが乗り込み、飛び立って機影が見えなくなるまで、全員がずっと砂浜でそれを見送った。
これで本当にさようならになる。
ケイナ、セレス、アシュア、リア。今までありがとう。
最後に大きな贈り物をくれた。
カインはケイナそっくりの少年が空を見つめている横顔を見て思った。