帰りはケイナが運転するしかなかった。
ティはショックでがくがくと体中を震わせて、とてもハンドルが握ることができなかったからだ。
ケイナがオフィスに連絡を入れているのは分かったが、何を話しているのかは聞き取ることができなかった。
「ティ」
ケイナが声をかけた。その声もどこか遠くで聞こえているようだった。
たまらなく怖い。自分の腕を掴む手の感触と、目の前でその腕が切られていく記憶が何度も何度も蘇る。
「ティ」
再びケイナが呼んだ。ケイナの左手が伸びて自分の手をぎゅっと握るのを感じて、ティはやっと彼の顔を見た。
「もう、大丈夫だから。カインが待ってる」
前を見つめる彼の耳で自分がつけた青いピアスが光っていた。それでも震えはおさまらなかった。
「ティ、あんたがしっかりしていないと、カインが苦しむ」
ケイナは言った。
ティははっとした。そうだ。しっかりしないと……。
ケイナの手に目を移した。力強く温かい手だった。
安心していいから、という思いが流れ込んでくるようだ。
震えがゆっくりと止まっていった。ティはケイナの手をそっと握り返した。それを感じたのか、ケイナはティから手を離した。
「ケイナ…… ありがとう」
ティは言った。ケイナは前を見たまま何も言わなかった。
ビルの駐車場ではすでにカインが待っていた。ヨクとアシュアとともに、護衛の兵士たちも並んでいる。
プラニカが停まるなり、カインはドアを開けてティの腕を掴んだ。
「大丈夫」
彼の力を借りながらプラニカを降りてティは言った。
「大丈夫よ。……ケイナが守ってくれたから」
「どこか打ってるかもしれない。病院に」
ケイナが言ったので、カインはうなずいた。カインに支えられてビルの中に入っていくティのあとをヨクも慌てて追いかけた。
「おまえも手当てがいるんじゃないの」
アシュアがケイナの顔を見て言った。
「かすっただけだ」
ケイナは手の甲で顔をぬぐった。
「あいつか?」
アシュアの問いにケイナはうなずいた。
「逃げ足が速い。ティがいたから追わなかったけど、今度会ったら絶対逃がさない」
ケイナは不機嫌そうに口を引き結んだ。
「アシュア、あれ、やっぱり義手だ。『ノマド』の剣で落とせなかった」
「腕?」
アシュアは目を細めた。ケイナはそれには答えず考え込むように眉をひそめた。
「誰だろう…… 声が……」
ケイナはほんの一瞬だけ聞いた相手の声を思い出していた。
自分の声だけど、そうじゃない。
どこかで聞いたことがあるような声。
しかし誰の声か思い出せなかった。
カインとヨクがオフィスに戻ると、ケイナとアシュアはふたりそろって深刻そうな表情でソファに座っていた。
「ティは? 大丈夫か?」
そう尋ねたのはアシュアだ。
「怪我はないよ」
答えたのはヨクだ。カインはまっすぐに自分のデスクに向かった。仕事が途中だったのだろう。
「リアを呼ぼうか?」
アシュアが気遣わしげに言うと、カインはモニターに目を向けたままかぶりを振った。
「ぼくの部屋で休ませて来たから…… 洋服のまんま横になってるから、それだけ頼む」
「病院に入ってからがくがく震えちまってな。自分では大丈夫と言っていたけど、どうもショックが強そうだっていうんで鎮静剤を投与された。そしたら戻るエレベーターの中でもう立てなくなっちまって」
ヨクがため息まじりにソファに座り、煙草を取り出しながら言った。カインがデスクで髪をかきあげる姿がアシュアの視界の隅に入った。彼も動揺しているのだろう。
「カイン、コーヒー入れるよ。ちょっと休めよ、おまえも。そんなすぐに仕事しなくていいからさ。とりあえず全員無事だったんだし」
ヨクが煙草をくわえたまま立ち上がり、カインに声をかけた。
「うん……」
カインはキィをひとたたきすると立ち上がった。
「ケイナは、怪我はないのか?」
ソファに近づきながらそう尋ねて、カインはおや?という顔をした。
彼の耳のピアスに気づいたようだった。
「ティがプレゼントしたみたいだよ」
アシュアがその視線に気づいて、ケイナの代わりに答えた。
「ティが?」
カインは意外そうにケイナを見た。ケイナはピアスにあまりいい思い出がない。ティがプレゼントしたとしても受け取るというのは意外だった。
