(ケイナ)
 ケイナはセレスの声を聞いたような気がして顔をあげた。
 ヨクと入れ替わったアシュアがショップから出て来た。じゃあ、おれこっちね、というように指を指したので、ケイナはうなずいた。
 再び歩き始めたアシュアを見送って、ケイナはセレスがいるはずのビルに顔をめぐらせた。
「ケイナ!」
 今度は本当に聞こえた。
「カイン!」
 ケイナが叫ぶのと、
「伏せて!」
 セレスが叫ぶ声がかぶさった。銃を乱射する音が聞こえる。アシュアはヨクのコートをかなぐり捨てると自分のヴィルが停めてある方向に走った。
「ケイナ!」
 ケイナは声のほうに顔を向けた。カインがヴィルの上から彼に手を差し出した。その手を掴んでケイナはヴィルの端に足をかけて彼の後ろに飛び乗った。
「今、屋上だ!」
 クルーレの緊張した声が聞こえた。ケイナは唇を噛んだ。
 あいつはセレスのほうに来た。
 なぜ。『ノマド』の守護はどうなったんだ。
 違う……。
 『ノマド』はセレスをターゲットにするために彼女を起こしたのか?
 セレスとクルーレの待機していたビルまで来ると、カインは窓からヴィルでビルの中に突っ込んだ。ヴィルは上昇制限がある。いったん地上に降りるよりは、そのほうが早い。半ば廃墟となったビルはそういう意味では好都合だったかもしれない。もっと新しいビルだったらとてもヴィルではガラスを破って突っ込めなかっただろう。
 ケイナはがらんとしたフロアにヴィルが入り込むなり非常階段に続くドアを銃で吹き飛ばした。
「屋上!」
 ケイナは言ったが、カインは一瞬ひるんだ。
 階段なんかでヴィルを走らせたことがない。
「入らないよ!」
「ビビってんじゃねえ!」
 ケイナの言葉に少しむっとしながら、カインは歯を食いしばってハンドルを切った。
 階段部分に入るなりがりがりとあっちこっちでこする音がする。回り込むたびに壁に大きな穴を開けていく。上に辿りつくまでにヴィルが壊れるのではとカインは不安になった。
 体をヴィルにへばりつかせるようにして屋上のドアから外に飛び出したと思った途端、カインはケイナが後ろから自分の肩を踏み台にして前に飛び出していくのを見た。
 飛び出したと同時に撃っている。
 ケイナはやっぱり見ていない。昔から彼は目が捉えるよりも先に体が動いている。
 ケイナの向こうにさらに金色の髪が見えた。
「クルーレ!」
 カインは肩を押さえてうずくまっているクルーレを見つけて慌ててヴィルから飛び降りた。
「大丈夫、かすっただけだ」
 クルーレは顔をしかめて答えた。かすったにしては出血量が多い。
「クルーレが負傷した!」
 マイクに向かって叫んで再びケイナに目を向けると、その向こうの金髪があっという間にセレスの首を掴んで屋上から飛び降りるのが見えた。
 「了解」という声を耳で確認しながら慌てて再びヴィルに飛び乗ると同時にケイナもカインの後ろに飛び乗った。
 屋上の端から下を見ると、ふたりが落ちていく先にアシュアがヴィルで待ち構えているのが見えた。ケイナが銃を構えた。
 アシュアがセレスの腕を掴むのと、ケイナの撃った銃があいつの腕で小さな火花を散らすのが同時だった。セレスは腕からは逃れたが、そのまま落下していくあいつをカインもケイナも固唾を飲んで見つめた。このままこれであいつは死ぬのか? そう思ったが、彼は地面に着地する前にさらに下で待機していた兵士のヴィルに向かって腕を振り上げ、兵士を叩き落としてそのままバイクに乗って走っていった。
「アシュア、追え!」
 カインは怒鳴った。アシュアはセレスを後ろに乗せるとヴィルを走らせてあとを追った。
「行くぞ、30階分急降下だ。掴まってろ。」
 カインはそう言うとヴィルを屋上から浮き上がらせようとしたが、クルーレの声が響いたので思わず振り向いた。
「ケイナ!」
 クルーレが肩を押さえながら立ち上がって歩み寄ろうとしていた。
「なに」
 ケイナが駆け寄ると、クルーレは彼に握りこぶしを差し出した。
「これを持って必ず戻って来い」
 ケイナは彼が開いたこぶしの中を見て、口を引き結んだ。
 ダフルの作った木組みの人形が手の平の中にあった。
「もう一度、わたしのところに持って来るんだ」
