ダフルが森の中に走って行ったあと、ケイナはプラニカのメーターを覗き込んだ。
燃料は減っていない。誰かが抜き取ったあともない。大丈夫だ。
顔を外に出したときふいにブランが自分の手をとったのでケイナは彼女に目を向けた。
「なに?」
ブランは何も言わずにケイナを見上げた。その目が涙で一杯になっていたのでケイナは目を細め、そしてゆっくりとダフルの歩いていった方向に顔を向けた。
再びブランに顔を向けたとき、彼女は小さな声で言った。
「……ごめんなさい……」
その言葉を聞いたとき、体中に痺れるような衝撃を感じた。
ケイナはブランから手を引き抜いて身を翻した。
あっという間に顔から血の気が引くのが自分でも分かる。心臓が破裂しそうなほど動悸を打った。
「ダフル!」
森の中に入ってあらん限りの大声で呼んだ。
そんなに遠くまで行ってはいないはずだ。
周囲を見回した。
同じような木立、同じような茂み。
たちこめていた朝靄が少しずつ晴れかけていた。
「ダフル!」
小さな呻き声が聞こえたような気がして、ケイナは顔をめぐらせた。そして茂みの中にダフルの姿を見つけたとき、思わず声にならない悲鳴が漏れた。
「ケイナ……?」
ダフルは抱きかかえられて仰向けにされたあと、うっすらと目を開けてケイナを見た。
「……今度はほんとの…… ケイナだな……」
ケイナはダフルの胸から流れる血の多さに愕然としながら周囲を見回した。何か止血できるもの……。
なにもない。ケイナは上着を脱ぎ捨てると下に着ていたカーキ色のシャツを脱いで力任せに引き裂いた。
「護衛がさ…… 呆れるよねえ…… ぼくはやっぱし…… 向いてない……」
「しゃべんなよ」
ケイナは彼の胸の傷口を押さえながら必死になって言った。
「ケイナ…… きみは…… かっこいいな……」
ダフルはうっすらと笑みを浮かべた。
「青いピアスがさ…… 似合って…… きれい…… 思った……」
「ダフル、頼むよ、しゃべるな」
声が震えた。血が止まらなかった。押さえても押さえても自分の手が赤く染まっていく。
「ケイナ…… 父さんにさ…… 渡して…… くれる……?」
ケイナは手を止めて思わずダフルの顔を見た。
「ポケット…… 入ってる…… にんぎょう……」
「ダフル、だめだぞ、帰らないと!」
ケイナは半ば叫ぶような声で言った。
「うん……」
「すぐ手当てしてやるから」
ケイナはダフルを抱えあげようとした。腕を肩に回したが、小柄なダフルが思いのほか重かった。
「にん、ぎょ……」
ダフルの首が不自然にぐらりと傾き、目から色が消えた。
「ダフル! だめだ! 帰らないと! ダフル!!」
彼の耳元で叫び散らしたが、ダフルの目は虚空を見つめたままだった。
掴んでいたダフルの腕が血で滑って自分から落ちた。彼の重みで草が潰れる音がした。
ケイナはダフルの血で染まった自分の両手を見た。自分でも信じられないほど震えていた。
「なんで……」
赤い手とダフルの顔を何度も交互に見た。
「なんでダフルが…… なんで気づかなかった…… おれは……」
涙が溢れた。怒りと失望が耐え難いほど襲ってきた。
「なんで…… なんで……」
同じ言葉を繰り返しながら、ケイナはダフルを抱きしめて泣いた。
ダイとブランがお互いの手をしっかり握りながらその姿を見て立ち尽くしていた。
身支度を整えていたとき、いきなり入った通信音にカインは仰天した。
慌てて画面に食らいつくと映ったのがブランだったのでさらに驚いた。
「お兄ちゃんが…… ビルの下まで迎えに来てって言ってる」
ブランは泣き出しそうな顔をしていた。
「今どこ?」
カインは尋ねた。
「もう、すぐ近くまで来てるって」
「分かった」
カインは急いで部屋を飛び出すと、アシュアの部屋のドアを力任せに蹴った。寝ていたら今度こそぶん殴ってやる。そう思った。
「アシュア!」
大声で怒鳴ると、予想に反してアシュアは憤慨したような表情で顔を覗かせた。
「なに。朝っぱらから」
「ブランが帰って来た。ケイナが連れてきたみたいだ」
言い終わる前にアシュアは部屋から飛び出した。その奥からリアも転がるように続く。
エントランスまで降りるとすぐに3人はダイとブランの姿を見つけた。
リアがあっという間にふたりに駆け寄って抱きしめた。
ブランは彼女に抱きつくなり大声で泣き出した。すでに朝の騒がしさを持っていたエントランスが彼女の声に一瞬しんと静まりかえった。
カインは周囲を見回した。
