ケイナの手から鮮血が飛び散るのを見て息を呑んだと同時に、カインはセレスが金切り声をあげながら自分の手から逃れて駆け出して行くのを見た。慌てて腕を掴みなおす余裕もなかった。
「セレス! だめだ!」
アシュアの声が響いたが、セレスは転がっていたケイナのノマドの剣の柄を掴み、声をあげて『彼』に飛びかかっていった。 金属がこすれあうような嫌な音が響いて、次の瞬間、ゴツリという音とともに、鈍い銀色の内側から幽かな火花を散らして腕が地面に落ちた。セレスの一撃で切り落とされたということは、やはりケイナはどこかで躊躇をしていたのだ。
「ケイナを……」
束の間、転がった腕に怯んだが、セレスは叫んだ。
「ケイナを傷つけるな!」
残った腕で『彼』のサーベルが再び振り上げられる。
アシュアが必死になって飛び掛かっていったが、あっという間に避けられた。
ケイナの持つノマドの剣は重い。
セレスは歯を食いしばって両手で剣を構えた。
―― おまえは…… おまえは、あのとき消えちゃったはずだろ? ――
―― ケイナの中で、おまえを消したはずだろ? ――
―― なんでまた出て来るんだよ ――
―― なんでまたケイナを苦しめるんだよ ――
おまえなんか、どっか行っちゃえ。
いなくなってしまえ。
機械まみれのケイナなんかいらない。
本当のケイナはちゃんと血が通ってる。
「おまえなんか……!」
セレスの声にケイナは呻いた。がくがくと震えている右腕を地面について立ち上がろうとしたが、足が動かない。汗が鼻を伝って落ちた。
エリド…… トリ……。
頼むから……。
頼むから、セレスに言わせないでくれ……。
振り上げた剣がすれ違いざまに相手の頬をかすめていったとき、セレスは小さな血の粒が自分の頬に飛んできたのを感じた。
再び相手を振り向いたとき、彼女はふと動きを止めて目を見開いた。
それはほんのわずかな時間でしかなかっただろう。
次に向かってくる『彼』の姿を呆然と見つめながら、セレスは自分の頬に手をあてていた。
その表情にケイナは力を振り絞って立ち上がった。
彼女は気づいた。
『彼』が誰なのかに気づいてしまった。
『彼』のサーベルの切っ先が自分に振り下ろされようとしても、セレスは目を見開いたままノマドの剣を構えようとはしなかった。
アシュアが走り出した。
「セレス!」
ケイナは無我夢中でセレスの背後から彼女に飛びかかって彼女の頭を腕で覆い、ふたりの前でアシュアのサーベルが、がつりという音をたてて相手の切っ先を止めた。
「どうして……?」
セレスは言った。ケイナにしがみつかれながら、大きな目で相手を見つめている。
「どうして?」
アシュアは歯を食いしばって相手の刃を止めながら、セレスの顔を見た。
セレス、だめだぞ、絶対だめだ。何も言うな。
ケイナは必死になって予見に逆らおうとしてるんだ。
セレスの顔が歪んで涙がこぼれ落ちた。彼女は身をよじるとケイナの腕から逃れた。
「セレス……!」
ケイナが慌てて手を伸ばしたが、セレスはその手からも逃れて『彼』を見つめた。
「なんでだよ……」
セレスは震える声で言った。
「なんで、こんなことになってるの? なんでそんな姿なの?」
アシュアは自分のサーベルがふっと軽くなったのを感じた。
まずい、と思ったときには『彼』のサーベルが再びセレスに振り下ろされようとしていた。
次の瞬間、鈍い音とともに『彼』のサーベルをセレスが『ノマド』の剣で受け止めていた。
力に押されて足がそのまま地面を滑ったが、必死になって踏みとどまった。
「アシュア! 手を出すな!」
セレスが声をあげたので、サーベルを振り上げて飛び掛ろうとしていたアシュアはびくりとして手を止めた。銃を掴みかけていたケイナの手も止まった。
「誰も手を出すな!」
かすかに懇願するような響きがこもる。
「おまえ…… 誰だ」
