「バッカードは1時間ほど前に外出したそうだ。時々昼食後に1、2時間ほど町をぶらぶらするらしい。彼の家の前で待っていれば帰ってくる」
 プラニカの中でクルーレは言った。
「軍のプラニカは近づけないから2ブロックほど離れた場所に停める」
 言葉通りにビルの谷間の目立たない場所にプラニカを停めたクルーレは、後部座席から黒いキャップ式の帽子をとりあげた。
「きみはとりあえずこれを被って」
 ちらりとクルーレを見たあと、ケイナは渡された帽子を被った。それを見てクルーレはため息をついた。
「帽子を被っても目立つな……」
 彼はつぶやいてプラニカから降りた。一緒に降りたケイナを手招きすると、クルーレは道路を横切って向かいのビルに入っていった。
「きみは軍人向きではないな。見た目が目立ち過ぎる」
 古いビルの奥のエレベーターに向かいながら苦笑まじりにクルーレは言った。
「レジーも別におれを軍人にしたかったわけじゃないと思うよ」
 クルーレのあとに続いてエレベーターに乗りながらケイナは言った。
「そんなことはない。司令官はずいぶんきみに期待していたぞ?」
 クルーレは言ったがケイナはかすかに笑ってかぶりを振った。
「18歳の期限つきで?」
エレベーターがあがり始め、ふたりとも口をつぐんだ。
「父に…… もう一度会いたかった……」
 ケイナがつぶやいたので、クルーレは少し俯き加減の彼の横顔に目を向けた。
 薄暗いエレベーターの中で帽子を被ったケイナの顔は鼻から下しか見えない。
「カート司令官もそうだったと思うよ」
 クルーレの言葉にケイナは彼に顔を向けた。
「きみが氷の下に閉じ込められたことを知ったとき、泣いておられた。……病室に行ったとき、声が聞こえた」
 ケイナは即座にクルーレから顔を背けた。クルーレはそれきり何も言わなかった。
 エレベーターは10階部分で止まり、外に出るとすぐに何もないがらんとした大きな部屋になった。剥げかけた床材にジャンクフードの包み紙がいくつか落ちている。
 対面の腰窓に座って外を見ていた若い男がふたりの姿を見つけて立ち上がって敬礼した。軍服を着ているから兵士なのだろう。
「ダフルはどうした?」
 クルーレが歩み寄りながら言うと、彼は部屋の向こうを指差した。
「トイレです」
 その言葉が終わる前に隅の扉が開いて同じく軍服の若い兵士が出て来た。クルーレの姿を見て慌てて敬礼をした。
「少し片付けろ」
 クルーレが床に散らばったジャンクフードの包み紙を見て顔をしかめたので、目の前の男が慌てて拾い集めた。
「誰かと思った……。めずらしいですね、お父さんがここに来るなんて」
 トイレから出て来たダフルと呼ばれた男がそう言いながら近づいてきた。途端にクルーレが険しい顔をしたが、彼は笑って頭をかいただけだった。
「できそこないの息子だ」
 クルーレはケイナに言った。ケイナはダフルの顔を見た。言われなければクルーレの息子とは思えないほど華奢で優しい面立ちだった。
「できそこない、です」
 ダフルは笑ってケイナの顔を見たあと、再びクルーレに顔を向けた。誰? という表情だ。
「ケイナだ。ケイナ・カート」
 クルーレが言うと、ダフルともうひとりの兵士が面白いほど背筋を伸ばしてぴしりと敬礼をした。ケイナの名前を知っているというよりは、カートの名のほうに反応したようだ。
「おれ、こういうとき返礼するものなの?」
 ケイナがささやいたので、クルーレは少し笑った。
「気にしなくてもいい」
 彼はそう言って窓際に寄った。ケイナも同じように窓から外を見た。
「あそこがバッカードの家だ」
 クルーレは対面の2つほど先のビルを指差した。ビルへの出入りがよくわかる。ここはどうもそのためだけの場所のようだ。
「バッカードは外出中だな?」
 クルーレが振り向くとダフルがうなずいた。
「そうです。もうそろそろ帰ってくる頃かと」
 ダフルは窓に近づいて、クルーレの横から顔を突き出して窓の外を見た。
「週に2回ほどなんですが、どこに行くでもなくぶらぶら歩きまわって帰ってきます。暇つぶしなんでしょう」
「誰がつけている?」
「ノブとヨハンがつけてます。上と下とを交代でやってて。今日はぼくが上の番」
