オフィスに戻るプラニカの中でセレスは膝の上で両手を握り合わせ、体をこわばらせてずっと俯いていた。
ティは後部座席にいる彼女をちらりと見て、ケイナの横顔にも目を向けた。
来るときと違いケイナは一言も声を出さない。じっと彼を見つめていると、その視線に気づいてケイナが目を向いた。青い石のピアスが髪の中で光る。
(何?)とその目が問い返してきたので、ティは少し笑みを浮かべてなんでもないとかぶりを振った。
ケイナからもセレスからも皮膚がぴりぴりするような緊張感を感じる。
自分はやっぱりとんでもない過ちをしてしまったのかもしれない。
でも、今さらもう後戻りはできない。
押し黙ったままオフィスのあるビルに着き、ティはセレスをカインのオフィスに連れて行った。
部屋の前でケイナが立ち止まったので、ティは彼を振り向いた。
「入らないの?」
そう尋ねると、ケイナは小さくうなずいた。不審に思ったがティはそのままセレスを連れてオフィスのドアを開けた。
カインはいつも通りデスクに向かっていた。ヨクの姿はないようだ。
気配に気づいて彼が顔をあげたとき、セレスの体がかすかにぴくりとした。
カインがモニターに一度視線を向けたあと、立ち上がってソファを指し示したので、ティはセレスを促した。しかしソファには近づいたものの、セレスは座ろうとはしなかった。
「座って?」
呆然としたように立ち尽くして自分を見つめるセレスをカインは見上げた。
「体調はどう?」
セレスは無言のままだ。カインはティに目を向けた。
「セレス? 座って?」
ティが声をかけたが、やはりセレスは動かなかった。カインは自分を見つめ続けるセレスに困惑した。
「どうしたの? 気分でも悪い?」
彼女の顔を覗きこんだ途端、彼女の両腕が伸びて肩に回った。しがみつくように抱きついた彼女の体重でカインはどっとソファに背をつけ、ティがびっくりして目を丸くした。
「やっと会えた……」
慈しむようにカインの肩に頬をすり寄せてセレスはつぶやいた。
「これがカイン……」
セーターの上からでも彼女の体の細さが伝わる。カインは思わずティを見たが、彼女はただ呆然としているばかりだ。
「セレス……」
カインは言った。
「大丈夫だから、ちょっと離れよう。な? 苦しいよ」
「カインと一緒にいたい」
セレスは言った。
「ずっと一緒にいたい……」
その声の異様さに一瞬総毛立った。
「セレス」
カインは思い切って彼女の腕を掴むと、強引に引き離した。膝をついたまま自分を見上げるセレスの顔をカインは見た。ガラスのような透明感を持った大きな目に吸い込まれそうになる。
「きみの部屋は用意してあるからね。必要なものがあればティに言いなさい。でも基本の生活は自分でするんだよ。もうできるね?」
カインはセレスの腕を掴んだまま、子供に言い聞かせるような口調で言った。
セレスはこくんとうなずいた。
「カインのそばにいていい?」
彼女は懇願するように尋ねたが、カインは首を振った。
「ぼくは仕事をしなくちゃならないから」
「じゃあ、いつなら一緒にいられるの?」
息を吐いてティを見上げた。彼女も困惑しているようだ。
「仕事が終わったらね」
カインは答えた。そしてすぐに付け加えた。
「でも、時間の約束はできないよ」
セレスの目が自分の額から鼻、両目、頬から顎に向かって流れていくのをカインは感じた。またあの視線だ。記憶に刻み込むようにして眺める視線。
それでも彼女が納得したようなので、カインはそっと彼女の腕から手を離した。
「部屋に行って休みなさい」
「キスしていい?」
その言葉にカインとティは同時に顔をこわばらせた。
「『ノマド』のキス…… してもいい?」
セレスはおずおずと言った。カインは少し安堵したが、かぶりを振った。
「ごめんよ、セレス。ここは『ノマド』じゃないし、ぼくらにはそういう習慣がないんだ」
リアのキスは許していたのに。
ティはカインの顔を見て思ったが、彼の気持ちも分かるような気がした。
何かを許せば彼女はどんどんエスカレートしていくかもしれない。
カインはきっとそれを危惧したのだろう。
(セレスが来ると…… あんたは嫌な思いをするかもしれない)
ケイナの言っていた意味がやっと分かった。
記憶のないセレスはカインに傾倒しているのだ。それを知っているからケイナはオフィスに入って来なかった。