セレスは『彼』を睨みつけながら言った。
「出て行け……」
頬を涙が伝って落ちた。
「兄さんから出て行け!」
ふいに、スイッチがぷつりといきなり切れてしまったかのように『彼』の動きが止まった。
ハルド・クレイは弱り果てて首をかしげていた。
『コリュボス』への異動を知らされたとき、真っ先に頭に浮かんだのはセレスのことだった。
案の定、セレスはハルドの言葉を聞くなり、そそくさとクローゼットを開け、大きなバックを取り出して次々に荷物をそこに放り込み始めた。
「何してる?」
ハルドが呆然として言うと、セレスは「ん?」というように兄を振り向いた。
「荷物まとめてるんだよ。だって、あさってには発つんだろ?」
当然のように答える弟をどう説得すればいいか途方に暮れた。
「おまえは学校があるだろ?」
「転校手続きするだろ?」
再び荷物を詰め込み始めるセレスに、ハルドはため息をついて弟の腕を両側から掴むと、無理矢理一緒にベッドの端に座らせた。
「どう考えたって……」
「行く」
兄の言葉を遮るようにセレスは言った。
「絶対、一緒に行くからな。絶対」
挑みかかるような声だった。
「お母さんが許してくれるわけがないだろ?」
「兄さんの荷物に潜り込む。密航してやる。ひとりで行く。それくらいのお金はおれだって持ってる。だから行く」
あのときのことを思い出すと、いつも可笑しくて笑いがこみあげる。
もちろん、当時は笑うどころではなかった。
顔を真っ赤にして頑として一緒に行くと言い張るセレスと、泣き出す叔母のフェイの間に立って疲労困憊した。
思えば、あれが始まりだったのかもしれない。
あの時、もし自分が『コリュボス』に異動にならなければ、あるいは、どんなに駄々をこねてもセレスを連れて行くことなどなければ…… セレスはケイナと出会うことはなかった。
こんな大きな歯車に巻き込まれることもなく、何も知らないままで短いながらもみんなが当たり前の人生を終えていた。
でも、その代わりに会えていたはずの人に出会わずに終わってしまっただろう。
セレスにとってはケイナだけでなく、アルという友人を持つこともなかった。
時間の流れの選択肢はいったいいくつあるのだろう。
万? それとも億単位? いや、きっと人知を遥かに超えた選択肢なのだ。
自分で選んで来たのだろうか。それとも、選ばされていたのだろうか。
ハルドは自分の手を見つめた。
セレスとケイナが助け出されて、ケイナは自分と同じ場所で治療を受けることになったと聞いたとき、手術を受けることは怖くないと思った。
ふたりに会えるのなら、どんな過酷な手術でも受けて必ず生きていこうと思った。
今まで育ててくれた叔母と義理の父にも何もしてやれていない。
やり残したこと、見届けられなかったことがたくさんある。
だから、今度もまた、何万、何億もある選択肢から、自分はこれを選んだのだ。
いや……。
今回は2つだったのかな……。
死ぬべきだったのか。生き残るべきだったのか。
ぼくは間違えたのだろうか。
選ぶ道をいつもいつも、間違えてきてしまったのだろうか。
束の間、鏡に映った自分の姿を見た時、何をさせられようとしているのかを悟って呆然とした。次の瞬間には自らの手で鏡を叩き割っていた。
時間がない。
あっという間に『あいつ』が出てくるだろう。
ケイナに会わなければと思った。
彼ならきっとできるだろう。
こんな血の通わない体でも、彼なら相手にできるだろう。彼はそういう少年だった。
どうすれば相手を葬ることができるか、きっと瞬時に悟るだろう。
ケイナ。
結局ぼくは一番嫌なことをきみに託すことになるんだな。
『あいつ』は自分の意思で動いていると思い込んでいるだろう。
迷うことはない。ぼくも迷わない。迷わないことにする。
今度の選択肢は間違っていないと思うよ。