「ケイナは?」
尋ねると、泣いていなかったダイがカインを見上げた。
「ダフルを…… お父さんに返しに行った」
「ダフル?」
カインは目を細めた。
「ごめんなさい……」
ブランが泣きじゃくりながらカインを見た。カインはアシュアと顔を見合わせた。
「ブラン? どうしたんだ?」
アシュアが腰を落として彼女の顔を覗きこんだが、ブランはしゃくりあげるだけだった。
「ブランは分かってたんだ……」
ダイが答えた。
「ダフルは死んじゃうって」
ダイも顔をゆがめた。
「長老に相談したんだ。助けられるんじゃないかって。でもだめだって。何をどうしてもそれが運命なんだって。それしか見えないんだって。お兄ちゃんに言ったらまた別のお兄ちゃんを作ってしまうかもしれないからだめだって。お兄ちゃんはもう、ひとりで頑張らなきゃいけないんだって……」
ダイの目から涙がこぼれた。
「お父さん、ぼくら、これで良かったのかどうか分からないんだ。お兄ちゃん、ものすごく泣いてた。とても悲しそうだった。ダフルがいなくなってお兄ちゃんが泣いて…… ぼくも……」
ダイがしゃくりあげた。
「ダイ、もういいよ」
アシュアはダイを抱きしめた。ダイは声をあげて泣き出した。
ダフルはカートのビルの一室に安置された。
しばらくして女性がひとり走ってくると、猛烈な勢いで部屋に入っていった。
ちらりと見えた横顔がダフルによく似ていた。
クルーレが別の女性をひとり伴って来たのはそれから5分くらいたった頃だった。
女性は軍の情報課の制服を着ていた。ダフルが言っていた姉だろう。肩まで垂らしたまっすぐな髪はダフルによく似た灰みのかかった茶色で、凛とした横顔はかすかにクルーレを思わせた。
彼女は部屋の外に立ち尽くしているケイナをちらりと見て部屋に入っていった。
そのあとには続かず立ち止まって無言で自分を見下ろすクルーレをケイナは見上げた。
「助けられなかった……」
ケイナは言ったが、クルーレは体中ダフルの血で染まっているケイナを黙って見つめたままだった。
「……おれの…… せいだ……」
クルーレの顔をまともに見ることができず、ケイナは目を伏せた。そしてポケットから木組みの人形を取り出した。
「ダフルが…… あなたに渡してくれと言っていた」
差し出すとクルーレは大きな手でそれを受け取った。
「『ノマド』で子供たちと作った人形」
ケイナは口を引き結んだ。
「帰ったら…… 軍を辞めて『ジュニア・スクール』の教師になるんだと言ってた」
クルーレはやはり何も言わなかった。
彼は手を伸ばすとケイナの左手を掴み、その手のひらを見た。そしてその目を彼の右手にも向け、もう片方の手で持ち上げた。
ケイナの両方の手はもう赤茶けていたが血まみれだった。
クルーレの大きな手から彼の体温が伝わった。
(どうした、こんなにすりむいて)
太い声が自分の頭の上で聞こえる。そんな記憶がふいに蘇った。
(痛かったら泣いてもいいんだよ)
(泣かない)
太い声にケイナは答えていた。
(こんなのたいしたことじゃない)
(強情な子だな)
ふふふと声が笑う。
ああ、この笑い方……。ダフルにそっくりだった。どうして今まで思い出さなかったんだろう。
太い声は最後にいつもこう言った。
(シャワーを浴びてきなさい)
「シャワーを浴びてくるといい」
クルーレはそう言うとケイナの手を離し、背を向けた。
彼の大きな背中がスローモーションのようにゆっくりと部屋の中に吸い込まれていく。
ドアが開いたとき、かすかな嗚咽の声が聞こえた。
一瞬、くらりと眩暈を感じてケイナは後ずさった。
束の間ぎゅっと目を閉じて顔をあげると、廊下の端に人の気配を感じた。
ユージーが立っているのが見えた。
こっちに来いというように目で合図している。
ケイナは口を引き結ぶと、彼に足を向けた。
「怪我は?」
ユージーはケイナの姿を上から下まで眺めて尋ねた。
以前よりずっと声が聞き取りやすくなっている。喉を見ると前とは違う機器がついていた。
ただ、まだ姿勢をまっすぐに保って歩けないらしく片手に杖をついている。
ケイナが小さくかぶりを振ると、ユージーは少し息を吐いてうなずいた。
「自分がついていながらどうしてと思っているのか?」
目を伏せるケイナを見てユージーはふんと鼻を鳴らした。
「そういうのは自惚れっていうんだよ」
ケイナが思わず顔をあげると、険しい目が見えた。
