湖岸の砂浜では全員が固唾を飲んでアシュアのヴィルを見つめていた。
 アシュアが体を後ろにねじってケイナを抱きかかえるようにしてヴィルのハンドルを握っている姿を見て、やっと緊張が解けた。
 ケイナが無事だった。
 アシュアは静かにヴィルを降り立たせると、ケイナを支えながら砂浜に足を下ろした。
「ケイナ!」
 セレスが駆け出した。
 勢いよく懐に飛び込んで来たセレスを受け止めきれず、ケイナはセレスと一緒に砂浜にがくんと膝をついた。全員が近づく気配を感じて、彼は半ば放心したような表情で顔をあげた。
 何かを言おうと口が動いたが、声は出てこなかった。
「ケイナ…… 無事で良かった……」
 カインが声を震わせながら言った。
 ケイナは小刻みに震えながらその顔を見つめ返した。
 切れ長の黒い瞳は変わらなくても、10代のときとは違う大人びた表情になったカイン。
 彼の声はいつも落ち着いていて、物腰も冷静だった。そんな彼が近くにいたから、自分も安心できたように思う。
 ケイナはゆっくりとまばたきをしてカインから目を離すと、顔を巡らせひとりひとりの顔を見つめていった。
 隠された左目、喉についた発声装置……。幼いときに髪をくしゃくしゃと撫でるようにする仕草。凛とした声、顎を引いて大股に歩く癖。兄としてずっといてくれたユージーの顔。
 燃えるような赤い髪のアシュア。自分は眠りにつく前も、そして目覚めてからも、どれほど彼に信頼を寄せて、彼を頼りにしたことだろう。アシュアがいてくれたからこそ乗り越えられたことが数えきれないほどある。
 動揺を目に浮かべているクルーレ。
 そうだ。
 クルーレに渡さなければ……。
 ケイナは小さく震える手をぎごちなく彼に差し出した。
「クル…… レ…… かえ……」
 掠れた声でそれだけしか発することができなかった。
 クルーレの大きな手が伸びてきた。彼は負傷していない手で冷たくなったケイナの手を包み込むと、彼の顔を覗きこんだ。
「ダフルが…… 最後のわたしへの通信で言っていたことがある」
 クルーレは言った。
「ケイナ・カートという人は、自分をアンリ・クルーレの息子ではなく、ダフル・クルーレとして見てくれる人だと」
 ケイナは唇を震わせた。
「誇らしげな顔だったよ」
 ケイナはクルーレの大きな手にダフルの人形を置いた。
 必死になってこらえながらもクルーレの顔は今にも泣き出してしまいそうだった。
 クルーレだけではない。
 全員が、帰ってきたケイナと、戻らなかったハルド・クレイの命の重みに堪えていた。
 クルーレが腕を離したあと、ケイナは自分の顔の下にあるセレスの頭に頬を押しつけた。
 彼女の体温が冷えた体に伝わる。右腕はもう自分の腕ではないのに、彼女の細い体の感触を感じ取る。
 守りきれなかったもの。守らなければならないもの。
 きっと繰り返し思い出し、考えていくんだろう。
 目が覚めると『明日』がくる。
 『明日』がくるたび思い出し、そして生きていく。
 ハルドさん、あなたの手をどこかで握り締めることができていたら、あなたは元に戻ることができただろうか。おれが呼び戻せても、あなたは同じ道を選んでしまったのだろうか。
 ダム湖の水平線に日が沈みかけていた。
 ゆっくりと広がっていくオレンジ色の光をケイナは見つめ続けた。

 ――お兄ちゃん、あたしたちと一緒に帰ろう ――

 ブランの声が聞こえた。


 『ノマド』の出生率は高いものではなかった。
 80年で増えた人口は6000人ほどだっただろう。そのうち、5年以内に寿命が尽きる者は約3割。アライドには『A・Jオフィス』を中心にして、50名ほどの『ノマド』と『アライド』との混血者がいた。『トイ・チャイルド』の血を引くケイナとセレス、そしてかつての『ビート』のメンバーを合わせると全部で6000余名になっていた。
 『ノマド』と『アライド』の混血は、いずれ淘汰されて『アライド』寄りの遺伝子に傾いていくだろう。『ビート』はもともと遺伝子の問題を改良するタイプではない。

