カインの部屋のドアの前で少し立ち止まったあと、ケイナは自分の部屋である次のドアに向かって歩いていった。
 アシュアがケイナの肩をたたいた。
「ひとりで大丈夫か? こっちで一緒に休むか?」
 ケイナはその言葉にかぶりを振った。アシュアはうなずいた。
「じゃあ、ちゃんと、休めよ。考えるのは明日にしよう。いいな?」
 彼はそう言うと気づかわし気な視線を残しながら向かいの部屋にリアと一緒に戻っていった。
 ケイナはアシュアの部屋のドアが閉まるのをぼんやり見つめていた。
 ポケットに入れたままのハルドのブレスレットが熱い。
(ケイナ、躊躇するな)
 あいつはそう言った。
 ハルドさんは記憶がないわけではない。
 セレスに二重に記憶が入っているように、かつての自分にいくつもの人格が存在したように、あいつの中にはハルドさん自身も入っている。
(躊躇するな)
 その言葉が何を意味するのか、ケイナには分かっていた。
「無理だよ……」
 そう小さくつぶやいて、ふと、廊下の端に人の気配を感じて顔をめぐらせた。
 薄くオレンジ色に光るダウンライトの中で、緑色の髪が光った。
「しっ……」
 セレスは人差し指を立てるとケイナに近づいた。
「しゃべらないで。あの子はあなたの声が嫌いみたい。今眠ってるから」
 セレスの顔には笑みが浮かんでいた。いたずらっぽく笑う子供のような表情だ。
 ケイナは呆然として彼女を見つめた。
『グリーン・アイズ』じゃない?
 セレスはケイナに近づくと大きな目で彼の顔を見上げた。
「なんか騒がしくて目が覚めちゃって。会えると思わなかった……」
 セレスは嬉しそうに小さな声で言った。
「ずっと話がしたかったんだ。でも、あの子はカインのほうにばかり行きたがって……。あの子が出てるときって、何にもできないんだ」
 セレスだ……。
 ケイナは呆然とした表情のまま彼女の顔を見つめた。
 セレスはかすかに潤んだ緑色の目でケイナの顔を見つめ、少し首をかしげてその視線を左右の耳に移した。
「赤いピアスじゃないんだね」
 顔の動きに合わせて長い髪が揺れる。光を反射しているところだけが、エメラルド色に見える。
「いつも赤いピアスのことが思い浮かぶ。……でも、その青いピアスも素敵だと思う。きれいな石だね」
 セレスは再びケイナの目を見た。
「目の色に合ってる。ピアス、好きなの?」
 ケイナが戸惑った表情を見せると、セレスは笑った。
「あ、そうか、わたしがしゃべっちゃだめって言ったんだっけ」
 顔を伏せて男の子のような仕草で頭を掻いた。再び緑色の目がこちらを向いたとき、ケイナは彼女から思わず視線をそらせた。
 視線が痛い。
 このまま彼女の顔を見続けていると自分に歯止めが利かないような気がした。
「あなたのことを思い出さなきゃいけないってずっと考えているのに、あなたといったいどんな時間を過ごしたのか…… 分からないんだ」
 セレスは言った。
「覚えてるのは赤いピアスと……」
 彼女はケイナの左手に目を移すと、そっとその手をとった。
「どこかで…… 手を繋いだこと、あったよね?」
 細い指がケイナの中指と人差し指を握った。冷たくなっていた指に彼女の体温が伝わる。
「あなたの腕は右が義手だって聞いた。でも、繋いだ手の記憶は左手なんだ。わたしは右手を出していたから……」
 セレスはそのままケイナの横に並ぶと右手を彼の左手と繋いだ。
「こうやって、歩いた気がするんだ。歩いてるっていうか……」
 セレスは首をかしげた。
「引きずられてるっていうか」
 彼女はそう言って少し笑った。そむけたままのケイナの顔がかすかに歪んだ。
「あなたはとても歩幅が広くて、ついていけなかった。……いつ、繋いでもらったんだろう」
 そう、手を繋いだ。手を握り締めた。
 『ノマド』の森で、『コリュボス』から地球に戻る途中で。
 そのたびに細くて折れそうな感触を手の中に感じた。
 自分の指が軽くまわってしまいそうな華奢な手首がたまらなく愛おしかった。
 セレスは手を繋いだままケイナの前に回りこんだ。
「話ができたらどんなにいいだろう。……でも、本当のわたしはどっちなのかな。今こうやってあなたにしゃべりかけてるわたしは本当にわたしなのかな。……あの子が本体だったら、わたしは消えちゃうんだよね」
(おまえが本体なんだよ)
 ケイナはそう言いかけて言葉を飲み込んだ。
 セレスはケイナの耳を再び覗き込んだ。
「今度は青いピアスで覚えるね……。ずっと覚えていられるといいな」
 手を繋いでいないほうの手をゆっくり持ち上げると、セレスはケイナの顔に垂れかかった前髪を指先でそっとかきあげた。
 ケイナはその手から逃れるように顔を背けた。
 残酷過ぎる。
 これからどんな気持ちでおまえを見て、どんな気持ちであいつと戦えばいい?