「おまえは確かに人並み外れた部分がある。いや、人以上のことができるんだろう。だがな、おまえの自惚れで取り返しのつかないことがあることも覚えておくといい」
ケイナが口を開こうとするとユージーはさらに畳み掛けた。
「サン・バッカードとエストランド・カートは死んだよ」
開きかけた口がそのままになった。
ユージーは立ち疲れたのか、背後の壁に身をもたせかけた。
「カートでカタをつけた、と言いたいところだが、その前に殺されていた」
「誰に」
ケイナは目を細めた。
「首を『握り潰されて』いた。握り潰せる奴なんか、今のところひとりしか思い浮かばないな」
ユージーは吐き出すように答えた。ケイナは視線を泳がせた。
あいつか? あいつがやったのか……?
いや、『あいつ』ではない。きっとハルドさんだ……。
ハルドさんの記憶は消えたわけじゃない。わずかな正気の時に動いたのかもしれない。
そんなケイナを見ながらユージーは口を開いた。
「バッカードが偽者だと見破ったことには感謝するよ。そのおかげで次のアクションが起こせたのだから。こっちからも人を送っていた。物騒なことをするつもりはなかったが、あいつがやらなくても、結果的には同じだったかもしれない」
「バッカードとエストランドの接点が見つかったのか?」
ケイナが言うとユージーは突き放すような視線を向けた。
「そんなものは知らない」
ユージーの答えにケイナは眉をひそめた。
「ただ、バッカードは『アライド』にいた。それ以上の情報はいらない。調べる必要もない」
ユージーは言い放つとケイナを見据えた。
「なぜ必要だ? 十分だろう。バッカードも分かっていたはずだ。身代わりを置き、『アライド』に行くことがどれほど危険なことか。今この時期に自分が『アライド』にいるというだけで疑われることは承知のうえのはずだ。そして自らの命を失うことになった。これが事実だ」
「ユージー……」
言いかけて、これまで見たこともないユージーの気迫に満ちた目にケイナは次の言葉を続けることができなかった。
「『ゼロ・ダリ』は地球のカートで買収した。次にリィ・カンパニーに譲る。それはカインも受け入れた。『A・Jオフィス』にはおれの復帰を宣言した。おまえがいなくなった数日にここまでのことが動いた。おまえはいったい何を得た?」
ケイナは言葉を失くして俯いた。視界の隅に血に染まった自分の手が見えた。
「言え、ケイナ。ダフル・クルーレという命と引き換えに、おまえはいったい何を得た」
ケイナは俯いたままかぶりを振った。
「分からない……」
「ふざけるな!」
ユージーの罵声が飛び、手が伸びて胸ぐらを掴まれた。彼は杖で体を支えながらケイナを自分に引き寄せた。
「悲嘆にくれてめそめそ泣いているだけか! 泣く元気があるなら自分のやらなければならないことをしろ。それがなにか分かるか!」
ケイナは無言でユージーを見つめた。
「あいつに指示を出す人間はいなくなった。今までのあいつの動きでおまえは察してるはずだ。もう当初の命令など残っていないも同然かもしれない。ボスであったはずのふたりを殺したんだ。あいつはおまえとセレスだけじゃなく、周りの人間もおもちゃのように殺していくぞ。そういう『遊び』を覚えたんだ。最初の『遊び』がダフルだ。違うか」
ケイナの口から小さな呻き声が漏れた。
「いや、その前にティ・レン。カインにも」
ユージーは突き飛ばすようにケイナから手を離した。ユージーの力が強かったのでケイナは彼と反対側の壁に突き当たった。
「自惚れているだけで覚悟をしていない奴はおれは嫌いだ。リィに戻れ。クルーレの部隊も常時あちらに配置する。これ以上の遊びは許すな。本気でやれ。おれは言い訳など一切受け付けない」
ユージーはケイナを睨みつけて顔を背けると、壁から身を離した。
ケイナは杖をつきながら歩き出すユージーの後ろ姿を黙って見つめた。
「ケイナ」
ふとユージーは足を止めた。
「おれはあいつがクレイ指揮官じゃないと思ってる」
振り向かないままユージーは言った。ケイナは返事をしなかった。ユージーから顔を背けると、コツリ、コツリと遠ざかっていく杖の音を聞きながら震える息を吐いた。
左手を顔の高さまであげると、ダフルの血に染まった自分の手のひらが見えた。
昔は自分の死ばかりを考えていた。
自分が死ぬか生きるか、それだけだったような気がする。
今は人の死がこんなに痛い。苦しくて辛い。たった2日しか一緒にいなかった人なのに。
言い訳?