 ダフルは指を上下させて言った。クルーレは眉をひそめて息子をちらりと見て、また目を外に向けた。息子だからという理由なのだろうが、受け答えにいちいちチェックを入れたくなる自分を抑えているようだ。
「つけてるってことは、軍服以外の着るものがある?」
 ケイナはダフルに尋ねた。
「ありますよ。ジャケットとブーツだけですが」
 ダフルは答えた。ケイナがクルーレの顔を見ると彼はうなずいた。
「それを貸して欲しい」
 ケイナが言うと、ダフルはうなずいてすぐに灰色のライダース風のジャケットとブーツを持ってきた。ケイナは帽子を取って手早くそれを身につけた。帽子をとって彼の顔が見えたとき、ダフルともうひとりの兵士が少しびっくりしたような顔になった。軍服を着ているのに、帽子を取った下から全く軍人らしくない顔が出てくるとは思いもしなかったのだろう。
「ノブとヨハンに連絡しろ。ケイナがバッカードとコンタクトをとる。手を出すなと」
 クルーレの言葉にダフルは目を丸くした。
「コンタクトを?」
「姿が見えた。早くしろ」
 クルーレの声にケイナは窓の外に目を向けた。
「あの背の低い男がバッカードだ。いいか、くれぐれも姿を見せるだけにしろ。それ以上はだめだ」
 クルーレの指す方向を確認すると、ケイナはエレベーターに向かって身を翻した。
「あ、待って」
 ダフルが声をあげた。ケイナが振り返ると手元に小さな通信機が放り込まれた。
「マイク、オンにして接触してください。それと、イヤホンは耳の奥に」
 ケイナがうなずくと、ダフルはすぐに手元の通信機に目を向けた。バッカードをつけている者に連絡を入れるのだろう。さっきとはうって変わった真剣な表情だった。
 ケイナがエレベーターに消えたあと、ダフルはクルーレの顔を見た。
「彼、目立ちすぎますよ。いいんですか」
「バッカードにコンタクトすることに関して言えばそのほうがいいだろう」
 クルーレは答えた。
「なぜ、彼がバッカードにコンタクトを?」
「あのバッカードは本人じゃないと言っている」
「まさか」
 ダフルは目を細めた。
「あの馬面、どこをどう見たってバッカードでしょう」
「本人じゃないと分かった時点で確保だ。いいな」
 クルーレの言葉にダフルはうなずいて、その指示を伝えるために通信機に再び目をやった。

 ケイナはビルから出ると道路を横切ってバッカードの自宅のあるビルの前に立った。
 ちょうど人通りはなかったが離れていてもケイナの姿は異様に目立つ。
「あんなどまん前で待つつもりか……?」
 ダフルがつぶやいたが、それはクルーレも同じ気持ちだった。バッカードが本人で大騒ぎをしたら困ったことになる。
 5分ほどしてバッカードは帰って来た。
 彼はビルの入り口に立つケイナの顔を胡散臭そうに一瞥すると、そのままビルの中に入って行こうとした。その姿を見てクルーレは目を細めた。
 ケイナの姿を見ても驚くそぶりもない。彼はケイナの姿を知らない?
 ケイナを呼び戻そうとした途端、彼の耳にケイナの声が聞こえた。
「バッカードさん」
 バッカードは立ち止まってケイナを見上げた。ダフルが父親の顔を見上げたが、クルーレは口を引き結んで何も言わなかった。
 やっぱり声をかけたか。その顔はそう言っていた。
 少し離れた場所でノブとヨハンが立ち話を始めた。煙草を取り出している。
「何かね?」
 バッカードの目が不審そうに細められた。
「前に会っているよね? 画面越しだけど」
「画面越し?」
 バッカードはますます疑わしそうな目になった。
「テレフォンのことかね? わたしにはきみのような知り合いはおらんよ。何かの間違いだろう」
 彼が背を向けてビルに入りかけたので、ケイナはその彼の腕を掴んだ。
 見ていた全員がひやりとした。
「そうかな……。じゃあ、違う人だったのかな」
 バッカードは苛立たしげにケイナの手を振り払った。
「しらじらしい勧誘は好かんのだ。触らんでくれ」
 いまいましそうに歪めた顔をケイナに向けたが、その彼の目がさらに細められた。
 しばらくしてバッカードはため息をついた。
「きみも規約を読んでいないのかね」
 彼は言った。
「どうやって調べたのかは知らんが、直接会うのは違反だと規約にあっただろう」
 小さな子を諭すような口調だった。このリアクションはさすがにケイナも予想していなかったようだ。次の言葉が出ない。