 ケイナはクルーレの顔を見たあと、手を伸ばして人形を掴み、自分の首にかけた。
「分かった」
 そう言うと、身を翻して再びカインの後ろに飛び乗った。
 足元をなくした途端、ヴィルはものすごい勢いで落下し、地上から50m付近でようやく止まった。止まったと同時にバランスを崩しかけた。
「へたくそ!」
 ケイナが怒鳴った。
「いちいちうるさいんだよ!」
 カインは怒鳴り返した。
「カイン、あいつはダム湖のほうに自分から向かってる」
 ふたりの耳にアシュアの声が聞こえた。
「遊んでやがる……」
 ケイナがつぶやくのが聞こえた。
「行くぞ!」
 カインはヴィルを発進させた。
 しばらくしてセレスの声がカインの耳に聞こえた。
「ケイナ…… あれ、誰?」
 ケイナの返事は聞こえなかった。
「ケイナ…… 気づかないの?」
 気づく? 何を? ケイナはセレスの声に眉をひそめた。
「ケイナは…… ケイナだから分からないのかな……。わたし、覚えてるよ。あれ、ケイナの中にいた、もうひとりのケイナだよ」
 もうひとりのケイナ? カインは後ろにいるケイナの顔を振り向くこともできず口を引き結んだ。
 『グリーン・アイズ』の血を引いていることは常に死と隣合わせだった。
 セレスに入り込んだ『グリーン・アイズ・ケイナ』の父親は、ある日突然、周囲の者を死に追いやった。
 どこかで必ずそういう日が来る。それが『グリーン・アイズ』の宿命だ。
 ハルド・クレイは遺伝子をかなり操作されていたが、『グリーン・アイズ』の血が消えたわけではないとトウは言っていた。 
 ハルドの中の、別人格を作ってしまう部分をエストランドとバッカードが無理矢理起こしてしまったのだとしたら。
 暴走したときのケイナは止めることが難しい。唯一セレスを除いては。
 あのときのケイナと同じような状態だったとしたら、あいつを…… ハルド・クレイを止めることができるのはいったい誰だというのだろう。
 既に『グリーン・アイズ』の順序さえわからない状態かもしれない。
 ダム湖が見えてきたとき、カインは視界の先に走っていく数台の軍用ヴィルを見た。近づくにつれ、そのうちの一台にユージーが乗っているのを見て驚いた。
 ユージー、もうヴィルに乗れるのか?
「カイン、ターゲットW45、湖岸寄り!」
 ユージーを追い越すとアシュアの声が聞こえた。ちらりと視線が合ったとき、ユージーが小さく手を上げるのが見えた。視線を前に戻した途端、ガツリという鈍い音が耳に入ってきた。
「アシュア?!」
 後ろのケイナも緊張したのが分かる。
「アシュア!」
「大丈夫だ!」
 アシュアが応答したので、ほっとした。
「あの野郎、空中でアクロバットしやがった。ヴィルの宙返りなんて初めて見たぜ!」
「セレスは?」
「無事だ! すまん、ヴィルは落ちた!」
 その声が聞こえている間に、足元の砂浜で自分を見上げているアシュアとセレスの姿が目に入ってきた。近くに無残に車体のへこんだヴィルが転がっている。よくあれで無事でいられたものだ。
「あいつは?!」
 カインは周囲を見回した。
「上!」
 セレスが叫んだ。カインが上を見上げる前にヴィルの下部が頭の上をかすって思わず首をすくめた。ケイナがすれ違いざまに銃を撃つ音が聞こえた。
「カイン、降りろ!」
「えっ……!」
 カインは急に叫んだケイナの言葉に仰天した。ここが地上何メートルだと思ってるんだ。
「アシュアの近くに落としてやるよ!」
 ケイナはそう怒鳴ると、後ろから手を伸ばしてあっという間にハンドルを握ってヴィルを急降下させた。
「うっわっ!」
 アシュアの声が聞こえたと同時に、自分の体がヴィルから引き離されるのをカインは感じた。
 ケイナの右腕が義手だったことを思い出したのは砂浜に転がったときで、慌てて駆け寄ったアシュアに助け起こされて上を見上げたときには、ケイナの姿はもう見えなかった。
「南のほうに飛んでいった……」
 セレスが不安の滲み出る声で言った。
 カインは足元に転がっている通信機に気づいて慌てて自分の耳に手をあてた。
 違う。自分のものじゃない。じゃあ……。
 カインはケイナの飛んでいった方向に目を向けた。
 ケイナの通信機? なぜ外した?