「セレス……。お部屋に行きましょうか」
そう声をかけると、セレスは少し寂しそうな表情を浮かべたが、小さくうなずいて立ち上がった。
その夜、カインはかなり遅くまでオフィスで仕事をしていた。
「いい加減、戻って休めよ」
ヨクがそう言ってオフィスを出て行ったのが2時間前だっただろうか。
ティも帰ったはずだ。オフィスにはケイナとカインだけになった。
ようやくモニターから目を離して時計を見ると午後11時30分だった。
「ケイナ、部屋に戻って休むといいよ」
カインが声をかけたが、ケイナは本を読んだまま返事をしなかった。
「ぼくは今日、オフィスに泊まるから」
部屋に戻った途端に、セレスの訪問を受けそうな予感がする。
怖くて帰ることができなかった。
「ずっとここに寝泊りするわけにはいかないだろ……」
しばらくしてケイナがつぶやいた。
「そりゃそうだけど……」
カインはデスクから立ち上がり、伸びをした。
「アシュアから、連絡なかったな……」
独り言のようなケイナの言葉にカインはうなずいた。
「そうだな……。夕方コミュニティに繋いでみたけど、だめだった。ぼくからの通信は閉じられているみたいだ。アシュアの通信機はいわずもがな」
ケイナは無言だった。
「ぼくはアシュアを信じてるよ」
カインはソファに近づくと、ケイナの隣に腰をおろした。
「『ノマド』が黒なら、アシュアはきっと苦しんでるだろう。彼はどっちの味方につくこともできない。もし仮に彼が『ノマド』の側につくことになっても、それはそれでいいと思ってる。そういう運命なんだ」
ケイナは黙ってカインの言葉を聞いていた。
「でも、どっちにしてもあいつの性分からして、このまま音沙汰なしってことはない。必ずどうするのか連絡してくるはずだ」
「今日、おれの部屋で寝る?」
ケイナがいきなり言ったので、カインは目を丸くして彼の顔を見た。
「セレスはおれのことを怖がってる。こっちなら絶対来ない」
ケイナはかすかに笑った。
「社長サンにベッドを譲るよ。」
カインは思わず苦笑した。
「そうだな。そうさせてもらおうかな。さすがに疲れた」
「おれよりおやじだし?」
「うるさいよ」
カインはケイナの頬を軽くたたくと立ち上がった。
オフィスを出て自分の部屋に来たとき、カインはふと立ち止まった。
「部屋に入る通信をそっちに転送するようにしてくる。ちょっと待ってて」
ケイナはうなずくと、ドアの中に入っていくカインを見送った。
カインは明かりをつけて、まっすぐに自分のデスクに向かった。
モニターを見てキィを叩き、操作は15秒ほどで終わったが、ふと目をあげた。
小さな赤い色が視界をよぎったような気がしたからだ。
次の瞬間、カインは身を伏せていた。
大きな音とともにモニターが吹き飛んだ。
けたたましい警報の音がして壁のガラスが自動で曇り、ケイナが慌てて部屋に飛び込んできた。
「怪我は」
顔を覗きこむケイナにカインはかぶりを振った。
「ない」
少し声がうわずった。
「と、思う……」
「血がついてるよ」
ケイナはカインの左のこめかみを指差してガラスの壁を見た。
「ガラス、そのままだったのかよ……」
今はもう曇って外は見えないが、小さな点が空いているのが見えた。
このビルの正面は何があっただろう。
防弾のガラスを打ち破るほどの距離はどのくらいなのか。貫通する銃はどれくらいなのか……。
カインが手の甲で顔を拭っていると、ヨクとティが血相を変えて飛び込んできた。
「ヨク、カートの警備を上に呼んで」
ケイナは言った。踵を返そうとする彼の腕をカインは慌てて掴んだ。
「どこに行くつもりだ!」
「今度は逃がさない」
ケイナは答えた。
「もういるはずがないだろう! それに場所も分からない」
「いる」
カインの言葉にケイナはきっぱりと答えた。
「遊びで外したことくらい分かるだろ」
カインは口を引き結んだ。
視界をよぎった赤い点。
そうだ。あいつはわざわざ狙いを外しやがった。
ケイナはカインの手をふりほどくと出ていった。
廊下を走りながら通信機を接続した。
「アシュア、出ろ……」
祈るような気持ちでアシュアの通信機を呼び出した。
アシュアがもし『ノマド』のコミュニティの中にいたら繋がらない。
コール音を聞きながらケイナはビルを飛び出した。
「アシュア! 頼むから出ろよ!」