 バッカードは周囲を見回すとビルの陰にケイナを手招きした。ケイナは一瞬戸惑ったような様子を見せたが、ちらりとクルーレのいるビルに目を向けたあと彼の手招きに従った。
「金に困りでもしたのか?」
 ビルの陰でバッカードは言った。
「やっと思い出したよ。ピアスに覚えがある。今日はいつもとは違うやつだな。いつもはほれ……」
 バッカードは人差し指と親指で小さな円を作った。
「こんな小さな輪のやつだ」
 さて、何をどう答えればいいのだろう。ケイナは考えあぐねた。
「あんたと会ったのはもうだいぶん前になる」
 ケイナが言うとバッカードは笑った。
「まだ1ヶ月そこそこじゃないか。きみは割とよく指名をするほうだよ」
 この言葉でやっとわかった。
 ケイナの気持ちがくじけそうになった。目立つ容姿と顔、ピアスのおかげでこれまでどれほど嫌な思いをしてきたかしれない。その苦い思いが蘇る。
「バッカードは男色家なのか? そんな報告は受けてないぞ」
 クルーレは思わずダフルの顔を見た。ダフルは勢いよくかぶりを振った。
「ぼくたちだって知りませんでした」
「週に2、3回、ぶらぶら何をするでもなく歩き回る?」
 クルーレはダフルを睨みつけた。
「何をやっていたんだ」
「歩き回っているのは本当です」
 ダフルは抗議した。もうひとりの兵士もうなずく。
「自宅の中でプロテクトがかかっている通信だと普通の傍受法じゃ無理です。だいたいあのじいさんが……」
「もういい!」
 クルーレがぴしゃりと言ったので、ダフルは口を引き結んで黙り込んだ。
 声をかけてしまった以上今さら後戻りもできない。ケイナの勘どおり本人ではないことを願うばかりだ。
 ビルの陰に隠れてしまったので、こちらからもそばにいるノブとヨハンの視界からも外れてしまった。金髪でピアスをしているだけの少年なら世の中にごまんといるだろう。本当にケイナを知らないのかどうかはまだ分からない。
 知らなかったとしても、彼がバッカードではないという証拠にはならない。
 バッカードも若いわけではない。「忘れてしまう」という可能性がないわけではない。
「バッカードは老眼か?」
 クルーレが尋ねると、ダフルはかぶりを振った。
「老眼ではなく近眼です。矯正はしていないようですが。普段の生活には支障がない程度です」
 おまけに「見えていない」という可能性もある、か?
 クルーレは顔をしかめた。
「ノブ、ヨハン」
 クルーレは通信機に向かって言った。
「気づかれないようにもう少しふたりに近づくんだ。命令があるまでは何があってもそれ以上は動くな」
 父親の顔を見上げて、ダフルは不安そうに目をしばたたせた。
「わたしは名前も伏せていたはずなのに、どうして分かった?」
 バッカードの声が全員の耳に響いた。
 ケイナが黙っていると、バッカードは笑った。
「『管理者』に体を売って聞き出したか?」
 ケイナが無言で俯いたので、バッカードはそれをイエスととったようだ。
「困った子だな。まあ、時々きみみたいな子がいるんだがね」
 時々いたのか……。
 クルーレは顔をしかめて額を押さえた。何ヶ月も見張っていて何をやっていたんだ。
「金なら渡してやってもいいが、何度も来られるのは困るんだ。直接渡すというのも契約違反になる。きみも、ほかに知られるとまずいだろう」
 バッカードは俯いたままのケイナに言った。顔を覗き込もうと彼の指が額に垂れかかった前髪にかかったとき、ケイナは思わず眉をひそめた。できることなら殴り飛ばしてしまいたい。
「あんた、どうしてそんなにお金を持っている?」
 ケイナは言った。俯いていさえすれば不快感でいっぱいの表情も見えないだろうし、声も必然的に小さくなって気弱に聞こえる。
「それはきみに教えることじゃない」
 バッカードは答えた。
「おれはお金目当てじゃないんだけど」
「ほう?」
 俯いたまま言うケイナをバッカードは意外そうに目を丸くして見た。
「そんなことを言う子は初めてだな。お金でなかったらほかに何がある?」
「あんたのこと…… いろいろ知りたいと思って」
 ケイナはさらに顔を俯けて言った。その言葉がどうとられるか分かるだけに吐き気をもよおした。
「なんでそんなに知りたいのかね?」
 バッカードは馬鹿馬鹿しいというように笑った。