「モールで……。つけてくれた」
ケイナは目を伏せて言った。
「そう」
カインは不思議そうにケイナを見つめながら答えた。
「さっさと帰ってくれば良かった……。視線をキャッチするのが遅れたかもしれない」
ケイナは目を伏せたまま言った。
「カイン…… ごめん」
「あいつの気配は相当近づかないと分からないよ」
カインは言った。
「誰もいないフロアでも、あいつの気配は感じることはできなかった。それが人ごみの中で直接襲って来たんだ。ティに怪我がなかったのは、きみだったからできたことだよ」
ケイナは黙って視線を落としたままだった。
ヨクが4人分のコーヒーをマグカップに入れて運んできた。
「誰のカップか知らないけど、まあ、いいよな」
彼はそう言うと、適当にテーブルの上に置いた。
「カイン、ケイナはあいつがやっぱり義手だって言うんだよ」
アシュアはカップをひとつとりあげながら言った。
「『ノマド』の剣の一打で落とせなかったんだと」
カインとヨクが顔を見合わせた。
「剣は『覚える』から、たぶん次は落とすだろう。でも、義手のほうが剣を『覚え』たら無理だ」
ケイナは顔をあげて言った。青い石が小さく光った。
「でも、どっかは生身なんじゃないの?」
ヨクがカップを口に運びながら言った。
「分からない」
ケイナは首を振った。
「生身なのかな…… あいつ……」
そうつぶやいて視線を泳がせた。
「声……」
「声?」
ケイナのつぶやきにカインは目を細めた。
「おれの声なんだけど…… なんか違う」
あいつの声? カインは首をかしげて記憶を探った。
自分を襲ったときも彼は声を出した。
小さな笑い声と「ケイナ」という一言だけだ。
一瞬のことだったので、ケイナと声が一緒だったという記憶しかない。
「声を…… 思い出せたら…… 全部分かるような……」
考え込むケイナをカインは無言で見つめるしかなかった。
ティはふと目を覚ました。
暗い……。ここはどこだろう。
起き上がって周囲を見回した。うっすらとした光の中に見える光景は自分の部屋ではない。
サイドテーブルに置かれた小さな銀色の置き時計には覚えがあった。カインの寝室にあったものだ。時計を持ち上げて時間を見ると、午前3時半だった。
薬が効いて記憶がなくなった時間を覚えていないが、自分はカインの部屋に運ばれてそのまま眠っていたらしい。
胸元に目を落として、自分のものではない部屋着に変えられていたのでびっくりした。そしてそれがリアのためにそろえたものだと思い出してほっとした。きっと彼女が着替えさせてくれたのだろう。着ていた服はベッドの隅にきちんと畳んで置いてあった。
カインはどうしたのだろう。ティはベッドからそっと抜け出した。
寝室から出ると、ぼんやりしたリビングの光の中でソファに横たわっている人の影を見つけた。カインは毛布にくるまって寝息をたてていた。自分がベッドを占領してしまったからだと悟ってティは悲しくなった。
起こしてベッドで寝るよう言ったほうがいいだろうか。それともそのまま寝かせてあげたほうがいいだろうか。
彼の寝顔を眺めながら、額に垂れかかった彼の髪をそっと指先でなでた。
ごめんね、カイン。心の中でつぶやいた。
ふと、小さな音に気づいてティは顔をめぐらせた。コンピューターが作動しているかすかな音が聞こえる。
カインはいつもサブの電源を落とすことはない。それでも音は待機電源で動いているような音ではなかった。何か作業しているくらいの音だ。音として認識されないくらいのかすかなものだったが、部屋が静かなのと、ティ自身が日ごろマシンの前で仕事をしているので、空気の気配で何となく分かった。
カインのデスクから聞こえてくる。
ティは立ちあがると、そっと彼のデスクに近づいた。
モニターは消えている。キィボードも動いていない。
しばらくためらったのち、手を伸ばしてモニターのスイッチを入れてみた。ほんのかすかな音をたてて薄いモニターの画面が開いた。暗い部屋の中でモニターの周辺だけが灯をともしたように明るくなった。
彼女はそれをじっと見つめた。やっぱり何か動いている。カインは座っていないのに。
確認のためにキィを叩いた。
何の操作をしているの?