ケイナは叫んだ。
小さな音がケイナの耳に響いた。
ティは後部座席にいる彼女をちらりと見て、ケイナの横顔にも目を向けた。
来るときと違いケイナは一言も声を出さない。じっと彼を見つめていると、その視線に気づいてケイナが目を向いた。青い石のピアスが髪の中で光る。
(何?)とその目が問い返してきたので、ティは少し笑みを浮かべてなんでもないとかぶりを振った。
ケイナからもセレスからも皮膚がぴりぴりするような緊張感を感じる。
自分はやっぱりとんでもない過ちをしてしまったのかもしれない。
でも、今さらもう後戻りはできない。
押し黙ったままオフィスのあるビルに着き、ティはセレスをカインのオフィスに連れて行った。
部屋の前でケイナが立ち止まったので、ティは彼を振り向いた。
「入らないの?」
そう尋ねると、ケイナは小さくうなずいた。不審に思ったがティはそのままセレスを連れてオフィスのドアを開けた。
カインはいつも通りデスクに向かっていた。ヨクの姿はないようだ。
気配に気づいて彼が顔をあげたとき、セレスの体がかすかにぴくりとした。
カインがモニターに一度視線を向けたあと、立ち上がってソファを指し示したので、ティはセレスを促した。しかしソファには近づいたものの、セレスは座ろうとはしなかった。
「座って?」
呆然としたように立ち尽くして自分を見つめるセレスをカインは見上げた。
「体調はどう?」
セレスは無言のままだ。カインはティに目を向けた。
「セレス? 座って?」
ティが声をかけたが、やはりセレスは動かなかった。カインは自分を見つめ続けるセレスに困惑した。
「どうしたの? 気分でも悪い?」
彼女の顔を覗きこんだ途端、彼女の両腕が伸びて肩に回った。しがみつくように抱きついた彼女の体重でカインはどっとソファに背をつけ、ティがびっくりして目を丸くした。
「やっと会えた……」
慈しむようにカインの肩に頬をすり寄せてセレスはつぶやいた。
「これがカイン……」
セーターの上からでも彼女の体の細さが伝わる。カインは思わずティを見たが、彼女はただ呆然としているばかりだ。
「セレス……」
カインは言った。
「大丈夫だから、ちょっと離れよう。な? 苦しいよ」
「カインと一緒にいたい」
セレスは言った。
「ずっと一緒にいたい……」
その声の異様さに一瞬総毛立った。
「セレス」
カインは思い切って彼女の腕を掴むと、強引に引き離した。膝をついたまま自分を見上げるセレスの顔をカインは見た。ガラスのような透明感を持った大きな目に吸い込まれそうになる。
「きみの部屋は用意してあるからね。必要なものがあればティに言いなさい。でも基本の生活は自分でするんだよ。もうできるね?」
カインはセレスの腕を掴んだまま、子供に言い聞かせるような口調で言った。
セレスはこくんとうなずいた。
「カインのそばにいていい?」
彼女は懇願するように尋ねたが、カインは首を振った。
「ぼくは仕事をしなくちゃならないから」
「じゃあ、いつなら一緒にいられるの?」
息を吐いてティを見上げた。彼女も困惑しているようだ。
「仕事が終わったらね」
カインは答えた。そしてすぐに付け加えた。
「でも、時間の約束はできないよ」
セレスの目が自分の額から鼻、両目、頬から顎に向かって流れていくのをカインは感じた。またあの視線だ。記憶に刻み込むようにして眺める視線。
それでも彼女が納得したようなので、カインはそっと彼女の腕から手を離した。
「部屋に行って休みなさい」
「キスしていい?」
その言葉にカインとティは同時に顔をこわばらせた。
「『ノマド』のキス…… してもいい?」
セレスはおずおずと言った。カインは少し安堵したが、かぶりを振った。
「ごめんよ、セレス。ここは『ノマド』じゃないし、ぼくらにはそういう習慣がないんだ」
リアのキスは許していたのに。
ティはカインの顔を見て思ったが、彼の気持ちも分かるような気がした。
何かを許せば彼女はどんどんエスカレートしていくかもしれない。
カインはきっとそれを危惧したのだろう。
(セレスが来ると…… あんたは嫌な思いをするかもしれない)
ケイナの言っていた意味がやっと分かった。
記憶のないセレスはカインに傾倒しているのだ。それを知っているからケイナはオフィスに入って来なかった。
「セレス……。お部屋に行きましょうか」
