「セキュリティは2時間後に作動し始める。10秒ほど全社のコンピューターが停止するが、それはしかたがないな。『ホライズン』の研究棟、治療棟に影響が出ないぎりぎりの時間だ」
 ヨクが書類をめくりながら言った。カインはうなずいてケイナに目を向けた。
 頬杖をついて、考え込むような表情でソファに座っている。朝からずっとこのポーズだ。
「ウォーター・ガイド社から連絡があった。先だっての昼食会をこっちの都合でキャンセルしたからお詫びがしたいと。明後日、社長も一緒にどうかと言ってきてる」
 ヨクは書類をデスクの上に置きながら、カインの顔を覗きこんだ。
 明後日には何かあっただろうか。ティを呼び出そうとすると彼女が部屋に入ってきたので、カインは手を止めた。
「昨日の報告書です。あさってまでに決済が欲しいと。それと……」
 ティは言いよどんだ。
「ドアーズ博士が連絡が欲しいとおっしゃってます」
 カインは顔をしかめるとこめかみを押さえた。セレスのことを忘れていた。
「アシュアから連絡は?」
 ヨクが尋ねたので、カインは首を振った。
「まだ、ない」
 もう、完全にパンクだ。手が回らない。
「セレスの様子はどんな感じなんだ?」
 ヨクの言葉にカインは息を吐いた。
「たぶん、日常生活は大丈夫なんだろうと思う。リアがいないから不安なんだろう」
「アシュアたちはいつ戻ってくるか分からないんだ。いっそ退院させたらどうだ」
「えっ……」
 ヨクの言葉にカインは思わず声をあげた。ケイナもこちらを振り向いた。
「おれとティのいるフロアはまだ部屋がある。『ホライズン』にいるよりは、近いところで様子を見ることができるじゃないか」
「それは……」
 ケイナに目を向けると、彼は戸惑ったように視線を逸らせた。
 今、この状況でセレスを退院させるのがいいことなのか悪いことなのか、カインには判断がつかなかった。新たな問題を起こしそうな気もする。かといって、いつ戻るか分からないリアを待ってセレスを放置しておくわけにもいかない。
「日常生活に支障がないんなら、少し早いのかもしれんが自立を促すという意味でこっちで引き取ってもいいんじゃないか?」
 畳みかけるヨクにカインはやはり即答できなかった。
「わたしがセレスを見るわ、カインさん」
 ティが口を挟んだ。カインは思わず彼女の顔を見上げた。
「わたしの隣の部屋は空いています。同じビル内ならいつでも行けるし、逆に安心なんじゃない?」
「でも、迎えに行く人間がいない」
 カインがかぶりを振ると、ティはかすかに笑みを浮かべた。
「わたしとケイナで行くわ。ドアーズ博士に話して。わたし、今から部屋の用意をしてくるから」
 ケイナがうんざりしたような顔をして足を前に投げ出し、ソファの上で身をのけぞらせた。
 『グリーン・アイズ』がそばに来る。それはケイナにとっても大きな不安だ。
「ケイナ」
 カインが声をかけると、ケイナはこちらに目を向けた。
「もう、どうしようもないよ」
 ケイナは目を逸らせたが、渋々うなずいた。
「ドアーズ博士に連絡をとる」
 カインはヨクとティを見て言った。ティはうなずいて部屋を出て行った。

 ティはケイナにプラニカの運転席を譲った。
「1週間後に、免許証が来るから」
 ティが隣の席で言ったので、ケイナは思わず彼女の顔を見た。
 ティはいたずらっぽく笑った。
「こういうことができるのよ、カンパニーなら。でも、1週間は安全運転してね。つかまると無免許よ」
 ケイナはかすかにうなずくとプラニカを出した。
「昨日の今日なのに、外出できるんだ?」
 ケイナが言ったので、ティは肩をすくめた。
「しっかりしろって言ったのは、あなたよ。それに、あなたが一緒なら大丈夫。絶対に」
 ケイナは何も言わなかった。しばらくしてまた彼は口を開いた。
「セレスが来ると…… あんたは嫌な思いをするかもしれない」
 自分からは滅多に口を開かないケイナが何度も話しかけるのはめずらしかった。ティは不思議そうに彼の横顔を見た。
「どうして?」
 ケイナは口を引き結んだ。言葉を探しているような感じだ。
 そうか……。この子は人としゃべるのが苦手なんだ。
 ティはふと思った。
 無愛想だと思ったのはこれが原因だったのかもしれない。
 彼にとって相手の気持ちを推し量りながら言葉を選んで話すことは相当の苦労なのかもしれない。だから聞かれたことにそのままの言葉を返す。議論をふっかければ論破しようとする。返す言葉によっては言い争いになるかもしれなくても、それしかできない。