そうかもしれない。どこかでそんなことを自分で自分に言い聞かせていたかもしれない。
助けたかったけれど、助けられなかった。
もっと前に気づいていれば、ダフルをひとりにしなければ。
何よりも、ダフルを連れて行ったりしなければ。
(ぼくがまた『コリュボス』に連れて行ってあげるよ)
あの時、どうして一言「ありがとう」と言えなかったのだろう。
彼が軍を辞めると言ったとき、なぜ彼がいてくれたおかげでここまで来れたのだと言えなかったのだろう。
ダフルが自分にかけてくれた数々の言葉が痛みを伴って降り注ぐ。
でも、もう遅い。ダフルは帰らない。あの人懐こい笑顔を二度と見ることはない。
(ひとつずつさよならを覚えていくの)
ジェ二ファの言葉が頭に浮かぶ。
今度はハルドさんとの別れを覚えるのか?
こんな別れは、もう、たくさんだ……。
ケイナは口を引き結ぶと壁から背を離した。
燃料は減っていない。誰かが抜き取ったあともない。大丈夫だ。
顔を外に出したときふいにブランが自分の手をとったのでケイナは彼女に目を向けた。
「なに?」
ブランは何も言わずにケイナを見上げた。その目が涙で一杯になっていたのでケイナは目を細め、そしてゆっくりとダフルの歩いていった方向に顔を向けた。
再びブランに顔を向けたとき、彼女は小さな声で言った。
「……ごめんなさい……」
その言葉を聞いたとき、体中に痺れるような衝撃を感じた。
ケイナはブランから手を引き抜いて身を翻した。
あっという間に顔から血の気が引くのが自分でも分かる。心臓が破裂しそうなほど動悸を打った。
「ダフル!」
森の中に入ってあらん限りの大声で呼んだ。
そんなに遠くまで行ってはいないはずだ。
周囲を見回した。
同じような木立、同じような茂み。
たちこめていた朝靄が少しずつ晴れかけていた。
「ダフル!」
小さな呻き声が聞こえたような気がして、ケイナは顔をめぐらせた。そして茂みの中にダフルの姿を見つけたとき、思わず声にならない悲鳴が漏れた。
「ケイナ……?」
ダフルは抱きかかえられて仰向けにされたあと、うっすらと目を開けてケイナを見た。
「……今度はほんとの…… ケイナだな……」
ケイナはダフルの胸から流れる血の多さに愕然としながら周囲を見回した。何か止血できるもの……。
なにもない。ケイナは上着を脱ぎ捨てると下に着ていたカーキ色のシャツを脱いで力任せに引き裂いた。
「護衛がさ…… 呆れるよねえ…… ぼくはやっぱし…… 向いてない……」
「しゃべんなよ」
ケイナは彼の胸の傷口を押さえながら必死になって言った。
「ケイナ…… きみは…… かっこいいな……」
ダフルはうっすらと笑みを浮かべた。
「青いピアスがさ…… 似合って…… きれい…… 思った……」
「ダフル、頼むよ、しゃべるな」
声が震えた。血が止まらなかった。押さえても押さえても自分の手が赤く染まっていく。
「ケイナ…… 父さんにさ…… 渡して…… くれる……?」
ケイナは手を止めて思わずダフルの顔を見た。
「ポケット…… 入ってる…… にんぎょう……」
「ダフル、だめだぞ、帰らないと!」
ケイナは半ば叫ぶような声で言った。
「うん……」
「すぐ手当てしてやるから」
ケイナはダフルを抱えあげようとした。腕を肩に回したが、小柄なダフルが思いのほか重かった。
「にん、ぎょ……」
ダフルの首が不自然にぐらりと傾き、目から色が消えた。
「ダフル! だめだ! 帰らないと! ダフル!!」
