8年前に住んでいた『コリュボス』のアパートがまだ残っているかどうか、ケイナは半信半疑だったが、ダフルは思いのほかすばやくその存在を確認してくれた。
 あとはジェ二ファがいるかどうかだ。彼女が生きているかどうかは分からない。
 アパートの住民の大半は『ノマド』出身者で住民登録はしていなかったから消息の確認ができなかった。
 ジェ二ファは一切の通信機器を持たないので、彼女に会うには『コリュボス』に直接行くしかなかったのだが、それもダフルが手配した。彼が星間機の操縦が可能であったのはケイナにとって有難い話だった。
 ダフルの動きはケイナも感心するほど手際がいい。彼はこちらが必要最低限の意思表示をするだけでずっと先までの必要なことを見通してしまう。
 ケイナは常に文句をつけたそうな表情で息子を見ていたクルーレの顔を思い出した。
 このずば抜けた能力はもしかしたら父親であるクルーレは分かっていないのかもしれない。
「機械類も好きでね。エンジニアのほうが向いているのかもしれない」
 ダフルは星間機の操縦席に座って、笑いながらケイナに言った。
 彼は笑うと目尻がじんわりと垂れ下がり、口の端があがってなんとも愛嬌のある表情になる。灰みのかかった栗色の髪は父親譲りだったが、いかめしい顔つきであまり表情の出ないクルーレとは対照的だった。とりたてて長身ではないケイナも小柄な彼を前にすると視線が下になった。
「ぼくは母さん似なんだ。言わなきゃ誰もぼくがアンリ・クルーレの息子だとは気づかないよ。クルーレ姓は何人もいるからね。でも姉さんがどっちかというと父さん似で」
 ダフルはくくくと笑った。
「でも、気づかれないほうがいいんだ。父さんの息子っていうだけで違う目で見られるのはけっこう辛いものがある。ぼくはあんまりできのいいほうじゃないしね」
 ダフルは話し好きらしく、『コリュボス』に着くまでずっとしゃべっていた。
 彼はきっと父親にしょっちゅう叱られてばかりいるのだろう。
 自分で得意なことは認識できていて、なおかつ実際に人よりもずば抜けているというのに、それが周囲に認められない彼は少し哀れだった。
「父さんは何も言ってくれなかったけど、きみはカート家に関係のある人なの?」
 薄茶色の目がこちらを向く。返答に困って顔を伏せるケイナを見てダフルは小首をかしげた。
「カート社長に弟がいたって話はだいぶん前に聞いたけど…… 確か、闘病中だったはずなんだよな……。それ以外にカートの名前できみくらいの年齢の人ってあまり覚えがないし……。それにだいたいカートの血筋の人は黒髪だから金髪だと分かるはずなんだけど」
「あんた、名前だけで違う目で見られるのは辛いものがあるって、言ってたじゃないか」
 ケイナが言うと、ダフルは笑った。
「ははは、そうだったね。カート姓もたくさんあるよな。すまなかった。詮索しすぎちゃった」
 とことん、ダフルは楽天的だった。
 ケイナが何を言っても、どんな対応をしても全く意に介さない。

 『コリュボス』のエアポートに着くとダフルは嬉しそうに周囲を見回した。
「ぼくは『コリュボス』の『ライン』だったんだよ。懐かしいなあ、『コリュボス』。2年ぶりかなあ」
 ケイナは思わずダフルの顔を見た。
 ダフルは20歳を少し過ぎたくらいの年齢に思えていたが、ほんの2年前に『ライン』を修了したばかりとは思わなかった。本当なら自分のほうが遥かに彼の年齢を超えていることになる。そのことが少し衝撃だった。
 星間機から軍のプラニカに乗り換えて移動する間もダフルは嬉しそうだった。
「変わってないな」
 何度も同じ言葉を連発する彼の声にケイナも窓の外の景色を見た。8年前の記憶からも『コリュボス』は変わっていない。ただ、緑は多くなったかもしれない。
 アパートが見えて、小さく西にある湖が見えたとき、ケイナは自分でも気づかないうちに小さく息を吐いていた。ついこの間の出来事のようなのに8年もたってしまった。
