オフィスに戻る途中で、出かけようとするティに出くわした。
「出かけるのか? どこへ?」
カインが声をかけるとティは笑みを浮かべた。
「セントラル・バンクです。定例のセキュリティチェックで……」
「ひとりはまずいんじゃないかな……」
そうつぶやいて、ケイナに目を向けた。
「彼女の護衛を…… 頼んでもいいかな」
ためらいがちに言うカインにケイナはうなずいたが、ティは躊躇した。この子は苦手だ。
「30分くらいの距離ですから……」
彼女はそう言ったが、カインはそれを無視した。
「ケイナ、頼むよ」
彼はそう言うとオフィスに戻っていった。ティはケイナを見上げてため息をついた。
「じゃあ、お願いします」
ケイナは黙って彼女を見下ろした。
「プラニカの免許は持ってる?」
駐車場で尋ねると、ケイナは肩をすくめた。
「持ってないけど、運転はできる」
ティはかぶりを振ると運転席に座り、隣の席を指した。
「無免許の18歳の少年に運転させられないわ」
ケイナは黙ってそれに従った。
駐車場を滑り出たが、ケイナが何も話さないので気詰まりだった。
ティは彼の横顔をちらりと見て口を開いた。
「あの……」
青い目が自分のほうに向けられるのを感じた。
「もう、だいぶん前になるんだけど…… ひどいこと言っちゃってごめんなさいね」
ケイナは何も言わなかった。
目を向けると、彼はかすかに首をかしげて考え込むような顔をしていた。
(ケイナはいちいちそんなことを気にしないよ)
カインの言葉を思い出した。
「あ、忘れてるんだったらいいの」
ティは慌てて言った。
「えっと…… 今度…… 今度、ホームパーティを開こうと思ってるんだけど…… 来てくれる?」
急いで変えた話題にもケイナは無言だった。
「前に、カインさんの部屋でやったの。ヨクと一緒に。今度はわたしの部屋でって言ってたの。セレスが退院したらそのときでもいいわ。どうかしら。もちろん、アシュアもリアも一緒に」
相変わらずケイナは何も言わない。運転をしながらティは再びちらりとケイナを見た。
「何か、好きなものってある? わたし、あんまり料理は得意じゃないんだけど、好きなものがあるんなら頑張ってみるわ。ヨクはパンが焼けるし……」
やはり反応がない。ティは口を引き結んだ。やっぱりこの子、扱いづらい。
しばらくしてケイナがぽつりとつぶやいた。
「ホームパーティって…… なに」
「え?」
ティは思わずケイナを見た。
「なにって……」
「あんたの部屋でメシ食うってこと?」
ケイナの視線をもろに受けて、ティは面食らった。
「ええ…… まあ…… てっとり早く言えばそういうことね」
彼女は答えた。
「親しい人と…… 家でパーティってやったことないの?」
ケイナはそれを聞いてくすりと笑った。
「カートでそんなことやるわけない……」
ティは首をかしげた。
「でも、レジー・カート氏はとても社交的な方だったって聞いてるわ」
この人は何も知らない……。ケイナは彼女から目をそらせた。
レジー。できることならまた会いたかった。
目が覚めたら義父はもうこの世にいなかった。自分の友人たちは遥かに自分の年齢を超え、立場も違った。
町並みは変わり、行きかう人のファッションも変わった。そして自分の耳からも赤いピアスが消えた。自分はこの世といったい何で繋がっているんだろう。
ケイナがそっぽを向いてしまったので、ティは次の言葉を見つけることができず、しかたなく黙り込んだ。こんなに無愛想だとどう扱えばいいのか分からない。
とても頭が良さそうな気がしたのに……。18歳の男の子って、こんなものなのかしら。
ケイナと同じような年齢の少年と接したことのないティは困惑した。
あまりいろいろ口を開いて、この間のように変な言い争いになるのも嫌だった。
セントラル・バンクの駐車場にプラニカを停めると、ティはケイナを見た。
「10分くらいで戻るから、ここで待っていてもらってもいいけど……」
「一緒に行くよ。カインに頼まれているし……」
ケイナが降りたので、ティもしかたなくそれに続くとため息をついて彼を見上げた。
「あなたを連れて歩くのは気が進まないわ……」
ケイナは不思議そうに彼女を見た。ティはかぶりを振った。
無愛想で、おまけに自分のことが全然わかってない。
ケイナはクルーレが用意した動きやすい簡略化された軍服を着ていたが、上から下まで黒ずくめで、彼がその格好をすると護衛をしてもらうつもりが逆に目だってしまうのではないかと思えた。無造作に束ねた髪ですら、意図してそういうふうにしているのだと思えてしまう。