ぼくは帰るべきところに帰るのだから。
唯一の心残りがあるとすれば、セレスの顔を見たかったことだけれど。
「セレス! だめだ!」
アシュアの声が響いたが、セレスは転がっていたケイナのノマドの剣の柄を掴み、声をあげて『彼』に飛びかかっていった。 金属がこすれあうような嫌な音が響いて、次の瞬間、ゴツリという音とともに、鈍い銀色の内側から幽かな火花を散らして腕が地面に落ちた。セレスの一撃で切り落とされたということは、やはりケイナはどこかで躊躇をしていたのだ。
「ケイナを……」
束の間、転がった腕に怯んだが、セレスは叫んだ。
「ケイナを傷つけるな!」
残った腕で『彼』のサーベルが再び振り上げられる。
アシュアが必死になって飛び掛かっていったが、あっという間に避けられた。
ケイナの持つノマドの剣は重い。
セレスは歯を食いしばって両手で剣を構えた。
―― おまえは…… おまえは、あのとき消えちゃったはずだろ? ――
―― ケイナの中で、おまえを消したはずだろ? ――
―― なんでまた出て来るんだよ ――
―― なんでまたケイナを苦しめるんだよ ――
おまえなんか、どっか行っちゃえ。
いなくなってしまえ。
機械まみれのケイナなんかいらない。
本当のケイナはちゃんと血が通ってる。
「おまえなんか……!」
セレスの声にケイナは呻いた。がくがくと震えている右腕を地面について立ち上がろうとしたが、足が動かない。汗が鼻を伝って落ちた。
エリド…… トリ……。
頼むから……。
頼むから、セレスに言わせないでくれ……。
振り上げた剣がすれ違いざまに相手の頬をかすめていったとき、セレスは小さな血の粒が自分の頬に飛んできたのを感じた。
再び相手を振り向いたとき、彼女はふと動きを止めて目を見開いた。
それはほんのわずかな時間でしかなかっただろう。
次に向かってくる『彼』の姿を呆然と見つめながら、セレスは自分の頬に手をあてていた。
その表情にケイナは力を振り絞って立ち上がった。
彼女は気づいた。
『彼』が誰なのかに気づいてしまった。
『彼』のサーベルの切っ先が自分に振り下ろされようとしても、セレスは目を見開いたままノマドの剣を構えようとはしなかった。
アシュアが走り出した。
「セレス!」
ケイナは無我夢中でセレスの背後から彼女に飛びかかって彼女の頭を腕で覆い、ふたりの前でアシュアのサーベルが、がつりという音をたてて相手の切っ先を止めた。
「どうして……?」
セレスは言った。ケイナにしがみつかれながら、大きな目で相手を見つめている。
「どうして?」
アシュアは歯を食いしばって相手の刃を止めながら、セレスの顔を見た。
セレス、だめだぞ、絶対だめだ。何も言うな。
ケイナは必死になって予見に逆らおうとしてるんだ。
セレスの顔が歪んで涙がこぼれ落ちた。彼女は身をよじるとケイナの腕から逃れた。
「セレス……!」
ケイナが慌てて手を伸ばしたが、セレスはその手からも逃れて『彼』を見つめた。
「なんでだよ……」
セレスは震える声で言った。
「なんで、こんなことになってるの? なんでそんな姿なの?」
アシュアは自分のサーベルがふっと軽くなったのを感じた。
まずい、と思ったときには『彼』のサーベルが再びセレスに振り下ろされようとしていた。
次の瞬間、鈍い音とともに『彼』のサーベルをセレスが『ノマド』の剣で受け止めていた。
力に押されて足がそのまま地面を滑ったが、必死になって踏みとどまった。
「アシュア! 手を出すな!」
セレスが声をあげたので、サーベルを振り上げて飛び掛ろうとしていたアシュアはびくりとして手を止めた。銃を掴みかけていたケイナの手も止まった。
「誰も手を出すな!」
かすかに懇願するような響きがこもる。
「おまえ…… 誰だ」
セレスは『彼』を睨みつけながら言った。
「出て行け……」
頬を涙が伝って落ちた。