 4人で休暇を過ごしたこと、『ライン』を抜け出しセレスと湖に行ったこと、訪れる自分の死期に怯えたこと、凍える島でのこと……。
 置いてきたセレスのことを思うと胸がじくりと痛んだ。
 セレスの声だけを頼りに生き抜いてきた。これが人を好きになることだと知ったのは最後の最後だった。あのときは目が覚めることがあるなど思いもしなかった。
 でも、目が覚めたらセレスは名前を呼んではくれなくなっていた。
 目の前にいるのに抱きしめられない。触れることもできない。それがこんなに辛いことだとは思わなかった。
「着いたよ、これ、どうするの? エントランスから普通に?」
 ダフルの声にケイナははっとして顔をあげた。
 プラニカはアパートの前に下りていた。外に出て見上げると、以前と変わらない色とりどりの窓辺の花が見えた。
「めずらしい建物だね」
 ダフルが同じように見上げてつぶやいた。
 どうしよう。
 ケイナは困惑した。自分の生体認証など、とっくの昔に抹消されているだろう。もちろん、自分の部屋だってないだろう。
声をあげて「ジェ二ファ」と呼べば彼女は出てきてくれるのだろうか。そもそも、彼女はまだ生きているのだろうか。
 考えあぐねていると誰かが出てくるのが視界の隅に入った。ケイナとダフルは二人揃ってそちらに顔を向けた。
「ケイナ……」
 ジェ二ファが顔をくしゃくしゃにして立っていた。
「帰ってくるなんて……。本当に帰ってくるなんて!」
 太った体をゆさゆさと揺らしながら自分の腕に飛び込んで来た彼女を、ケイナはびっくりしながら受け止めた。
「ケイナ、お帰り。……お帰り」
 ジェ二ファは滝のように涙を流しながら繰り返した。
 小さな子供にするように後頭部を彼女になでさすられながら、ケイナは笑みを浮かべた。
「ただいま……。ジェ二ファ」
 ダフルが後ろでくすんと鼻をならした。

「足元、気をつけてね。」
 ケイナとダフルを自分の部屋に案内したジェ二ファは、前にケイナが来たときと同じ言葉を口にした。
 彼女の部屋は変わっていなかった。
 相変わらず床にはたくさん皿が並んでいるし、壁にはびっしりと木の枝が貼り付けられている。
 ダフルは恐ろしげな表情で周囲を見回しながら首をすくめてケイナのあとから部屋に入ってきた。がしゃんと音がしたので振り返ると、ダフルは申し訳なさそうな顔をした。
「すみません…… 踏んじゃった……」
 ジェ二ファは笑った。
「皿よりあなたの足よ。気をつけて、って言ったのは。怪我はない?」
 ダフルは目を真ん丸くしたまま、こくこくとうなずいた。
「2、3日前だったからしら。小さな女の子が来たの」
 奥の部屋でケイナを振り返ってジェ二ファは言った。ケイナが目を細めたので、彼女は手を振った。
「あ、夢の中にね。本当に来たんじゃないのよ」
 彼女は前と変わらぬ大きな水晶の板が置いてあるテーブルの前にケイナを促した。
 ダフルがケイナの後ろからこわごわ顔を覗かせた。
「これ、なんですか?」
 ダフルが尋ねたので、ジェ二ファは笑った。
「水晶の板よ。わたしが夢見に使うものなの」
 ダフルはそれを聞いても何のことか分からないような表情だった。彼のこれまでの人生で『ノマド』は未知の世界だったからだろう。ジェ二ファは視線をケイナに戻した。
「その子がね、青い目のお兄ちゃんが来るから場所を教えてやって欲しいって言うのよ。手を繋いだことがあるからそれを頼りにすれば分かるかもしれないって」
「ブラン……」
 ケイナはつぶやいた。
「コミュニティを探してるの?」
 ジェ二ファが顔を覗きこむようにして言ったので、ケイナはうなずいた。
「でも、地球にいるコミュニティなんだ。『コリュボス』じゃない」
「地球……」
 ジェ二ファはため息まじりに言うと水晶の板に目をやった。
「それで手を繋いだからって言ったのね」
 彼女はそうつぶやくとケイナに再び目を向けた。
「さすがにわたしも真空間を越えてまで夢見をしたことなんかないわ。手を繋いだからって、辿れるものなのかしら……」