案の定、セントラル・バンクのフロアに入ると、一気に自分が周囲の注目を浴びるのがよく分かった。
人の視線がまずケイナに向けられ、それから横にいる自分に注がれる。
どういう関係なのかと詮索しているのがありありと伝わる。
軍服を見れば分かるじゃない。彼はガードをしてくれているのよ。
ティは心の中でつぶやいた。
だから、セキュリティ・オフィスのドアの前に来たとき、彼女は心底ほっとした。ここから先はケイナが入って来ることはできないからだ。
ティは昔から目立つことが苦手だった。猛勉強をして秘書養成の『スクエア』に入り、『リィ・カンパニー』への就職を希望したのは出世欲や自己顕示欲があったからではなく、病気がちな母親にラクをさせてやりたいと思ったからだ。母親の病気の治療にはお金がかかった。
父親は彼女が10歳のときに他界したが、あまり体が丈夫でなかった母が必死になって自分を育ててくれたことをティはよく分かっていた。
ティが志望したとき『リィ・カンパニー』の業績は下落していたが、それでも他の企業に比べれば報酬は良かった。
『リィ・カンパニー』に就職できれば母を『コリュボス』に移住させることもできる。気管支が弱い母にはできるだけいい環境が必要だった。だから、採用が決まったときは嬉しかったが、それが社長づきの秘書の席だと知ったときは戸惑った。
『リィ・カンパニー』の社長が交代して、当時まだ20歳そこそこの息子のカイン・リィが就任して2年目だった。そのカイン・リィの秘書が公募されていることは『スクエア』内でも評判だった。
だが、ティはまさか自分がそこに採用されるとは思っていなかったのだ。秘書の席はほかにもあったはずだ。
あのとき面接をしたのはヨクだ。いろいろ聞かれたが、具体的に何を聞かれてどう答えたのかは無我夢中だったから全く覚えていない。採用通知を受け取ったあと『スクエア』内は大騒ぎだった。羨望と嫉妬の視線を彼女は毎日浴びせられることになった。
「こんな地味でぱっとしない子がどうして」
「おとなしそうな顔して、実は相当のやり手なのかもよ」
「あの子に何の裏の手があるっていうのよ」
「もうすぐ『間違いでした』って通知が来るわよ」
くすくすと笑い、聞こえよがしにささやく声を聞いた。
地味でぱっとしない。そう、それは事実だった。
美人でもない。格別愛嬌のある顔でもない。
小さな手は指が短くて、丸い爪がついている指先は赤ちゃんを彷彿とさせる。
背も高くない。足も長くない。スタイルも良くない……。ティは容姿に関しては常に劣等感まみれだった。
『スクエア』にいる女の子たちは自分よりずっときれいで頭も良かった。
秘書だけでなく医療関係を志望する女の子たちもいたが、とりわけきれいなのはやはり秘書希望の女の子たちだった。自分の美しさや聡明さを自分で分かっているから秘書を目指すのだと思える。
頭ひとつ分は背の高い彼女たちの中に入ると自分は小さな子供のようだった。
辞退しようかと悩んだのも事実だ。いよいよ明日にでも連絡をしようと思っていたとき、前任の秘書のクーシェから呼び出しがあった。
クーシェはもう60歳をとうに超えていたかもしれない。髪は全部真っ白で、穏やかな優しい茶色い目が印象的な女性だった。
こまごまとした引継ぎを伝えたあと、彼女はティの顔を見て笑みを浮かべた。
「いい子が決まって良かった。あなたなら任せられる。お願い、社長をよろしくね」
彼女はティの手を握って言った。ほっとしたような声だった。
「あの……」
クーシェは手を握ったまま、なに? というようにティの顔を見た。ティは目を伏せた。
言えなかった。ここまで引継ぎをして、どうして今さら辞退したいなどと言えるだろう。
「自信がないんでしょ?」
クーシェの言葉にティは思わず彼女の顔を見た。
「最初から自信のある子なんて、いらないのよ」
クーシェは笑って言った。
「どんなに事前に勉強してきたって、実際の仕事のスタートラインはみんな同じ。書類ひとつとっても、人によって指示の仕方は違うわ。誰もが同じものを見て、同じことを言うとは限らないでしょ? 頭でっかちになってて相手を認めず鼻高々になってる秘書なんて、うちには必要ないの」
ティはクーシェの手を見た。皺だらけで荒れていたが、温かくてきれいな手だと思った。この手も昔はもっと張りがあって美しかったはずだ。でも、今のほうがずっときれいかもしれない。
この人は自分と同じようにここに入り、前社長のトウ・リィの時代からずっと40年以上も頑張ってきた人だ。優しそうな目にうっすら涙が滲んでいるのを見たとき、ティはうなずいていた。
