カインに朝一番の報告をして自分のオフィスに戻ってきたティは、誰かが入ってきたことに気づいて顔を巡らせた。たぶんヨクだろうと思っていたのに、思いもかけない顔が見えたのでびっくりして目を丸くした。
「ティ、おはよう」
「どうしたの?」
 ティは笑みを浮かべてオフィスに入ってきたセレスの顔を怪訝そうに見た。
 リアからスケジュールを聞かれていない。黙って来てしまったのだろうか。
 いくらなんでも朝一番はまずい。また彼女にせっつかれたらどう対応すればいいだろう。
 そう思いながら視線を彼女の後ろに向けてブランとダイの姿を探したが、入ってきたのがケイナだったのでさらに目を丸くした。
「ブランとダイは?」
 ティはセレスに尋ねた。
「まだ寝てるのかも」
 セレスはそう言うと、彼女の前に立った。
「えっと……」
 セレスは首をかしげた。
「なんて言ったらいいのかな」
 ティは警戒心をあらわにしながらセレスの顔を見つめた。
「セレス・クレイです。ティ」
 セレスは言った。ティは訳が分からないといった表情でセレスを見つめている。
「今まであなたにずいぶん迷惑かけちゃった……。ごめんなさい」
 ティはかすかに顔を傾けた。
 なにかしら、これは。カインに会うための新手の戦術? でも、ケイナが一緒に来るなんて……。
 セレスはティのこわばった顔を見て、困惑したようにケイナを振り返った。
 ケイナは何も言わなかった。
 そんなふたりの様子をしばらく交互に見つめたあと、ティははっとした。
「もしかして……」
 ティはセレスの顔をまじまじと見た。
「記憶が…… 戻ったの?」
 セレスは笑みを浮かべてこくんとうなずいた。
「本当……?」
 ティは思わずケイナの顔を見た。ケイナは何も言わなかったが、彼の顔に険しい色がなかったので、ティはそれが事実だと悟った。
「本当?」
 再び尋ねる彼女に、セレスはうなずいた。驚いた顔にみるみる笑みが浮かび、ティは腕を伸ばしてセレスを抱きしめた。セレスは嬉しそうに彼女を抱きしめ返した。
「全部、戻ったの?」
 身を離してティはセレスの顔を覗きこんだ。
「うん」
「体は大丈夫なの?」
「全然、平気」
 ティはセレスの顔を両手で挟んだ。セレスはくすぐったそうに肩をすくめて笑った。
「どうして急に…… なんで最初に言ってくれなかったのよ!」
「だって、いきなり言ったって信じてもらえないと思ったし」
 ティは大きく息を吐いた。
「もうびっくりしちゃって…… 何を言えばいいのか、思い浮かばないわ」
「あなたに嫌な思いを一杯させちゃったかもしれない。ほんとにごめんなさい」
 セレスは申し訳なさそうに言ったが、ティはそれを聞いてかぶりを振った。
「もう覚えてないわ」
 そう答えて自分の頬をセレスの頬にくっつけた。
「ティ、くすぐったいよ」
「だって、嬉しくて」
 ティがこんなにオーバーアクションで喜びを表現するのはオフィスでは初めてだったかもしれない。ヨクやカインが見たらきっとびっくりしただろう。
「カインに会いに行ってもいい?」
 ためらいがちにセレスが言うと、ティはなぜそんなことを聞くの、というような顔をした。
「当たり前じゃない。早く行ってあげて」
 ティは嬉しそうに言った。
「びっくりするわよ、きっと。いっぱいびっくりさせるといいわ」
 セレスは笑みを返すと、急いでオフィスを出ていった。それを見送るケイナにティは歩み寄った。
「どうして急に記憶が戻ったの?」
 そう尋ねると、ケイナは戸惑ったように目を伏せた。ティは笑みを浮かべた。
「照れたりするところもあるのね。なんだか嬉しいわ」
 ケイナは思わず彼女を見て、再び目を逸らせた。