 『ノマド』は悪夢を見ていた。最初はさほど具体的な悪夢ではなかった。
 夢見の能力は万能ではない。何が暗い闇なのか、それすらも見極めることは難しかった。
 エストランド・カートやバッカードは小さな点の存在でしかない。
 彼らが存在しようとしまいと、『トイ・チャイルド・プロジェクト』は白い布についてしまった染みのように、命の流れの中にこびりつく。そのことだけは夢見の能力を持つ誰もが感じていた。
 それでも夢見たちは、誰もが本能的に自らが侵してはならない領域というものを知っていた。
 どんな悪夢を見ようとも、命の操作だけはしてはならなかった。
 その時に死に行こうとしている者を再び起こし、目覚めるべき者を眠らせることはしてはならなかった。しかし、彼らは命の流れに手を出した。
 理由がどうであれ、アシュアを助け、ハルドを生かそうとした。
 眠りにつくはずのケイナとセレスを起こした。
 その結末は消せない染みをずっと残していくことになった。
 また同じことが繰り返されていくのだろうか。
 『ノマド』がこの世にいる限り。
 プロジェクトの子供がいる限り。
 オフィスに戻ったとき、既にリアと双子たちがいなくなっていたことにカインは違和感を覚えたが、アシュアが「受け入れの準備があるから先に戻ったんだと思うよ」と何気なく言ったので、腑に落ちない気もしたが自分を無理矢理納得させた。
 ケイナの外傷はさほどのものではなかったが、体力の損耗が激しいので、彼は3日ほど『ホライズン』に入院した。その間はセレスがずっとつきっきりだった。
 退院してから、ケイナはカインにずっと自分の首にかけていたネックレスを渡した。
「どうして? 形見だろう?」
 カインが怪訝な顔をすると、ケイナは微かに笑みを浮かべた。
「これがおれの命の元だった。今はもう中身は何もないけれど、持っていて欲しい」
 妙な気がしたが、カインはうなずいてネックレスを受け取った。
「別のものを渡せればいいんだけど、おれにはこれしかないから」
「変なことを言うんだな」
 カインは笑った。
「きみが元気でぼくの目の前にいてくれることが一番だよ。それ以上は何もいらない」
 ケイナは何も言わなかった。
「やっぱり『ノマド』に行くのか?」
 ためらいがちに尋ねると、ケイナはうなずいた。
「おれにはあそこしか行く場所はないと思うから」
「ユージーのところに帰ったら?」
 そう言うと、ケイナは目を伏せた。
「たぶん無理だ。ユージーも分かってる」
 カインには何も言えなかった。
 あまりにも突出し過ぎるケイナの能力は、普通の世界では逆に生きづらいだろう。
「アシュアと一緒に、たまには来てくれるだろう?」
 伏せたままのケイナの顔を覗きこむようにして言うと、ケイナはカインの顔を見て小さく笑みを浮かべた。
「その気になったら」
「アシュアに無理にでも引っ張って来させるよ」
 カインの言葉にケイナはくすりと笑ったが、それ以上何も言わなかった。
 『ノマド』がいなくなったことをカインが知ったのは、ケイナとセレスがアシュアと共に『ノマド』に帰ってから一週間後だった。

 ティがアシュアたちのいた部屋でカイン宛の手紙を見つけた。
 カインは細かい文字でびっしりと書かれた手紙を読んだ。アシュアがこんなにたくさんの文章を書いたのを見たのは初めてだったかもしれない。
 手紙は、あのダム湖での出来事の前に書かれたもののようだった。
 リンクにことの経緯を説明されたこと、『ノマド』の決心と、黙って出て行くことになることへの苦しみが綴られていた。
 ケイナとセレスを黙って連れて行ってしまうことへの赦しも書いてあった。
 ケイナはおそらく『ノマド』のことを許してはいないだろう。きっとこれからも許すことなないだろう。それでも彼は『ノマド』と行動を共にする。
 そうする以外にどうしようもないことが分かっているからだ。
 プロジェクトの血を引き、最新鋭の義手義足、義眼をつけられた自分が留まると、きっとカインやユージーに多くの負担をかけるだろう。彼にはそれがわかっている。
 だから、意にそぐわなくても『ノマド』と共に行くことを選ぶ。
 この星にはもうどこを探しても『ノマド』のコミュニティはない。コミュニティを出て散らばっていった者も5年以内に死亡する。
 おそらくどこのレーダーにもひっかからずに、ある日20隻ほどの船が飛び立っていくだろう。
 船は、星を出たら地球を離れていく大きな弧を描く軌道に乗る。
 もともと出生率の低い『ノマド』の最大の弱さは「地に足をつけないこと」だ。
 限られた空間の中で生きていくことは、さらに子孫の減少を強いるだろう。
 うまくいけばどこかで安住の地を見つけるかもしれない。
 あるいは、限られた空間でも生き抜く子孫が生まれるかもしれない。
 そのことについては『ノマド』は夢見をしなかった。これからも予見することはないだろう。
 やがて船は永遠に弧を描いて周り続ける星のひとつになるかもしれない。
 地球を離れて行き、次に近づくのは150年後だ。
 ただ、20年後に一度だけもう一度会うことができるとアシュアは書いていた。
 そこが小さな星間機で地球に戻ることができる限界点らしい。
 そしてその日は夢見たちが何かを感じている日なのだという。
 最後に別れた場所で同じ時間に行くから、とアシュアは書いて手紙を終えていた。

 カインは何度も手紙を読み返し、元通りに封筒に入れた。
 不思議と涙はこぼれなかった。
 しばらく封筒を見つめたあと、上着をとりあげそれを内ポケットに入れた。この手紙はこれから肌身離さず持つことになるだろう。
 ケイナが渡してくれたネックレスはあれからずっと自分の首にかかっている。
「カイン、そろそろ出るぞ」
 ヨクがオフィスに入ってきたので、カインはうなずいた。
 彼は、夢見たちの予見が外れたことを知らなかった。