小さなウィンドウが開いて情報を移動させているゲージが出た。
何の情報?
ティはキィを叩いた。
リィの上層部のスケジュールだ。
それが自分のオフィスのデスクからカインのマシンに送られているのを知るまでに時間はかからなかった。そして、それがまたどこかに送られている。
「カイン!」
ティは思わず叫んだ。カインが弾かれたように飛び起きた。
「なに?」
カインは毛布を放り出すと慌ててデスクに近づいてきた。びっくりして何が起こったのか分からずに戸惑っている表情だ。
「これ、あなたが指示したの?」
髪をかきあげてモニターを覗き込むカインにティは言った。
「わたしのオフィスからあなたのマシンに情報が送られてる。それがまた移動してるわ」
カインは手を伸ばすとキィを叩いた。
「ヨクの部屋だ」
彼はつぶやいた。
「ヨクはこんな時間に仕事はしないわ」
ティの言葉が終わる前に、カインはデスクに置いていた小型の通信機に手を伸ばしていた。
「ケイナ。こっちに来て」
その言葉が終わって2分もたたないうちにケイナは部屋にやってきた。彼も眠っていたのだろう。軍服ではなく白いシャツに黒いラフなズボン姿だった。
「ヨクの部屋に行って」
ケイナはちらりとモニターを覗きこんでうなずいた。それだけで事情が分かったのだろう。
「通信機と銃は持ってる?」
踵を返すケイナの後姿にカインが言うと、ケイナは「持ってる」と短く答えて出て行った。
カインはヨクの部屋を呼び出した。5回ほどのコールでヨクの眠そうな顔が画面に映った。
「なに、どうしたの」
彼はしょぼしょぼした目でこちらを見た。
「ケイナがそっちに行くから入れてやって」
「ケイナが? なんで?」
そう言いながら彼は顔をめぐらせた。ケイナがもう部屋に着いたのだろう。
ヨクが画面の前から姿を消して、すぐにケイナが映った。
「跳び箱してる」
ケイナは言った。
「アシュアの部屋」
「アシュアの?」
カインは眉をひそめ、今度はアシュアの部屋を呼び出した。しかし出ない。
「アシュア…… 何してる」
「緊急のパスワードを」
ティが言ったが、カインは一瞬ためらった。今パスワードを入力するのは良くないかもしれない。緊急パスだと、宿泊用の全室のドアが20秒間開いてしまう。もし何者かが侵入していたら? しかし、ためらっている間にもどんどん情報が流れていく。
しかたなくカインはキィを叩いた。
「ケイナ、開いた」
そう言い終わる前にケイナの姿はモニターから消えていた。
「なにがあった?」
ヨクがこちらを向いたが、カインはそれには答えなかった。
「ストップがかからない。シャットダウンもできない……」
カインは呻いた。
「カイン、もういいよ」
ケイナの姿がモニターに映った。
「ヨク、マシンを全てシャットダウンして」
彼の言葉にヨクの姿がぷつんと消えた。
「アシュアは?」
カインは尋ねた。
「寝てたみたい」
ケイナの返事にカインはため息をついた。
「ここか外に出てた」
ケイナは言った。
「どこ?」
しかしケイナは首を振った。
「分からない。送信先不明」
「アシュアを起こせ」
カインは苛立たしそうに言った。その言葉の途中でアシュアが顔を覗かせた。
「すまん、起きてる」
来客を知らせる音がしたので、カインはロックを解除した。たぶんヨクだ。
予想どおり、彼は寝起きのままの姿で鼻をすすりながら入ってきた。
彼に手招きされて、ティは席を立った。オフィスに下りて、流れた情報の把握をしに行くのだろう。それをちらりと見送って、カインは再びモニターに目を向けた。
「アシュア、自分の部屋のマシンを使っているか?」
カインの言葉にアシュアはかぶりを振った。
「最近使ってないよ。こっちに戻ってきたときに、一回だけ通信に使っただけだ」
「どこに」
「どこにって…… 『ノマド』のコミュニティくらいしかないよ」
「ノマド……」
カインはその言葉を反芻すると、ぎゅっと目を閉じた。
ティはショックでがくがくと体中を震わせて、とてもハンドルが握ることができなかったからだ。
ケイナがオフィスに連絡を入れているのは分かったが、何を話しているのかは聞き取ることができなかった。