 ヴィルの音が聞こえたので振り向くと、さっき追い越したユージーが兵士を引き連れて来たところだった。
「おまえらの速さに追いつけねぇよ」
 ユージーは3人の近くにヴィルを降り立たせると言った。
「ユージー、体は大丈夫なのか?」
 カインが言うとユージーはうなずいた。
「南は水の吐出し口になっている。下手なことをされるとまずい」
 ユージーは自分の後部座席をカインに顎で示した。
「乗れ」
 カインは即座にユージーの後ろに飛び乗った。ユージーがヴィルをひとつ空けるように部下に指示したので、アシュアとセレスはそれに乗って再び飛び立った。
「ここで待機していろ!」
 ユージーは残りの部下に怒鳴った。
「ユージー、クルーレは?」
 カインが尋ねるとユージーはちらりとカインに顔を振り向かせた。
「心配ないよ。彼はあれくらいのことじゃびくともしない」
「あいつ、軍用のサーベルを持ってやがったぞ」
 アシュアの声が聞こえてきた。サーベル……。カインは思わずぞくりとした。
 ケイナがノマドの剣を持っていることを知って調達したのかもしれない。
「たぶんこっちの護身用のサーベルじゃない。『アライド』のやつだ。比べ物にならないほど強度がある」
 ユージーが答えたそのすぐあとにケイナとあいつの姿が見えてきた。
 アシュアの言うように本当にヴィルに乗りながらアクロバットをしているような感じだ。
「何だよ、あいつら……。これじゃあ援護もできねえ……」
 少し離れた場所に空中でヴィルを止めると、ユージーが焦ったようにつぶやくのが聞こえた。
 それでも銃を引き抜いて狙いを定めようとしたが、すぐに苛立たしげに舌打ちをした。
「速すぎる……」
 ケイナはあくまでも近づいて攻撃するつもりらしく、何度も接近するのだが、そのたびに相手がくるりとヴィルごと身を翻してしまう。すれ違いざまにどんなに撃っても当たらなかった。逆に向こうが近づいてくると、ケイナはよけるのが精一杯のようなのが見ていても分かった。ふたりの動きが速すぎて見ているだけで頭がくらくらしそうだ。
 アシュアはセレスが自分の肩をぐっと掴むのを感じた。
「なにするんだ?」
 そう言って振り返ったときにはセレスは後部座席に立ち上がっていた。
「アシュア、頼むよ、できるだけ揺らさないで」
 狙うつもりか? 冗談だろ、ユージーが「速すぎる」って言ってんだぞ?
 そう思ったが、言われるままに唸り声をあげながら必死になってヴィルのバランスを保った。
 ユージーとカインが固唾を飲んでセレスを見ている。
 アシュアの肩を掴んでいたセレスの手が離れた。両手で銃を構えると、セレスは歯をくいしばった。
「当たって。お願い」
 つぶやきが聞こえたと同時に、アシュアの頭上を光の筋が鮮やかに直線を引いていった。
 それが相手のバイクの動力部を射抜いたと同時にセレスの足が滑ったので、アシュアは慌てて彼女の腕を掴んだ。その感触のあまりの細さに一瞬アシュアは「脱臼しないか?」と焦ったが、セレスは彼の腕を自分から掴むと軽々と再びアシュアの後ろに身を乗せた。
 アシュアが再び顔を前に向けたときに見たのは、落ちていくヴィルを追うケイナの姿だった。相手がバランスを崩している間に攻撃するつもりらしい。しかし『彼』はケイナを見て自分のヴィルを踏み台にすると、サーベルを振り上げてケイナに飛びかかった。振り上げられた銀色の刃をケイナは避けたが、体当たりをくらってヴィルから手を離してしまった。
 見ていた全員が息を呑んだ。このままだと、あいつはともかくケイナが転落死だ。
 カインはユージーが小さく唸り声をあげていきなりヴィルを発進させたので、慌てて体を支えた。
「アシュア! ケイナを受け止めろ!」
 ユージーが怒鳴った。その声が聞こえ終わる前にアシュアはヴィルを発進させていた。
 カインはユージーの思惑を悟って震えた。射撃の腕ならアシュアのほうが自分より上だ。もしケイナに当たったらどうする。
「カイン! 任せて!」
 セレスの声が聞こえたので顔を向けると、彼女はすでにヴィルにまたがったまま上半身を立ち上がらせていた。前に座るアシュアが大きいのと、細身の彼女は両手で構えないと銃が撃てないために必然的にそうせざるをえない。しかし動いているヴィルの上でその姿勢はセレスの転落を招きかねなかった。
 カインは息を吸い込んで銃を構えた。同時にユージーが護身用のサーベルを引き抜くのが分かった。視線の先にあいつがケイナに銃口を向けるのが見えた。もう躊躇していられない。カインは引き金をひいた。数発撃ったが、たぶんかすりもしなかっただろう。ユージーがサーベルを振り上げ、思い切り振り下ろした。すれ違いざまに鈍い嫌な音がした。
 アシュアがケイナの腕を掴んだ途端、ヴィルが重量オーバーで下降していく。まっさかさまに落ちなかったのは、一緒に乗っていたセレスが軽いおかげだったのかもしれない。
 飛び降りても大丈夫な高さになってアシュアはケイナから手を離した。
「ケイナ!」
 セレスが声をあげたが、ケイナの声は聞こえなかった。
 ケイナが降りたのはダム吐水口の上だった。厚さ50mの巨大な壁の上に飛び降りたケイナは、直後に足から落ちてくるあいつの姿を見た。普通なら折れてしまう足はすぐに体を支えて立ち上がった。
 やっぱりあいつは生身じゃない。そのことをまざまざと見せつけられたような気分だ。
 右腕の服が切り裂かれ、べろりと垂れた皮膚の隙間から鈍い銀色が見える。
 ケイナは相手の懐に飛び込むために走り出した。