「出かけるのか? どこへ?」
カインが声をかけるとティは笑みを浮かべた。
「セントラル・バンクです。定例のセキュリティチェックで……」
「ひとりはまずいんじゃないかな……」
そうつぶやいて、ケイナに目を向けた。
「彼女の護衛を…… 頼んでもいいかな」
ためらいがちに言うカインにケイナはうなずいたが、ティは躊躇した。この子は苦手だ。
「30分くらいの距離ですから……」
彼女はそう言ったが、カインはそれを無視した。
「ケイナ、頼むよ」
彼はそう言うとオフィスに戻っていった。ティはケイナを見上げてため息をついた。
「じゃあ、お願いします」
ケイナは黙って彼女を見下ろした。
「プラニカの免許は持ってる?」
駐車場で尋ねると、ケイナは肩をすくめた。
「持ってないけど、運転はできる」
ティはかぶりを振ると運転席に座り、隣の席を指した。
「無免許の18歳の少年に運転させられないわ」
ケイナは黙ってそれに従った。
駐車場を滑り出たが、ケイナが何も話さないので気詰まりだった。
ティは彼の横顔をちらりと見て口を開いた。
「あの……」
青い目が自分のほうに向けられるのを感じた。
「もう、だいぶん前になるんだけど…… ひどいこと言っちゃってごめんなさいね」
ケイナは何も言わなかった。
目を向けると、彼はかすかに首をかしげて考え込むような顔をしていた。
(ケイナはいちいちそんなことを気にしないよ)
カインの言葉を思い出した。
「あ、忘れてるんだったらいいの」
ティは慌てて言った。
「えっと…… 今度…… 今度、ホームパーティを開こうと思ってるんだけど…… 来てくれる?」
急いで変えた話題にもケイナは無言だった。
「前に、カインさんの部屋でやったの。ヨクと一緒に。今度はわたしの部屋でって言ってたの。セレスが退院したらそのときでもいいわ。どうかしら。もちろん、アシュアもリアも一緒に」
相変わらずケイナは何も言わない。運転をしながらティは再びちらりとケイナを見た。
「何か、好きなものってある? わたし、あんまり料理は得意じゃないんだけど、好きなものがあるんなら頑張ってみるわ。ヨクはパンが焼けるし……」
やはり反応がない。ティは口を引き結んだ。やっぱりこの子、扱いづらい。
しばらくしてケイナがぽつりとつぶやいた。
「ホームパーティって…… なに」
「え?」
ティは思わずケイナを見た。
「なにって……」
「あんたの部屋でメシ食うってこと?」
ケイナの視線をもろに受けて、ティは面食らった。
「ええ…… まあ…… てっとり早く言えばそういうことね」
彼女は答えた。
「親しい人と…… 家でパーティってやったことないの?」
ケイナはそれを聞いてくすりと笑った。
「カートでそんなことやるわけない……」
ティは首をかしげた。
「でも、レジー・カート氏はとても社交的な方だったって聞いてるわ」
この人は何も知らない……。ケイナは彼女から目をそらせた。
レジー。できることならまた会いたかった。
目が覚めたら義父はもうこの世にいなかった。自分の友人たちは遥かに自分の年齢を超え、立場も違った。
町並みは変わり、行きかう人のファッションも変わった。そして自分の耳からも赤いピアスが消えた。自分はこの世といったい何で繋がっているんだろう。
ケイナがそっぽを向いてしまったので、ティは次の言葉を見つけることができず、しかたなく黙り込んだ。こんなに無愛想だとどう扱えばいいのか分からない。
とても頭が良さそうな気がしたのに……。18歳の男の子って、こんなものなのかしら。
ケイナと同じような年齢の少年と接したことのないティは困惑した。
あまりいろいろ口を開いて、この間のように変な言い争いになるのも嫌だった。
セントラル・バンクの駐車場にプラニカを停めると、ティはケイナを見た。
「10分くらいで戻るから、ここで待っていてもらってもいいけど……」
「一緒に行くよ。カインに頼まれているし……」
ケイナが降りたので、ティもしかたなくそれに続くとため息をついて彼を見上げた。
「あなたを連れて歩くのは気が進まないわ……」
ケイナは不思議そうに彼女を見た。ティはかぶりを振った。
無愛想で、おまけに自分のことが全然わかってない。
ケイナはクルーレが用意した動きやすい簡略化された軍服を着ていたが、上から下まで黒ずくめで、彼がその格好をすると護衛をしてもらうつもりが逆に目だってしまうのではないかと思えた。無造作に束ねた髪ですら、意図してそういうふうにしているのだと思えてしまう。