「ティ」
ケイナが声をかけた。その声もどこか遠くで聞こえているようだった。
たまらなく怖い。自分の腕を掴む手の感触と、目の前でその腕が切られていく記憶が何度も何度も蘇る。
「ティ」
再びケイナが呼んだ。ケイナの左手が伸びて自分の手をぎゅっと握るのを感じて、ティはやっと彼の顔を見た。
「もう、大丈夫だから。カインが待ってる」
前を見つめる彼の耳で自分がつけた青いピアスが光っていた。それでも震えはおさまらなかった。
「ティ、あんたがしっかりしていないと、カインが苦しむ」
ケイナは言った。
ティははっとした。そうだ。しっかりしないと……。
ケイナの手に目を移した。力強く温かい手だった。
安心していいから、という思いが流れ込んでくるようだ。
震えがゆっくりと止まっていった。ティはケイナの手をそっと握り返した。それを感じたのか、ケイナはティから手を離した。
「ケイナ…… ありがとう」
ティは言った。ケイナは前を見たまま何も言わなかった。
ビルの駐車場ではすでにカインが待っていた。ヨクとアシュアとともに、護衛の兵士たちも並んでいる。
プラニカが停まるなり、カインはドアを開けてティの腕を掴んだ。
「大丈夫」
彼の力を借りながらプラニカを降りてティは言った。
「大丈夫よ。……ケイナが守ってくれたから」
「どこか打ってるかもしれない。病院に」
ケイナが言ったので、カインはうなずいた。カインに支えられてビルの中に入っていくティのあとをヨクも慌てて追いかけた。
「おまえも手当てがいるんじゃないの」
アシュアがケイナの顔を見て言った。
「かすっただけだ」
ケイナは手の甲で顔をぬぐった。
「あいつか?」
アシュアの問いにケイナはうなずいた。
「逃げ足が速い。ティがいたから追わなかったけど、今度会ったら絶対逃がさない」
ケイナは不機嫌そうに口を引き結んだ。
「アシュア、あれ、やっぱり義手だ。『ノマド』の剣で落とせなかった」
「腕?」
アシュアは目を細めた。ケイナはそれには答えず考え込むように眉をひそめた。
「誰だろう…… 声が……」
ケイナはほんの一瞬だけ聞いた相手の声を思い出していた。
自分の声だけど、そうじゃない。
どこかで聞いたことがあるような声。
しかし誰の声か思い出せなかった。
カインとヨクがオフィスに戻ると、ケイナとアシュアはふたりそろって深刻そうな表情でソファに座っていた。
「ティは? 大丈夫か?」
そう尋ねたのはアシュアだ。
「怪我はないよ」
答えたのはヨクだ。カインはまっすぐに自分のデスクに向かった。仕事が途中だったのだろう。
「リアを呼ぼうか?」
アシュアが気遣わしげに言うと、カインはモニターに目を向けたままかぶりを振った。
「ぼくの部屋で休ませて来たから…… 洋服のまんま横になってるから、それだけ頼む」
「病院に入ってからがくがく震えちまってな。自分では大丈夫と言っていたけど、どうもショックが強そうだっていうんで鎮静剤を投与された。そしたら戻るエレベーターの中でもう立てなくなっちまって」
ヨクがため息まじりにソファに座り、煙草を取り出しながら言った。カインがデスクで髪をかきあげる姿がアシュアの視界の隅に入った。彼も動揺しているのだろう。
「カイン、コーヒー入れるよ。ちょっと休めよ、おまえも。そんなすぐに仕事しなくていいからさ。とりあえず全員無事だったんだし」
ヨクが煙草をくわえたまま立ち上がり、カインに声をかけた。
「うん……」
カインはキィをひとたたきすると立ち上がった。
「ケイナは、怪我はないのか?」
ソファに近づきながらそう尋ねて、カインはおや?という顔をした。
彼の耳のピアスに気づいたようだった。
「ティがプレゼントしたみたいだよ」
アシュアがその視線に気づいて、ケイナの代わりに答えた。
「ティが?」
カインは意外そうにケイナを見た。ケイナはピアスにあまりいい思い出がない。ティがプレゼントしたとしても受け取るというのは意外だった。
「モールで……。つけてくれた」
ケイナは目を伏せて言った。
「そう」