 そんな自分を彼自身も少なからず自分で悟っているのだろう。だから口を開かない。
「カインを信じてやってよ」
 ケイナの言葉にティは小首をかしげた。どういうことだろう。カインを信じることとセレスが来ることがどう繋がるのか、彼女は分からなかった。
「カインは…… その…… あんたのことが好きだから」
 ティは思わず顔を赤らめた。
「変なこと言うのね。でも、あなたはセレスがそばに来てくれたら嬉しいでしょう?」
 問いかけるとケイナはかすかに険しい表情を浮かべた。
「嬉しくないの?」
「……分からない」
 ケイナは答えた。
 分からない、というのは、その言葉通りなのだろう。気持ちがうまく整理できないのだろうし、そのことをまた言葉で表現することも彼は苦手なのだろう。
「ケイナ……」
 ティは彼に声をかけた。
「いろいろ無理に話そうとしなくていいわよ」
 ケイナが目だけをちらりとティに向けた。
「ありがとう、ケイナ。わたしはあなたを信頼してる。一緒に頑張ろうね」
 ケイナは何も答えなかったが、束の間、彼の目が何度も瞬きを繰り返すのをティは見た。
 本当は脆く壊れやすい。
 整った顔に美しい肢体、並外れた戦闘力と知性。
 でも、覆いつくされた鎧の下にある彼はとても危うく脆いのかもしれない。
 何年も眠りにつき、目覚めたときには世界が変わっていた。
 自分の友人たちは自分の年齢を遥かに超え、好きだった人は記憶を失っている。
 普通に考えて、彼が何のストレスもなしにいたはずがないのだ。
 ごめんね、ケイナ。わたしはあなたの気持ちを分かろうとしてあげていなかった。
 あなた自身を理解しようともしていなかった。もっと早く分かってあげればよかったね……。
 彼女は心の中でつぶやいた。

 『ホライズン』ではドアーズがセレスの部屋で待っていた。
「詳細はご子息にお知らせをしておきましたが、月に2回ほどは診察を受けさせてください」
 彼は言った。
「それと、これは1日1回、朝食後に服用を」
 ティはドアーズが差し出した薬の袋を受け取った。たくさんの錠剤が詰め込まれている。
「ごく軽い精神安定剤です。環境が変わりますから、念のため」
 ドアーズの言葉にティはうなずいた。
 セレスに目を向けると、彼女は不安そうな顔をしてベッドの端に腰をかけていた。
 白いざっくりしたセーターに細身のパンツとブーツを履いている。たぶんリアが見立てたものなのだろう。
「セレス」
 近づいてティが声をかけると、セレスは少し怯えたような顔を彼女に向けた。ティは笑みを浮かべてセレスの顔を覗き込んだ。
「こんにちは。ティ・レンといいます。リィ社長の秘書です」
「リィ社長……?」
 セレスはまじまじとティの顔を見た。
「カインさんのことよ」
「カインに会えるの?」
 セレスの目が大きく見開かれた。子供のようにあどけない表情だ。
「ええ、もちろん」
 後ろに立っていたケイナがかすかに眉をひそめたことをティは知らなかった。
「カインさんのビルと同じ場所にあなたの部屋を用意したわ」
「いつでも会える?」
 ティは首をかしげた。
「そうね……。社長のお仕事の邪魔にならなければ」
「嬉しい」
 セレスはそうつぶやいてにっこりと笑い、膝に置いていた自分の手をぎゅっと握り合わせた。
「荷物はこれだけ?」
 ティは彼女の足元にあった小さなバックを取り上げた。セレスはうなずいた。
「リアが持って来てくれた石とか、入ってる」
「石?」
 ティは怪訝な顔をした。
「きれいなの。だから持って行きたい」
 セレスは答えてティの顔を覗きこむように見た。
「リアは?」
 ティは少し視線を泳がせた。
「ちょっと用事があって『ノマド』に帰ってるの。でも、また戻って来るから」
「そう」
 セレスは特に疑問も感じず受け入れたようだ。
「じゃ、行きましょうか」
 ティがそう言ってセレスの腕に手をかけたとき、いきなりセレスは彼女の手を払いのけた。
 ぱしん、という大きな音に、ティはびっくりしてセレスを見た。
「あ……」
 セレスの目が大きく見開かれた。
「ご、ごめん…… ごめんなさい…… ど、どうしたんだろ……」
 戸惑ったように言うセレスを見て、ケイナの目が細められた。
 セレスの言葉使い。セレスと『グリーン・アイズ』が交互に出てきている?
