帰りも、カインとケイナは来たときと同じようにむっつりと黙り込んでいた。
 しばらくして運転をしていたカインが口を開いた。
「アシュアに…… 『ノマド』と連絡をとるなと言うのは難しいな……。ブランとダイもいるし……」
「アシュアは鈍いところがあるけど、分からないやつじゃないよ」
 ケイナは答えた。
「きみは、うすうす感づいていたことがあったのか?」
 カインは目を向けないまま言った。
「この間も、途中で言いたくないと言ってそのままだったことがあったね。『ノマド』が何らかの思惑を持っていると気づいていたんだろう?」
 ケイナはちらりとカインを見た。昔のカインはあまりここまで気づくことがなかった。流れていった時間が彼を変えていることをケイナはひしひしと感じた。
「ブランは……」
 ケイナは口を開いた。
「ブランは、夢見を繋ぐパイプで、単なる出口でしかない」
 そう言って窓の外に目をやった。
「ブランは、帰る前の日におれと手を繋いで、初めて『間違えた』ことに気づいたんだ。彼女は『グリーン・アイズ』もセレスのことも知らない。どっちかを選択することもできない。起こすほうを選んだのは、ブランじゃなくて、後ろに繋がってた夢見だ」
「彼らが意識して『グリーン・アイズ』を起こしたと?」
 カインは眉をひそめた。
「いったい何のために」
「分からないよ」
 ケイナは吐き出すように言った。
「確信があるわけじゃないけど、『ノマド』は何か知ってて操作しようとしてる。それがこっちの動きに合うことなのか、そうじゃないのかまで分からない」
「だから、アシュアの前で言いたくないと言ったのか……」
 カインはつぶやいた。そんなことを口に出せばアシュアのことだから早速『ノマド』にせっついてしまうだろう。こちらに有利に働くことなら彼らは教えてくれるだろうが、そうでない場合はアシュアの立場が危うくなる。
「どっちにしても、子供たちがコミュニティにいるんだから連絡をとるなと言うのは難しい。まあ…… 内部の情報はできるだけ『ノマド』にも話さないようにとそれとなく伝えるしかないな」
 カインはため息まじりに言った。
 また沈黙が続いた。
「ケイナ」
 カインに呼ばれて、ケイナは彼に目を向けた。
「セレスはたぶんあと一ヶ月もすれば『ホライズン』を出るんじゃないかと思う。いや、もっと早いかもしれない……。『ノマド』に返すのは…… 無理だな」
 ケイナはうなずいた。
「『グリーン・アイズ』が消えるまでは、あいつ自身が拒否するよ」
「どうしたら本体のセレスになってくれるんだろうな……」
 それはケイナにも分からなかった。
 『ノマド』が操作しているのなら、役目を果たすまでは『グリーン・アイズ』は消えないだろう。
 彼女にはいったい何の役目があるのだろう。
 その答えは見つからなかった。

 1ヶ月は何事もなく過ぎていった。
 サウスエンド医療グループの契約が成立したので、途方もなく忙しくなった。
 ヨクはほとんど外出となり、それに一緒について回るアシュアも多忙を極めた。
 そんな中でかなり暇を持て余していたのがケイナだ。
 カインの仕事が内部作業になっていたので、ひたすらじっと彼のオフィスで時間を潰すしかない。彼はオフィス内の書架の本を片っ端から読んでいたようだが、それもあっという間に底を尽きそうだった。
 髪が伸びたせいか、ケイナには前のように髪をかきあげる癖が出始めた。伸びた金髪を無造作にアシュアのように後ろでひとつにまとめてじっと本を見つめるケイナをちらりと見てカインは思案をめぐらせた。
 彼の立場をなんとかしなくちゃいけない。このままではケイナ自身も辛いだろう。
「ケイナ」
 カインは声をかけた。ケイナは顔をあげた。
「食事しに行こうか。社員用のレストランだけど」
「行ってくれば?」
 ケイナは目を逸らせると再び本に視線を戻した。
「ぼくの護衛なんだろ」
 カインはそう言うと立ち上がった。ケイナはむっとした様子で彼の顔を見たが、音をたてて本を閉じると不機嫌そうに立ち上がった。
「食事に行ってくる」
 ティのオフィスを覗いてそう声をかけると、彼女はびっくりしたような顔を向けた。