カインは不思議そうにケイナを見つめながら答えた。
「さっさと帰ってくれば良かった……。視線をキャッチするのが遅れたかもしれない」
ケイナは目を伏せたまま言った。
「カイン…… ごめん」
「あいつの気配は相当近づかないと分からないよ」
カインは言った。
「誰もいないフロアでも、あいつの気配は感じることはできなかった。それが人ごみの中で直接襲って来たんだ。ティに怪我がなかったのは、きみだったからできたことだよ」
ケイナは黙って視線を落としたままだった。
ヨクが4人分のコーヒーをマグカップに入れて運んできた。
「誰のカップか知らないけど、まあ、いいよな」
彼はそう言うと、適当にテーブルの上に置いた。
「カイン、ケイナはあいつがやっぱり義手だって言うんだよ」
アシュアはカップをひとつとりあげながら言った。
「『ノマド』の剣の一打で落とせなかったんだと」
カインとヨクが顔を見合わせた。
「剣は『覚える』から、たぶん次は落とすだろう。でも、義手のほうが剣を『覚え』たら無理だ」
ケイナは顔をあげて言った。青い石が小さく光った。
「でも、どっかは生身なんじゃないの?」
ヨクがカップを口に運びながら言った。
「分からない」
ケイナは首を振った。
「生身なのかな…… あいつ……」
そうつぶやいて視線を泳がせた。
「声……」
「声?」
ケイナのつぶやきにカインは目を細めた。
「おれの声なんだけど…… なんか違う」
あいつの声? カインは首をかしげて記憶を探った。
自分を襲ったときも彼は声を出した。
小さな笑い声と「ケイナ」という一言だけだ。
一瞬のことだったので、ケイナと声が一緒だったという記憶しかない。
「声を…… 思い出せたら…… 全部分かるような……」
考え込むケイナをカインは無言で見つめるしかなかった。
ティはふと目を覚ました。
暗い……。ここはどこだろう。
起き上がって周囲を見回した。うっすらとした光の中に見える光景は自分の部屋ではない。
サイドテーブルに置かれた小さな銀色の置き時計には覚えがあった。カインの寝室にあったものだ。時計を持ち上げて時間を見ると、午前3時半だった。
薬が効いて記憶がなくなった時間を覚えていないが、自分はカインの部屋に運ばれてそのまま眠っていたらしい。
胸元に目を落として、自分のものではない部屋着に変えられていたのでびっくりした。そしてそれがリアのためにそろえたものだと思い出してほっとした。きっと彼女が着替えさせてくれたのだろう。着ていた服はベッドの隅にきちんと畳んで置いてあった。
カインはどうしたのだろう。ティはベッドからそっと抜け出した。
寝室から出ると、ぼんやりしたリビングの光の中でソファに横たわっている人の影を見つけた。カインは毛布にくるまって寝息をたてていた。自分がベッドを占領してしまったからだと悟ってティは悲しくなった。
起こしてベッドで寝るよう言ったほうがいいだろうか。それともそのまま寝かせてあげたほうがいいだろうか。
彼の寝顔を眺めながら、額に垂れかかった彼の髪をそっと指先でなでた。
ごめんね、カイン。心の中でつぶやいた。
ふと、小さな音に気づいてティは顔をめぐらせた。コンピューターが作動しているかすかな音が聞こえる。
カインはいつもサブの電源を落とすことはない。それでも音は待機電源で動いているような音ではなかった。何か作業しているくらいの音だ。音として認識されないくらいのかすかなものだったが、部屋が静かなのと、ティ自身が日ごろマシンの前で仕事をしているので、空気の気配で何となく分かった。
カインのデスクから聞こえてくる。
ティは立ちあがると、そっと彼のデスクに近づいた。
モニターは消えている。キィボードも動いていない。
しばらくためらったのち、手を伸ばしてモニターのスイッチを入れてみた。ほんのかすかな音をたてて薄いモニターの画面が開いた。暗い部屋の中でモニターの周辺だけが灯をともしたように明るくなった。
彼女はそれをじっと見つめた。やっぱり何か動いている。カインは座っていないのに。
確認のためにキィを叩いた。
何の操作をしているの?