 そんなことはケイナだって分からない。
「どっちの手を繋いだの?」
 彼女が言ったので、ケイナは左手を差し出した。ジェ二ファはその手を右手で繋ぐと左手を水晶の板にかざした。ダフルが怖いものでも見るような顔で覗き込んでいる。
「なんか感じるの?」
 ダフルが小さな声でケイナに聞いたので、ケイナは小さくかぶりを振った。
「静かにして」
 ジェ二ファに言われてダフルは首をすくめた。
 彼女は目を閉じて眉間に皺を寄せた。小さな口がきゅっとすぼまっている。
 やっぱり無理なのかもしれない……。
 ケイナは思った。
 『コリュボス』の上なら分かっても、地球の上にあるコミュニティは恐ろしい遠さだ。
 ジェ二ファがどんなに優れた夢見の能力を持っていても難しいだろう。
「あら、いやだ。アシュアの娘だったの?」
 ふいに彼女が口を開いたので、ケイナとダフルはジェ二ファの顔を見た。
 ジェ二ファはくすくす笑った。
「いやぁね、教えてくれればいいのに」
「分かったの?」
 ケイナが彼女の顔を覗きこむと、ジェ二ファはうなずいた。
 彼女はケイナの手を離すと顔を巡らせ、小さな紙とペンを持ってきた。
「ええとね……、地球の地図ってわたしはうまく描けないんだけど……」
 彼女は紙の上にペンで大きな円をいくつか書いた。
「これ、大陸。ここと、ここと、ここね。で、このへん…… かな。森が3つくらいある。そのうちの一番大きな森」
「ノース・ドームじゃないかな……。一番大きな森はシティからそう離れてないよ。ダム湖の近くだ」
 覗き込んでいたダフルがつぶやいた。
 ケイナはティとセントラル・バンクに行ったとき、窓から見たダム湖を思い出した。あんな近くにいたなんて……。
「待ってるって」
 ジェ二ファは言った。
「ごめんねって言ってる。お父さんとお母さんは泣いてないかって気にしてる」
 ケイナは思わず目を伏せた。
 アシュアはともかく、たぶんリアは毎日泣いて過ごしているかもしれない。
 ジェ二ファは片手を伸ばすとケイナの頬を撫でた。
「寒いところから…… よく帰ってきたわね」
「知っていたの……?」
 自分の顔を覗きこむようにして言う彼女の言葉に、ケイナは目を細めた。ジェ二ファはかすかに笑みを浮かべた。
「なんとなくだけどね」
 彼女はそう言って、もう片方の手もケイナに伸ばした。
「……ずいぶんと痩せちゃったのね」
 子供を慈しむように頬を撫でる彼女の温かい指がくすぐったい。
「辛い思いをしているんだろうけれど、頑張るのよ」
 ケイナの顔を引き寄せて、彼女はその顔をじっと見つめた。
「ケイナ。……わたしとあなたが会うのはもうこれで最後よ」
 ケイナはジェ二ファの黒い瞳を見つめ返した。
「どうして……?」
 ジェ二ファは小さく笑みを浮かべた。
「寿命よ。わたしはもうすぐあの世に行くの」
 なんでもないことのように彼女は言ったが、ケイナの表情があっという間に変わった。傍から見てもわかるほど血の気がひいていく。
「そんな顔しないのよ。みんな一緒でしょ? いつかは死ぬの。あなただって寿命がくれば死ぬのよ」
 ここに来るまで、ジェ二ファはもしかしたら死んでいるかもしれないということは考えた。
 でも彼女は生きていた。
 生きていた彼女を前にして、次は本当にいなくなることは受け入れ難かった。
 ケイナは小さくかぶりを振った。「いやだ」というふうに口が開いたが、声は出なかった。
 ジェ二ファは彼の肩に腕を回すと、しっかりと抱きしめた。
「辛いけど、みんな、ひとつずつさよならを覚えていくの。そういうものなのよ」
 ケイナの体が小刻みに震え出した。
「あなたはまだたくさんの人がそばにいるでしょ? その人たちと生きていくのよ」
 ジェ二ファはケイナの髪を撫でながら言った。
「さよなら、ケイナ。あなたに会えてよかった」
 ダフルは俯いた。
 そして背を向けてそっと部屋をあとにした。