彼の耳元で叫び散らしたが、ダフルの目は虚空を見つめたままだった。
掴んでいたダフルの腕が血で滑って自分から落ちた。彼の重みで草が潰れる音がした。
ケイナはダフルの血で染まった自分の両手を見た。自分でも信じられないほど震えていた。
「なんで……」
赤い手とダフルの顔を何度も交互に見た。
「なんでダフルが…… なんで気づかなかった…… おれは……」
涙が溢れた。怒りと失望が耐え難いほど襲ってきた。
「なんで…… なんで……」
同じ言葉を繰り返しながら、ケイナはダフルを抱きしめて泣いた。
ダイとブランがお互いの手をしっかり握りながらその姿を見て立ち尽くしていた。
身支度を整えていたとき、いきなり入った通信音にカインは仰天した。
慌てて画面に食らいつくと映ったのがブランだったのでさらに驚いた。
「お兄ちゃんが…… ビルの下まで迎えに来てって言ってる」
ブランは泣き出しそうな顔をしていた。
「今どこ?」
カインは尋ねた。
「もう、すぐ近くまで来てるって」
「分かった」
カインは急いで部屋を飛び出すと、アシュアの部屋のドアを力任せに蹴った。寝ていたら今度こそぶん殴ってやる。そう思った。
「アシュア!」
大声で怒鳴ると、予想に反してアシュアは憤慨したような表情で顔を覗かせた。
「なに。朝っぱらから」
「ブランが帰って来た。ケイナが連れてきたみたいだ」
言い終わる前にアシュアは部屋から飛び出した。その奥からリアも転がるように続く。
エントランスまで降りるとすぐに3人はダイとブランの姿を見つけた。
リアがあっという間にふたりに駆け寄って抱きしめた。
ブランは彼女に抱きつくなり大声で泣き出した。すでに朝の騒がしさを持っていたエントランスが彼女の声に一瞬しんと静まりかえった。
カインは周囲を見回した。
「ケイナは?」
尋ねると、泣いていなかったダイがカインを見上げた。
「ダフルを…… お父さんに返しに行った」
「ダフル?」
カインは目を細めた。
「ごめんなさい……」
ブランが泣きじゃくりながらカインを見た。カインはアシュアと顔を見合わせた。
「ブラン? どうしたんだ?」
アシュアが腰を落として彼女の顔を覗きこんだが、ブランはしゃくりあげるだけだった。
「ブランは分かってたんだ……」
ダイが答えた。
「ダフルは死んじゃうって」
ダイも顔をゆがめた。
「長老に相談したんだ。助けられるんじゃないかって。でもだめだって。何をどうしてもそれが運命なんだって。それしか見えないんだって。お兄ちゃんに言ったらまた別のお兄ちゃんを作ってしまうかもしれないからだめだって。お兄ちゃんはもう、ひとりで頑張らなきゃいけないんだって……」
ダイの目から涙がこぼれた。
「お父さん、ぼくら、これで良かったのかどうか分からないんだ。お兄ちゃん、ものすごく泣いてた。とても悲しそうだった。ダフルがいなくなってお兄ちゃんが泣いて…… ぼくも……」
ダイがしゃくりあげた。
「ダイ、もういいよ」
アシュアはダイを抱きしめた。ダイは声をあげて泣き出した。
ダフルはカートのビルの一室に安置された。
しばらくして女性がひとり走ってくると、猛烈な勢いで部屋に入っていった。
ちらりと見えた横顔がダフルによく似ていた。
クルーレが別の女性をひとり伴って来たのはそれから5分くらいたった頃だった。
女性は軍の情報課の制服を着ていた。ダフルが言っていた姉だろう。肩まで垂らしたまっすぐな髪はダフルによく似た灰みのかかった茶色で、凛とした横顔はかすかにクルーレを思わせた。