小さなウィンドウが開いて情報を移動させているゲージが出た。
何の情報?
ティはキィを叩いた。
リィの上層部のスケジュールだ。
それが自分のオフィスのデスクからカインのマシンに送られているのを知るまでに時間はかからなかった。そして、それがまたどこかに送られている。
「カイン!」
ティは思わず叫んだ。カインが弾かれたように飛び起きた。
「なに?」
カインは毛布を放り出すと慌ててデスクに近づいてきた。びっくりして何が起こったのか分からずに戸惑っている表情だ。
「これ、あなたが指示したの?」
髪をかきあげてモニターを覗き込むカインにティは言った。
「わたしのオフィスからあなたのマシンに情報が送られてる。それがまた移動してるわ」
カインは手を伸ばすとキィを叩いた。
「ヨクの部屋だ」
彼はつぶやいた。
「ヨクはこんな時間に仕事はしないわ」
ティの言葉が終わる前に、カインはデスクに置いていた小型の通信機に手を伸ばしていた。
「ケイナ。こっちに来て」
その言葉が終わって2分もたたないうちにケイナは部屋にやってきた。彼も眠っていたのだろう。軍服ではなく白いシャツに黒いラフなズボン姿だった。
「ヨクの部屋に行って」
ケイナはちらりとモニターを覗きこんでうなずいた。それだけで事情が分かったのだろう。
「通信機と銃は持ってる?」
踵を返すケイナの後姿にカインが言うと、ケイナは「持ってる」と短く答えて出て行った。
カインはヨクの部屋を呼び出した。5回ほどのコールでヨクの眠そうな顔が画面に映った。
「なに、どうしたの」
彼はしょぼしょぼした目でこちらを見た。
「ケイナがそっちに行くから入れてやって」
「ケイナが? なんで?」
そう言いながら彼は顔をめぐらせた。ケイナがもう部屋に着いたのだろう。
ヨクが画面の前から姿を消して、すぐにケイナが映った。
「跳び箱してる」
ケイナは言った。
「アシュアの部屋」
「アシュアの?」
カインは眉をひそめ、今度はアシュアの部屋を呼び出した。しかし出ない。
「アシュア…… 何してる」
「緊急のパスワードを」
ティが言ったが、カインは一瞬ためらった。今パスワードを入力するのは良くないかもしれない。緊急パスだと、宿泊用の全室のドアが20秒間開いてしまう。もし何者かが侵入していたら? しかし、ためらっている間にもどんどん情報が流れていく。
しかたなくカインはキィを叩いた。
「ケイナ、開いた」
そう言い終わる前にケイナの姿はモニターから消えていた。
「なにがあった?」
ヨクがこちらを向いたが、カインはそれには答えなかった。
「ストップがかからない。シャットダウンもできない……」
カインは呻いた。
「カイン、もういいよ」
ケイナの姿がモニターに映った。
「ヨク、マシンを全てシャットダウンして」
彼の言葉にヨクの姿がぷつんと消えた。
「アシュアは?」
カインは尋ねた。
「寝てたみたい」
ケイナの返事にカインはため息をついた。
「ここか外に出てた」
ケイナは言った。
「どこ?」
しかしケイナは首を振った。
「分からない。送信先不明」
「アシュアを起こせ」
カインは苛立たしそうに言った。その言葉の途中でアシュアが顔を覗かせた。
「すまん、起きてる」
来客を知らせる音がしたので、カインはロックを解除した。たぶんヨクだ。
予想どおり、彼は寝起きのままの姿で鼻をすすりながら入ってきた。
彼に手招きされて、ティは席を立った。オフィスに下りて、流れた情報の把握をしに行くのだろう。それをちらりと見送って、カインは再びモニターに目を向けた。
「アシュア、自分の部屋のマシンを使っているか?」
カインの言葉にアシュアはかぶりを振った。
「最近使ってないよ。こっちに戻ってきたときに、一回だけ通信に使っただけだ」
「どこに」
「どこにって…… 『ノマド』のコミュニティくらいしかないよ」
「ノマド……」
カインはその言葉を反芻すると、ぎゅっと目を閉じた。