 セレスは顔を背けたケイナを見て、慌てて手を引っ込めた。
 彼が嫌がっているのだと思ったようだ。
「ご、ごめん……」
 その声に、必死になって自分を抑えていた糸がぷつりと切れた。
 吐く息すらも白く凍ってしまいそうな冷気の中でセレスを抱きしめたこと、彼女の唇にキスをした記憶が蘇る。
 ケイナは繋いだ左手でセレスの手を握り締めた。
 力のこもった彼の指に、セレスは少しびっくりしたような顔をして視線を繋いだ手に向けたあと、その目をまたケイナの顔に戻した。
 大きな緑色の瞳。
 この目の中に自分が映ることをどれほど待ち望んでいただろう。
 この手の温もりが欲しいとどんなに思ったことだろう。
 触れたいのに触れることができない。
 前よりも辛い。辛くてたまらない。
 ケイナはセレスの手を繋いだままあっという間に彼女を壁際まで押しやっていた。
 どっと壁に背がついた途端、セレスの顔に恐怖の表情が浮かんだが、ケイナにはもうそれに気づくゆとりはなかった。
 緑の瞳に吸い寄せられるように顔を近づけた。
「…… や……!」
 セレスが小さく声を漏らしたが、ケイナはそのまま彼女の首筋に顔を埋めた。
 唇を探し求められて、セレスは顔を背けた。
「いや!」
 義手の右腕だけは出すまいという理性は残っていたのに、知らないうちに華奢な顎を掴んで押さえ込んでいた。痛みと恐怖にセレスの顔が歪んだ。
「……ぃ ……やーーーーっ!!!」
 貫くような叫び声に、ケイナは弾かれたように身を反らせた。
 背後のドアが開くのが感じられた。アシュアとリアだ。セレスの声にびっくりしたのだろう。
 ケイナが繋いでいた手を離すと、セレスは怯えたように目を見開いたまま、ずるずると壁づたいに座り込んでいった。
「どうしたの!?」
 リアが慌ててセレスに駆け寄った。セレスの震える肩を抱いてやりながら、彼女はケイナを見上げ、そしてアシュアの顔を見た。
 何があったのか、察しがついた。
 ケイナはしばらく呆然としていたが、苛立たしげに目をぎゅっとつぶると顔を背けて自分の部屋に足を向けた。
 その背にセレスが震える声で叫んだ。
「あなたなんか…… 大嫌い!」
 ケイナの足が凍りついたように止まった。
「わたしに触らないで!」
 そう言ってケイナを睨みつけるセレスを、リアとアシュアは茫然と見つめた。
 あんなにケイナのことを思っていたセレスの口から出た言葉とは思えなかった。
 『グリーン・アイズ』……。
 ケイナは口を引き結んだ。セレスはリアの手を振りほどいて立ち上がった。
「あなたなんか…… だいっきらい!」
 彼女は体中の力を振り絞るようにしてもう一度そう叫ぶと、くるりと身を翻して廊下を走って行った。
「ケイナ……」
 リアが振り向いたときには、ケイナはもう自分の部屋の中に入ってしまっていた。

 お昼前になってヨクはカインのオフィスに顔を覗かせたがデスクの前にカインはいなかった。
「カインは、まだ?」
 ティのオフィスに行って尋ねると、彼女はうなずいた。
 ケイナが少し離れた場所で書類に目を落としているのがヨクの目に入った。
「起こしていないんです。とてもしのびなくて」
 ヨクがケイナを見ていたので、ティも彼に視線を向けた。
「ケイナは8時にここに来たらしくて……。でも、誰もいなくて時間を持て余してたみたいだから、書類とデータを分けるのを手伝ってもらうことにしたんですけど……」
 ティはヨクの顔をうかがうように見上げた。
「良くないかしら、やっぱり」
「まあ、ケイナがそれでいいって言うなら別にいいけど……」
 ヨクは曖昧に答えた。ケイナ自身は何も反応しない。ヨクが来たことすら気づいていないような表情だ。左手で持ったペンを弄びながら書類を睨みつけている。
「まあ、カインも眠れる分だけ成長しているのかな。緊張が強すぎて眠れないっていうほうが心配だ」