そう声をかけると、セレスは少し寂しそうな表情を浮かべたが、小さくうなずいて立ち上がった。
その夜、カインはかなり遅くまでオフィスで仕事をしていた。
「いい加減、戻って休めよ」
ヨクがそう言ってオフィスを出て行ったのが2時間前だっただろうか。
ティも帰ったはずだ。オフィスにはケイナとカインだけになった。
ようやくモニターから目を離して時計を見ると午後11時30分だった。
「ケイナ、部屋に戻って休むといいよ」
カインが声をかけたが、ケイナは本を読んだまま返事をしなかった。
「ぼくは今日、オフィスに泊まるから」
部屋に戻った途端に、セレスの訪問を受けそうな予感がする。
怖くて帰ることができなかった。
「ずっとここに寝泊りするわけにはいかないだろ……」
しばらくしてケイナがつぶやいた。
「そりゃそうだけど……」
カインはデスクから立ち上がり、伸びをした。
「アシュアから、連絡なかったな……」
独り言のようなケイナの言葉にカインはうなずいた。
「そうだな……。夕方コミュニティに繋いでみたけど、だめだった。ぼくからの通信は閉じられているみたいだ。アシュアの通信機はいわずもがな」
ケイナは無言だった。
「ぼくはアシュアを信じてるよ」
カインはソファに近づくと、ケイナの隣に腰をおろした。
「『ノマド』が黒なら、アシュアはきっと苦しんでるだろう。彼はどっちの味方につくこともできない。もし仮に彼が『ノマド』の側につくことになっても、それはそれでいいと思ってる。そういう運命なんだ」
ケイナは黙ってカインの言葉を聞いていた。
「でも、どっちにしてもあいつの性分からして、このまま音沙汰なしってことはない。必ずどうするのか連絡してくるはずだ」
「今日、おれの部屋で寝る?」
ケイナがいきなり言ったので、カインは目を丸くして彼の顔を見た。
「セレスはおれのことを怖がってる。こっちなら絶対来ない」
ケイナはかすかに笑った。
「社長サンにベッドを譲るよ。」
カインは思わず苦笑した。
「そうだな。そうさせてもらおうかな。さすがに疲れた」
「おれよりおやじだし?」
「うるさいよ」
カインはケイナの頬を軽くたたくと立ち上がった。
オフィスを出て自分の部屋に来たとき、カインはふと立ち止まった。
「部屋に入る通信をそっちに転送するようにしてくる。ちょっと待ってて」
ケイナはうなずくと、ドアの中に入っていくカインを見送った。
カインは明かりをつけて、まっすぐに自分のデスクに向かった。
モニターを見てキィを叩き、操作は15秒ほどで終わったが、ふと目をあげた。
小さな赤い色が視界をよぎったような気がしたからだ。
次の瞬間、カインは身を伏せていた。
大きな音とともにモニターが吹き飛んだ。
けたたましい警報の音がして壁のガラスが自動で曇り、ケイナが慌てて部屋に飛び込んできた。
「怪我は」
顔を覗きこむケイナにカインはかぶりを振った。
「ない」
少し声がうわずった。
「と、思う……」
「血がついてるよ」
ケイナはカインの左のこめかみを指差してガラスの壁を見た。
「ガラス、そのままだったのかよ……」
今はもう曇って外は見えないが、小さな点が空いているのが見えた。
このビルの正面は何があっただろう。
防弾のガラスを打ち破るほどの距離はどのくらいなのか。貫通する銃はどれくらいなのか……。
カインが手の甲で顔を拭っていると、ヨクとティが血相を変えて飛び込んできた。
「ヨク、カートの警備を上に呼んで」
ケイナは言った。踵を返そうとする彼の腕をカインは慌てて掴んだ。
「どこに行くつもりだ!」
「今度は逃がさない」
ケイナは答えた。
「もういるはずがないだろう! それに場所も分からない」
「いる」
カインの言葉にケイナはきっぱりと答えた。
「遊びで外したことくらい分かるだろ」
カインは口を引き結んだ。
視界をよぎった赤い点。
そうだ。あいつはわざわざ狙いを外しやがった。
ケイナはカインの手をふりほどくと出ていった。
廊下を走りながら通信機を接続した。
「アシュア、出ろ……」
祈るような気持ちでアシュアの通信機を呼び出した。
アシュアがもし『ノマド』のコミュニティの中にいたら繋がらない。
コール音を聞きながらケイナはビルを飛び出した。
「アシュア! 頼むから出ろよ!」
ケイナは叫んだ。
小さな音がケイナの耳に響いた。