「好きで好きでたまらないって顔して。本当に彼女のことが好きだったのね」
 ティはそう言うとくすくす笑った。
「それ、そのまんまあなたに返すよ」
 ケイナは言った。ティがどういうこと? というように彼を見上げると、ケイナは幽かに笑みを浮かべた。
「おれ、別に、カインからあなたとのことは何も聞いてない」
 ティは小首をかしげた。
「好きで好きでたまらないって顔をしているのは、あなたとカインだよ」
 みるみる顔を真っ赤にして抗議しようとするティの口の端にケイナはすばやくキスをした。
 ティは真っ赤な顔のまま呆然として彼の顔を見た。すぐに『ノマド』のキスだと思い当たった。
「あなたがどうしてノマドのキスをするの?」
「……おれは、幼い頃、『ノマド』で暮らしてたから。『ノマド』で、養父を殺して、レジーに引き取られた」
 ティはびっくりしたような顔でケイナの顔を見つめた。
「レジーに引き取られた時点でおれは『トイ・チャイルド・プロジェクト』の被験体として18歳で仮死保存されることになってた。それを命がけで助けようとしてくれたのが…… カインとユージーとアシュア……。セレスだ」
 何も言えずに自分を見つめるティを見つめ返して、ケイナは束の間口を引き結んだ。
「ほかにもたくさん、おれはいろんな人に助けられてきた。……でも、おれは自分のことしか考えられなかった……。あなたにも、何ひとつお礼を言っていなかった。いろいろ助けてくれてありがとう……」
「助けるだなんて」
 そうつぶやいて、ティは慌てて口元を押さえた。思わず泣き出しそうになったからだ。
「助けられたのはわたしのほうよ」
「ピアスも嬉しかった。……大事にするよ」
 ケイナはそう言うと、オフィスを出ていった。かすかな青い光が彼の耳で光った。
 どうして、今、そんなことを言うの?
 ティはそう問いたかったが、彼の姿が消えたあと、あとからあとから溢れ出てしまう涙を拭うために慌ててデスクに戻った。
 書類の下や引き出しを引っ掻き回しながら、涙が出た理由が分かった。ケイナが初めて自分のことを話してくれたからだ。
 プレゼントしたピアスを嬉しいと言ってくれた。
 彼はきっとこれだけのことを話すだけで精一杯だっただろう。
(ありがとう、ケイナ)
 ティは心の中でつぶやいた。
 しかし、再び慌しい足音がして、嬉しさの余韻に浸ることができなくなった。ティはびっくりして振り向いた。
「ティ!」
 セレスが飛び込むなり叫んだ。
「カインに説明してよ! 聞いてくれないんだ!」
 ティは呆気にとられて大きな緑色の目を見た。
「どうして? 彼にどう言ったの?」
「入っていって、走っていって、抱きついて……」
 懇願するような表情で訴えるセレスの背後から、出て行ったばかりのケイナがうんざりしたような表情で戻って来ると、セレスの腕を引っ掴んだ。
「なに、すんだよ!」
 セレスが抗議の声をあげたが、ケイナは何も答えないままセレスを引きずって出て行った。
 ティは呆然としたままふたりを見送った。
(入っていって、走っていって、抱きついて……)
「ばかねぇ…… なにしてるのよ。いくらびっくりさせるからって……」
 つぶやいたら笑いがこみあげた。笑いながらまた涙が溢れた。
 体を震わせながら泣き笑いをするティの姿を、いつもどおりの様子で部屋に入ってきたヨクが見て目を丸くした。
「どうした? なにかあったのか?」
「ねえ、ヨク……」
 ティは涙を流してくすくす笑いながら彼の顔を見て言った。
「お願いがあるの」
 ヨクは呆然としたまま彼女の顔を見た。
「ハンカチかティッシュを貸して。どこを探しても見つからないの」
 ヨクはまだ呆然としたままだった。