 ヨクは苦笑しながら煙草をポケットから取り出しながら言った。
「ヨク、ごめんなさい、煙草は向こうで吸って欲しいの」
「ああ、失礼」
 彼はティの言葉に慌てて煙草をしまい込んだ。
「クルーレは来た?」
「いえ……。今日はもうお帰りになられたんだと思います」
「セレスは?」
「リアが見てくれています。アシュアはさっきヨクのオフィスに向かいました。待っていると思います」
 ヨクはもう一度ケイナをちらりと見た。やっぱり彼は無反応だ。
「あと1時間くらいしたらカインを起こしてやって。2時の会議は予定通り行いたいから」
 彼はそう言うと出て行った。
 ティは小さなため息をついてケイナに目を向けた。
「コーヒーでも淹れましょうか」
 ケイナは俯いたまま何も言わなかったが、ティは席を立った。
 しばらくして彼女は2人分のカップを持って戻ってきた。
「あなたはもっと休まなくても良かったの?」
 彼の前にカップを置いたが、ケイナはやはり何も言わなかった。置かれたカップに目を向けることもない。
「顔色があんまりよくないわよ」
「12ページが抜けてるよ」
 ケイナは顔をあげずに言った。ティはうなずいてデスクの前に座り、モニターに向き直ってくすりと笑った。
「軍服の人に事務処理を手伝ってもらうのって、あんまりない経験よね」
 彼女の言葉にケイナも少し笑った。
「銃持って、体張ってるだけが軍人じゃないよ」
 ティはケイナを振り向いた。
「クルーレだって半分は机にしがみついてるはずだ」
 彼の言葉にティはさらに笑った。クルーレのあの大きな体がデスクの前にあることを想像すると、少し可笑しかった。そして再び口を開いた。
「ねえ? あなたとクルーレさんは古くからの知り合いなの?」
 ケイナが初めて顔をあげた。彼の視線を真正面から受けてティは慌ててかぶりを振った。
「あ、違うんだったらいいの」
 青い瞳にちょっとどぎまぎした。
「なんだか、ちょっとそういう気がして」
 ケイナは何も言わずに目を逸らせた。
 しばらくふたりとも無言だったが、ケイナがいきなり口を開いた。
「あんた、不思議な人だね」
 ティはびっくりしてケイナを振り向いた。ケイナは書類を見つめたままだった。
「なあに? どういうこと?」
 首をかしげると、ケイナは顔をあげないままかすかに笑った。
「なんでそんなに人のことに首を突っ込みたがるの?」
 ティがきゅっと口を歪めて顔をそらそうとすると、ケイナが紙を突きつけた。
「なに?」
 怪訝な顔をして受け取ってみると、紙にはびっしりと文字が書き込まれていた。
「あんたほうが疲れてるみたいだ」
 ティは連なった文字を見たあと、思わずケイナの顔を見た。
「ミス部分。スペル違いまであるよ」
 ケイナは紙を顎でしゃくって言った。
「あなたって不思議な人ね」
 ティはゆるくかぶりを振った。
「ほんとに18歳?」
 ケイナがむっとして紙を取り上げようとしたので、ティは身を反らせた。
「冗談よ」
 彼女はくすくす笑った。
「そういうところはまだ子供なんだから」
 ケイナがコーヒーのカップを持ったまま立ち上がったので、ティは彼を見上げた。
 カインのオフィスに戻るつもりなのかもしれない。
「ありがとう」
 ティはケイナの後ろ姿に声をかけた。
「手伝ってもらって助かったわ」
 ケイナはちらりと振り返って何も言わずに出て行った。
 その後、ケイナの姿が消えたことに気づいた者は誰もいなかった。
 数時間後、彼の姿がカンパニーのどこにも見えないと分かったとき、ティは自分のオフィスに彼を招きいれたことを後悔した。
 ケイナは、ティがコーヒーを淹れにいったわずか数分の間に彼女のプラニカのキィをデスクから取り、システムにアクセスして彼女自身が車庫から出したように見せかけ、それに乗って消えていた。