「気にしないで」
 ティは気をとりなおして笑みを浮かべた。そしてもう一度手を伸ばしたとき、セレスは言った。
「触らないで!」
 険しい口調にティの表情が固くなった。思わずドアーズを振り向くと、彼は肩をすくめた。
「これが今の状態ですよ。感情が万華鏡のようにくるくる変わります。本人も抑制が効かないみたいでしてね。あまり深刻にならず、長い目で見てあげてください」
 ティは戸惑いながらもうなずいた。そして再びセレスの顔を覗きこんだ。
「ごめんね。あなたの好きなようにすればいいから。嫌なことははっきり言っていいのよ」
 セレスは俯いたままだった。ティは今度は手を伸ばさなかった。触られるのが嫌なら手を出さないほうがいいだろう。少し離れてセレスが立ち上がるのを待った。ゆっくりと立ち上がって自分についてくるセレスを確認して、ティはケイナに目で合図を送った。
「手に余ることがあればいつでもご連絡を」
 ドアーズがティに小さな声で言った。
「暴れたり騒いだりということはありませんから、そっとしておくのが一番ですよ」
 ティはうなずいた。
 リアがべったりと貼りついてセレスを見ていた理由が身に沁みた。この子の面倒を見るのはかなり大変かもしれない。自分で対処できるのだろうか。不安が押し寄せる。
 だからセレスが後ろからいきなり自分の腕を掴んだときはぎょっとした。
「レンさん」
 セレスはティを見上げて言った。すがりつくような目だった。ティは思わず前を歩くケイナの顔を見たが、振り向いた彼の表情からは何も読み取ることができなかった。
「ティでいいわ」
 ティはこわばった笑みを浮かべてセレスを見た。
「どうしたの?」
「ごめんなさい。変なやつだって思わないで。自分でもどうしてなのか分からないんだ」
 吸い込まれそうなほど、大きな緑色の目だった。
 ティは目を細めた。セレスの声の調子がさっきと違うことに気づいたようだ。
「気にしなくていいのよ」
 そう答えて、ゆっくりと歩き出しながらセレスに笑いかけた。
「なんにも心配しなくていいの。何か不安なことがあったら必ず助けてあげるから」
「あなたにどんなこと言ってもそれは違うから。それ、わたしじゃな……」
 言いかけるセレスの体が何かにつまづいて前にぐらりと傾いた。ケイナが慌てて手を伸ばしてセレスの腕を掴んだ。
「ご、ごめ……」
 そう言いながら顔をあげるセレスの顔がこわばった。彼女は自分の腕を掴むケイナの手を見て、そしてその視線をゆっくりとケイナに向けた。セレスの視線が自分の視線と合ったとき、ケイナの眉がひそめられた。セレスは目をケイナの耳に向けた。
「赤い…… ピアス……」
 セレスは小さな声でつぶやいた。ティは何が起こっているのか分からず、ケイナとセレスを交互に見つめた。
 ケイナは口を開きかけて、思い直すようにぎゅっと唇を噛んだ。何も言わずセレスから手を離した。
「大丈夫?」
 ティはセレスに声をかけた。セレスははっとしたような顔でうなずいた。
「行きましょ」
 そう促すとセレスは再び歩き始めた。