彼女は部屋の外に立ち尽くしているケイナをちらりと見て部屋に入っていった。
そのあとには続かず立ち止まって無言で自分を見下ろすクルーレをケイナは見上げた。
「助けられなかった……」
ケイナは言ったが、クルーレは体中ダフルの血で染まっているケイナを黙って見つめたままだった。
「……おれの…… せいだ……」
クルーレの顔をまともに見ることができず、ケイナは目を伏せた。そしてポケットから木組みの人形を取り出した。
「ダフルが…… あなたに渡してくれと言っていた」
差し出すとクルーレは大きな手でそれを受け取った。
「『ノマド』で子供たちと作った人形」
ケイナは口を引き結んだ。
「帰ったら…… 軍を辞めて『ジュニア・スクール』の教師になるんだと言ってた」
クルーレはやはり何も言わなかった。
彼は手を伸ばすとケイナの左手を掴み、その手のひらを見た。そしてその目を彼の右手にも向け、もう片方の手で持ち上げた。
ケイナの両方の手はもう赤茶けていたが血まみれだった。
クルーレの大きな手から彼の体温が伝わった。
(どうした、こんなにすりむいて)
太い声が自分の頭の上で聞こえる。そんな記憶がふいに蘇った。
(痛かったら泣いてもいいんだよ)
(泣かない)
太い声にケイナは答えていた。
(こんなのたいしたことじゃない)
(強情な子だな)
ふふふと声が笑う。
ああ、この笑い方……。ダフルにそっくりだった。どうして今まで思い出さなかったんだろう。
太い声は最後にいつもこう言った。
(シャワーを浴びてきなさい)
「シャワーを浴びてくるといい」
クルーレはそう言うとケイナの手を離し、背を向けた。
彼の大きな背中がスローモーションのようにゆっくりと部屋の中に吸い込まれていく。
ドアが開いたとき、かすかな嗚咽の声が聞こえた。
一瞬、くらりと眩暈を感じてケイナは後ずさった。
束の間ぎゅっと目を閉じて顔をあげると、廊下の端に人の気配を感じた。
ユージーが立っているのが見えた。
こっちに来いというように目で合図している。
ケイナは口を引き結ぶと、彼に足を向けた。
「怪我は?」
ユージーはケイナの姿を上から下まで眺めて尋ねた。
以前よりずっと声が聞き取りやすくなっている。喉を見ると前とは違う機器がついていた。
ただ、まだ姿勢をまっすぐに保って歩けないらしく片手に杖をついている。
ケイナが小さくかぶりを振ると、ユージーは少し息を吐いてうなずいた。
「自分がついていながらどうしてと思っているのか?」
目を伏せるケイナを見てユージーはふんと鼻を鳴らした。
「そういうのは自惚れっていうんだよ」
ケイナが思わず顔をあげると、険しい目が見えた。
「おまえは確かに人並み外れた部分がある。いや、人以上のことができるんだろう。だがな、おまえの自惚れで取り返しのつかないことがあることも覚えておくといい」
ケイナが口を開こうとするとユージーはさらに畳み掛けた。
「サン・バッカードとエストランド・カートは死んだよ」
開きかけた口がそのままになった。
ユージーは立ち疲れたのか、背後の壁に身をもたせかけた。
「カートでカタをつけた、と言いたいところだが、その前に殺されていた」
「誰に」
ケイナは目を細めた。
「首を『握り潰されて』いた。握り潰せる奴なんか、今のところひとりしか思い浮かばないな」
ユージーは吐き出すように答えた。ケイナは視線を泳がせた。
あいつか? あいつがやったのか……?