「兄さんから出て行け!」
ふいに、スイッチがぷつりといきなり切れてしまったかのように『彼』の動きが止まった。
ハルド・クレイは弱り果てて首をかしげていた。
『コリュボス』への異動を知らされたとき、真っ先に頭に浮かんだのはセレスのことだった。
案の定、セレスはハルドの言葉を聞くなり、そそくさとクローゼットを開け、大きなバックを取り出して次々に荷物をそこに放り込み始めた。
「何してる?」
ハルドが呆然として言うと、セレスは「ん?」というように兄を振り向いた。
「荷物まとめてるんだよ。だって、あさってには発つんだろ?」
当然のように答える弟をどう説得すればいいか途方に暮れた。
「おまえは学校があるだろ?」
「転校手続きするだろ?」
再び荷物を詰め込み始めるセレスに、ハルドはため息をついて弟の腕を両側から掴むと、無理矢理一緒にベッドの端に座らせた。
「どう考えたって……」
「行く」
兄の言葉を遮るようにセレスは言った。
「絶対、一緒に行くからな。絶対」
挑みかかるような声だった。
「お母さんが許してくれるわけがないだろ?」
「兄さんの荷物に潜り込む。密航してやる。ひとりで行く。それくらいのお金はおれだって持ってる。だから行く」
あのときのことを思い出すと、いつも可笑しくて笑いがこみあげる。
もちろん、当時は笑うどころではなかった。
顔を真っ赤にして頑として一緒に行くと言い張るセレスと、泣き出す叔母のフェイの間に立って疲労困憊した。
思えば、あれが始まりだったのかもしれない。
あの時、もし自分が『コリュボス』に異動にならなければ、あるいは、どんなに駄々をこねてもセレスを連れて行くことなどなければ…… セレスはケイナと出会うことはなかった。
こんな大きな歯車に巻き込まれることもなく、何も知らないままで短いながらもみんなが当たり前の人生を終えていた。
でも、その代わりに会えていたはずの人に出会わずに終わってしまっただろう。
セレスにとってはケイナだけでなく、アルという友人を持つこともなかった。
時間の流れの選択肢はいったいいくつあるのだろう。
万? それとも億単位? いや、きっと人知を遥かに超えた選択肢なのだ。
自分で選んで来たのだろうか。それとも、選ばされていたのだろうか。
ハルドは自分の手を見つめた。
セレスとケイナが助け出されて、ケイナは自分と同じ場所で治療を受けることになったと聞いたとき、手術を受けることは怖くないと思った。
ふたりに会えるのなら、どんな過酷な手術でも受けて必ず生きていこうと思った。
今まで育ててくれた叔母と義理の父にも何もしてやれていない。
やり残したこと、見届けられなかったことがたくさんある。
だから、今度もまた、何万、何億もある選択肢から、自分はこれを選んだのだ。
いや……。
今回は2つだったのかな……。
死ぬべきだったのか。生き残るべきだったのか。
ぼくは間違えたのだろうか。
選ぶ道をいつもいつも、間違えてきてしまったのだろうか。
束の間、鏡に映った自分の姿を見た時、何をさせられようとしているのかを悟って呆然とした。次の瞬間には自らの手で鏡を叩き割っていた。
時間がない。
あっという間に『あいつ』が出てくるだろう。
ケイナに会わなければと思った。
彼ならきっとできるだろう。
こんな血の通わない体でも、彼なら相手にできるだろう。彼はそういう少年だった。
どうすれば相手を葬ることができるか、きっと瞬時に悟るだろう。
ケイナ。
結局ぼくは一番嫌なことをきみに託すことになるんだな。
『あいつ』は自分の意思で動いていると思い込んでいるだろう。
迷うことはない。ぼくも迷わない。迷わないことにする。
今度の選択肢は間違っていないと思うよ。
ぼくは帰るべきところに帰るのだから。
唯一の心残りがあるとすれば、セレスの顔を見たかったことだけれど。