案の定、セントラル・バンクのフロアに入ると、一気に自分が周囲の注目を浴びるのがよく分かった。
人の視線がまずケイナに向けられ、それから横にいる自分に注がれる。
どういう関係なのかと詮索しているのがありありと伝わる。
軍服を見れば分かるじゃない。彼はガードをしてくれているのよ。
ティは心の中でつぶやいた。
だから、セキュリティ・オフィスのドアの前に来たとき、彼女は心底ほっとした。ここから先はケイナが入って来ることはできないからだ。
ティは昔から目立つことが苦手だった。猛勉強をして秘書養成の『スクエア』に入り、『リィ・カンパニー』への就職を希望したのは出世欲や自己顕示欲があったからではなく、病気がちな母親にラクをさせてやりたいと思ったからだ。母親の病気の治療にはお金がかかった。
父親は彼女が10歳のときに他界したが、あまり体が丈夫でなかった母が必死になって自分を育ててくれたことをティはよく分かっていた。
ティが志望したとき『リィ・カンパニー』の業績は下落していたが、それでも他の企業に比べれば報酬は良かった。
『リィ・カンパニー』に就職できれば母を『コリュボス』に移住させることもできる。気管支が弱い母にはできるだけいい環境が必要だった。だから、採用が決まったときは嬉しかったが、それが社長づきの秘書の席だと知ったときは戸惑った。
『リィ・カンパニー』の社長が交代して、当時まだ20歳そこそこの息子のカイン・リィが就任して2年目だった。そのカイン・リィの秘書が公募されていることは『スクエア』内でも評判だった。
だが、ティはまさか自分がそこに採用されるとは思っていなかったのだ。秘書の席はほかにもあったはずだ。
あのとき面接をしたのはヨクだ。いろいろ聞かれたが、具体的に何を聞かれてどう答えたのかは無我夢中だったから全く覚えていない。採用通知を受け取ったあと『スクエア』内は大騒ぎだった。羨望と嫉妬の視線を彼女は毎日浴びせられることになった。
「こんな地味でぱっとしない子がどうして」
「おとなしそうな顔して、実は相当のやり手なのかもよ」
「あの子に何の裏の手があるっていうのよ」
「もうすぐ『間違いでした』って通知が来るわよ」
くすくすと笑い、聞こえよがしにささやく声を聞いた。
地味でぱっとしない。そう、それは事実だった。
美人でもない。格別愛嬌のある顔でもない。
小さな手は指が短くて、丸い爪がついている指先は赤ちゃんを彷彿とさせる。
背も高くない。足も長くない。スタイルも良くない……。ティは容姿に関しては常に劣等感まみれだった。
『スクエア』にいる女の子たちは自分よりずっときれいで頭も良かった。
秘書だけでなく医療関係を志望する女の子たちもいたが、とりわけきれいなのはやはり秘書希望の女の子たちだった。自分の美しさや聡明さを自分で分かっているから秘書を目指すのだと思える。
頭ひとつ分は背の高い彼女たちの中に入ると自分は小さな子供のようだった。
辞退しようかと悩んだのも事実だ。いよいよ明日にでも連絡をしようと思っていたとき、前任の秘書のクーシェから呼び出しがあった。
クーシェはもう60歳をとうに超えていたかもしれない。髪は全部真っ白で、穏やかな優しい茶色い目が印象的な女性だった。
こまごまとした引継ぎを伝えたあと、彼女はティの顔を見て笑みを浮かべた。
「いい子が決まって良かった。あなたなら任せられる。お願い、社長をよろしくね」
彼女はティの手を握って言った。ほっとしたような声だった。
「あの……」
クーシェは手を握ったまま、なに? というようにティの顔を見た。ティは目を伏せた。
言えなかった。ここまで引継ぎをして、どうして今さら辞退したいなどと言えるだろう。
「自信がないんでしょ?」
クーシェの言葉にティは思わず彼女の顔を見た。
「最初から自信のある子なんて、いらないのよ」
クーシェは笑って言った。
「どんなに事前に勉強してきたって、実際の仕事のスタートラインはみんな同じ。書類ひとつとっても、人によって指示の仕方は違うわ。誰もが同じものを見て、同じことを言うとは限らないでしょ? 頭でっかちになってて相手を認めず鼻高々になってる秘書なんて、うちには必要ないの」
ティはクーシェの手を見た。皺だらけで荒れていたが、温かくてきれいな手だと思った。この手も昔はもっと張りがあって美しかったはずだ。でも、今のほうがずっときれいかもしれない。
この人は自分と同じようにここに入り、前社長のトウ・リィの時代からずっと40年以上も頑張ってきた人だ。優しそうな目にうっすら涙が滲んでいるのを見たとき、ティはうなずいていた。