いや、『あいつ』ではない。きっとハルドさんだ……。
ハルドさんの記憶は消えたわけじゃない。わずかな正気の時に動いたのかもしれない。
そんなケイナを見ながらユージーは口を開いた。
「バッカードが偽者だと見破ったことには感謝するよ。そのおかげで次のアクションが起こせたのだから。こっちからも人を送っていた。物騒なことをするつもりはなかったが、あいつがやらなくても、結果的には同じだったかもしれない」
「バッカードとエストランドの接点が見つかったのか?」
ケイナが言うとユージーは突き放すような視線を向けた。
「そんなものは知らない」
ユージーの答えにケイナは眉をひそめた。
「ただ、バッカードは『アライド』にいた。それ以上の情報はいらない。調べる必要もない」
ユージーは言い放つとケイナを見据えた。
「なぜ必要だ? 十分だろう。バッカードも分かっていたはずだ。身代わりを置き、『アライド』に行くことがどれほど危険なことか。今この時期に自分が『アライド』にいるというだけで疑われることは承知のうえのはずだ。そして自らの命を失うことになった。これが事実だ」
「ユージー……」
言いかけて、これまで見たこともないユージーの気迫に満ちた目にケイナは次の言葉を続けることができなかった。
「『ゼロ・ダリ』は地球のカートで買収した。次にリィ・カンパニーに譲る。それはカインも受け入れた。『A・Jオフィス』にはおれの復帰を宣言した。おまえがいなくなった数日にここまでのことが動いた。おまえはいったい何を得た?」
ケイナは言葉を失くして俯いた。視界の隅に血に染まった自分の手が見えた。
「言え、ケイナ。ダフル・クルーレという命と引き換えに、おまえはいったい何を得た」
ケイナは俯いたままかぶりを振った。
「分からない……」
「ふざけるな!」
ユージーの罵声が飛び、手が伸びて胸ぐらを掴まれた。彼は杖で体を支えながらケイナを自分に引き寄せた。
「悲嘆にくれてめそめそ泣いているだけか! 泣く元気があるなら自分のやらなければならないことをしろ。それがなにか分かるか!」
ケイナは無言でユージーを見つめた。
「あいつに指示を出す人間はいなくなった。今までのあいつの動きでおまえは察してるはずだ。もう当初の命令など残っていないも同然かもしれない。ボスであったはずのふたりを殺したんだ。あいつはおまえとセレスだけじゃなく、周りの人間もおもちゃのように殺していくぞ。そういう『遊び』を覚えたんだ。最初の『遊び』がダフルだ。違うか」
ケイナの口から小さな呻き声が漏れた。
「いや、その前にティ・レン。カインにも」
ユージーは突き飛ばすようにケイナから手を離した。ユージーの力が強かったのでケイナは彼と反対側の壁に突き当たった。
「自惚れているだけで覚悟をしていない奴はおれは嫌いだ。リィに戻れ。クルーレの部隊も常時あちらに配置する。これ以上の遊びは許すな。本気でやれ。おれは言い訳など一切受け付けない」
ユージーはケイナを睨みつけて顔を背けると、壁から身を離した。
ケイナは杖をつきながら歩き出すユージーの後ろ姿を黙って見つめた。
「ケイナ」
ふとユージーは足を止めた。
「おれはあいつがクレイ指揮官じゃないと思ってる」
振り向かないままユージーは言った。ケイナは返事をしなかった。ユージーから顔を背けると、コツリ、コツリと遠ざかっていく杖の音を聞きながら震える息を吐いた。
左手を顔の高さまであげると、ダフルの血に染まった自分の手のひらが見えた。
昔は自分の死ばかりを考えていた。
自分が死ぬか生きるか、それだけだったような気がする。
今は人の死がこんなに痛い。苦しくて辛い。たった2日しか一緒にいなかった人なのに。
言い訳?
そうかもしれない。どこかでそんなことを自分で自分に言い聞かせていたかもしれない。
助けたかったけれど、助けられなかった。
もっと前に気づいていれば、ダフルをひとりにしなければ。
何よりも、ダフルを連れて行ったりしなければ。
(ぼくがまた『コリュボス』に連れて行ってあげるよ)
あの時、どうして一言「ありがとう」と言えなかったのだろう。
彼が軍を辞めると言ったとき、なぜ彼がいてくれたおかげでここまで来れたのだと言えなかったのだろう。
ダフルが自分にかけてくれた数々の言葉が痛みを伴って降り注ぐ。
でも、もう遅い。ダフルは帰らない。あの人懐こい笑顔を二度と見ることはない。
(ひとつずつさよならを覚えていくの)
ジェ二ファの言葉が頭に浮かぶ。
今度はハルドさんとの別れを覚えるのか?
こんな別れは、もう、たくさんだ……。
ケイナは口を引き結ぶと壁から背を離した。