「こんなご面相で、こんなじいさんのことなど、金を持っている以外で知りたいことなどないだろう。たまに話し相手をするだけで十分だ」
 ケイナは俯けた顔を少し振った。
「やれやれ、困った坊ちゃんだな」
 バッカードの手が伸びて青い石のピアスにかかったので、その場ですぐに嘔吐してしまいそうになるほど胸が悪くなった。
「心配しなくても普段以上のお金は払うよ。いったいどのくらいいるんだね?」
 小さな子供にするように、髪を撫でさすりながらバッカードはケイナに顔を近づけたが、急に目を丸くして身をのけぞらせた。
「あんたの顔って、昔はもっと違っただろ?」
 ケイナはバッカードの口に銃口を押し込んで言った。彼がバランスを失って倒れかけたので腕を掴んだ。
 クルーレは眉をひそめた。何が起こっているか分からなかった。
「バッカードの口に銃口を突っ込んでます」
 ノブの切迫した声が聞こえてきた。
 ダフルはぎょっとして険しい顔をしている父親の顔を見上げた。
「クルーレ統指揮官、どうしますか」
「待機」
 クルーレは答えた。
 ケイナは撃たない。……撃たないはずだ。保証はないが。
 撃ったらどうする? 銃は置いて行かせるべきだったかもしれない。……いまいましい。今さら何を考えてもあとのまつりだ。
 苦虫を噛み潰したような父親の顔を見つめながら、ダフルは自分の手にじっとりと汗が滲んでいることに気づいて慌てて服で手を拭った。
「わざわざそんな顔にしても十分もとが取れるほどって、いったいどれくらいなんだろ?」
 ケイナはバッカードに顔を近づけた。
「いくらで顔を変えて、バッカードになりすましている?」
 バッカードはうめき声をあげて小さくかぶりを振った。
「本物だったらやばいですよ。リィ社長にどう弁明するんです」
 ダフルが言ったが、クルーレは口を引き結んで無言だった。
 やばいもなにも、もう声をかけた時点でアウトだ。
「あ、そうか。これじゃあ話せないよな」
 ケイナは少し笑うと、バッカードの口からそっと銃口を外した。
「大きな声をあげると撃つよ」
 腕を掴まれているために身をよじることもできず、バッカードはさらにうめき声をあげた。義手の右手で掴んでいるのだからバッカードが逃げられるはずがない。
「もう誤魔化すな。バッカードの顔に変えているんだろ」
 ケイナは言った。恐ろしいほどの青い目で睨みつけられて、バッカードは震えたまま無言だった。
「ぶっ殺してやりたい…… いい年して……」
「脅迫だと証拠にならない……」
 ダフルがケイナの声を聞いてつぶやいた。
「もう一度聞くよ」
 ケイナはバッカードの額に銃口を当てた。
「顔を変えている?」
 バッカードは小さくうなずいた。
「声を出して」
「か、変えている……」
 バッカードは蚊のなくような声で言った。
「もっと大きな声で」
「……か、変えている! 手術をしたのは2年前だ!」
 ケイナは束の間視線を泳がせたあと、腕を掴んだまま銃口を逸らせた。
「誰の指示で?」
「知らん。……ほんとうに知らないんだ。ただ、毎月250万与えるからと言われた」
 バッカードは言った。
「どこで顔を変えた?」
「目隠しをされて連れて行かれた。着いたらすぐ麻酔をかけられて、目が覚めたときにはもうこのアパートだった」
 老人の目に涙が浮かんだ。
「わたしはもうどこにも身寄りがない。昔からろくな暮らしもしてこなかった。この歳になって一度くらいは好きなように暮らしてみたかっただけだ。画面越しにきみみたいな子と話をした。独り暮らしの年寄りが、話をしてもらって何が悪い! きみたちはそれが商売だろう! う…… 撃たれなきゃならないことなんか何もしてない!」
「ばん!」
 ケイナが言ったので、バッカードだけでなく、聞いていた全員がぎょっとした。
「撃てるわけないだろ。中身は空だ」
 吐き捨てるように言ってケイナが腕を放すと、バッカードは地面にしりもちをついた。
「確保」
 クルーレの言葉にノブとヨハンが走ってきてあっという間にバッカードの両腕を掴んだ。いや、正しくはバッカードの顔をした男だった。
 クルーレとダフルが駆けつけたとき、ケイナの姿がなかった。
 どこに行ったのかと顔を巡らせるクルーレにノブが言った。
「吐いてます。あっちで」
 彼はビルの陰を指した。クルーレはため息をついた。