「セレス、おいで!」
 ティのオフィスからリアが声をかけたので、セレスは不思議そうな顔をして彼女に近づいた。
「髪、結わえてあげる。それじゃあ動けないでしょ?」
 彼女の言葉にセレスは嬉しそうにうなずいた。
 その後ろ姿を見ていたケイナは、背後をアシュアが通り抜けて行こうとしたので、慌ててその腕を掴んだ。
「アシュア」
 アシュアは少しびっくりしたような顔をしてケイナを見た。
「頼みがあるんだ」
「頼み?」
 彼は目を細めた。
「おまえが頼みごとするときって、いつもろくなことじゃねえ」
 そう言って、幽かに笑みを浮かべた。
「なに?」
 ケイナはアシュアの腕を掴んだままティのオフィスの前から離れると、アシュアに視線を戻した。
「あいつに手出しさせないようにしてくれないか」
 アシュアはそれを聞いて、思わずティのオフィスのほうに目をやった。
「言ってないの? あいつに」
 アシュアが尋ねると、ケイナはうなずいた。
「なにも?」
 ケイナは再びうなずいた。
 まあ、そうだろうな……。アシュアはため息をついた。
「何がどう動くのかは分からないけれど、ハルドさんを呼び戻す努力をしてみる。おれにはその力がないかもしれないけれど」
「セレスが呼び戻せるとしたら?」
 アシュアの言葉にケイナは目を伏せた。
「呼び戻すためには相手がハルドさんだと分かっていないといけないし、それに、本人が言うよりもセレスは体力は衰えてる。まだ実戦は無理だ」
 アシュアは息を吐いた。あいつに声をかけるには近づくしかない。ケイナはハルドとセレスを戦わせたくないのだ。
「分かった」
 その返事を聞いて、ケイナはわずかに安堵の表情を浮かべた。そのまましばらく自分の顔を見つめるケイナにアシュアは「なに?」というように眉を吊り上げたが、ケイナはアシュアから目を逸らせた。
「いや……。なんでもない。じゃあ、頼む」
 彼はそう言うと、背を向けた。
 アシュアはその姿を見送って顔を俯けた。ポケットの中にある『ノマド』の通信機を指先で確かめた。
 ケイナの目は怖い。昔からそうだが、こちらの頭の中まで見通されるような気がする。
 あいつはもしかしたら全部分かっているんじゃないだろうか。必死になって何食わぬ顔をしていることも知っているんじゃないだろうか。そんな気持ちになる。
 隠さずに、ちゃんとみんなに話ができればどんなにいいだろう。
 でも、そんなことをしたらカインもケイナもセレスも動揺するだろう。『ノマド』の予測する結末も導き出せないかもしれない。
 結末?
 アシュアは口を引き結んだ。
 本当にこれが一番いい結末なんだろうか。
 『ノマド』の予見は絶対ではない。そう言ったのは長老のエリドだ。
 セレスには手出しをさせない。
 彼がそう願うことすらも『ノマド』が見越しているのか、そうではないのかアシュアには分からなかった。

 午後2時、それぞれが順番にオフィスをあとにした。
 リアとティ、ブランとダイはオフィスに残って彼らを見送った。
 ティが小さく震えているのに気づいたリアは彼女の肩を抱いた。
「大丈夫よ。カインはちゃんと帰ってくるわ」
 リアはクルーレから渡された小さな通信機を耳に嵌めた。そして銃をとりあげた。
「ここはあたしが守るからね」
「銃…… 撃てるの?」
 ティはリアの顔を見た。リアは少し舌を出した。
「実は使ったことないの」
 ティの目がびっくりしたように見開かれた。
「でも、大丈夫。クルーレに剣を貸してもらったから」
リアは腰に挿した軍用の小さな短剣をティに見せた。
「嘘でしょ……」
 『あいつ』に遭遇したことのあるティは震えた。
「そんなもので太刀打ちできるわけないじゃない」
「大丈夫だったら」
 リアは言った。
「ここにはまず来ないわよ。『ノマド』の守護があるから」
 リアはダイとブランの顔を見た。
「ね?」
 ね、って……。自分を見上げる双子の顔にティが目を向けると、ダイとブランは彼女に笑みを見せた。ティは怯えきったように椅子に座り込んだ。
「あなたは強いのね……」
 ティはつぶやいた。
「強いわよ。当たり前じゃない」
 思わずリアの顔を見上げると、リアはティににっこり笑ってみせた。

 ケイナはヨクをプラニカに乗せてビルをあとにした。その5分後にカインとアシュアはヴィルで出発した。クルーレとセレスは一緒に見張りのビルに向かった。
 ランド社には予定通り着き、ヨクとケイナはビルの中に入って行った。
 午後3時10分、ふたりはランド社をあとにしてプラニカに再び乗り込んだ。
「出たみたいだな」
 窓の外を見ていたクルーレは耳元の通信機に手を当ててつぶやいた。セレスはそんな彼にちらりと目を向けたあと、自分のいるビルの部屋をぐるりと見回した。床材も壁紙もほとんど剥がされて骨組みだけになったような建物だ。窓に嵌めこまれていたガラスもとっくの昔に外されている。
「10分後にローズサーチショップに着く。予定通りだ」
 クルーレは腕の時計を確かめた。
「クルーレさん」
 セレスに声をかけられて、クルーレは彼女を振り向いた。
 セレスは長い髪をリアに後頭部でひとつに結わえてもらっていた。黒いジャケット、細身の黒いパンツにブーツといういでたちは女性用の一番サイズの小さい軍服だが、それが余計に彼女の細さと目の大きさを際立たせた。
 大きな緑色の目に見上げられて、クルーレは少し眩しそうに目を細めた。
「どうした」
「このビルの屋上には出られるの?」
「屋上?」
 クルーレは頭上を見上げた。
「たぶん出られると思うが……」
「このビル、60階建てだよね」
「ああ、そうだ」
 セレスは少し首を傾けて考え込むような顔をした。
「少し低いけど…… いいか」
 そうつぶやくとくるりと背を向けたので、クルーレは慌てた。
「どこへ行くんだ!」
「屋上」
 セレスは答えた。
「なんか変なんだ。屋上のほうがよく分かるかもしれない」
「待ちなさい!」
 エレベーターではなく非常階段の扉をあけて飛び出して行くセレスをクルーレは急いで追った。ケイナといい、この娘といい、突拍子もない行動が多くて困る。ケイナはまだワンクッション置くだけの余裕があるが、この子はいきなりだ。
「セレス、待て! 相手に姿が見えるとまずい」
 とんとんと飛ぶように階段を昇っていくセレスの後ろからクルーレは怒鳴った。
「そんなゆとり、ないかもしれない!」
 セレスは叫び返した。ゆとりがない? クルーレは緊張した。あいつの動きが変わったということか?
 ようやっとクルーレが屋上にたどりつくと、セレスはフェンスも何もない端で仁王立ちになっていた。緑色の髪が解いた帯のように風に揺れている。バランスを崩したらあっという間に転落しそうだ。
「ヨクがショップに着いたぞ。危ないから、そこから離れなさい」
 息をきらしながらクルーレは言った。
「大丈夫」
 セレスは彼を振り向かずに答えた。
 気配を感じる。すごく近くで。
 どこだろう。銃を握り締めた。
 ケイナ、力を貸して。