「食事に、行くの?」
 彼女はカインの顔をまじまじと見た。
 めずらしい。いつもヨクがかなりせっつかなければ自分から食事をしようとしないカインの口から出た言葉とは思えなかった。
 そして所在なさげに彼の後ろに立つケイナを見て、さらにびっくりした。
 この子を連れて行くつもりなのかしら……。
「あ、待ってください」
 ティはデスクの上を見て書類を掴むと慌てて立ち上がった。
「これだけ、午後2時までに」
 彼女はカインに書類を差し出した。
「食事しながら見るよ」
 カインは答えると、書類を受け取って歩き出した。ふたりの後ろ姿を見送ってティは小首をかしげた。
 いいのかしら、あの子を連れて食事なんて。
「大騒ぎになるわよ」
 彼女はそうつぶやくと、肩をすくめてオフィスに戻っていった。

 まだ時間が早いせいもあって、レストランの中は空いていた。
 ふたりは隅の席に座ったが、カインが書類に目を落としてしまったので会話もない。ケイナは退屈そうに窓の外を眺めながら皿をつついた。
「うーん……」
 カインが声を漏らした。
「変だな…… なんでこんな結果になるんだ……」
 ケイナは彼がテーブルの上に置いた書類の束のひとつをとりあげた。やたらと数字が並んでいる。カインは毎日こんなものを眺めて暮らしているのか。少しげんなりした。そしてふと目を止めた。
「カイン」
「ん」
 カインは顔をあげない。
「カイン」
 ケイナはもう一度声をあげた。やっと彼はケイナに目を向けた。
「なに?」
 ケイナは書類の一点を指差した。
「R225って……0.02が普通じゃないの」
「え?」
 カインはびっくりしたような顔になった。そしてケイナの指した書類を覗き込んだ。
「0.03になってる」
 そうつぶやいて、ケイナの顔を見た。
「なんで知ってるんだ?」
 ケイナは「あ」というように口を開いて、視線を泳がせた。
「悪い……。社内文書も読んでしまっていたかも……」
 カインは呆れたようにケイナを見つめながら体を反らせると、椅子の背に身をもたせかけた。
「E668の規定値は?」
 カインが尋ねると、ケイナは口を引き結んだあと、ぽつりとつぶやいた。
「0.5」
「D808」
「……2.8」
「FT2BB2」
「0.855」
「P253」
「0.918」
「C808とY79の化合」
「R2Y2、2.88」
「No.62プロジェクトの公開予定日は?」
「……2ヶ月後……」
「No.102のプロジェクトチーフは?」
「655チームのステア・ハリソン……」
 カインはため息をつくと、かぶりを振ってこめかみを押さえた。
 ケイナはそんなカインの様子を見て、口を引き結んで目を伏せた。
 やがてカインは笑い始めた。
 小さな笑いが肩を震わせるようになり、そのうち可笑しくてたまらないというような笑いになった。
「冗談じゃないよ…… 1ヶ月だろ? きみの頭はコンピューターか?」
 カインはくすくす笑いながら言った。
「部外秘だぞ、こら」
 笑いながら書類を丸めてケイナの頭を軽く叩くと、ケイナは肩をすくめた。
「ごめん……。覚えてしまうつもりはなかったけど……」
「何か役目をと思ってたけど……これはさすがにまずいんじゃないかな……」
「別に誰にも言わないよ」
 ケイナがそう言うと、カインは息を吐いた。
「当たり前だ」
 そう答えてかぶりを振った。
「でも、だめ」
 今はリィにいるとはいえ、ケイナはカートの人間だ。
 彼と一緒に仕事ができれば、確かに効率はあがるかもしれない。でも、それはできないことだった。何より、ケイナにはきっとこんな仕事は合わない。あまりにも突出した能力は彼自身にも精神的な負担をかける。
 彼は、ここでの自分の役目が終わったきっとセレスと共に『ノマド』に戻る道を選ぶだろう。
 『ノマド』がぼくらの味方なら。
 ……味方でなかったら…… ケイナはいったいどうするのだろうか。
 カートに行くのだろうか。
「ケイナ……」
 カインが呼んだので、ケイナは彼に目を向けた。
「きみが戻ってきてからずいぶんたつのに……。昔のように友人として会話をしたことがなかったな」
 ケイナはそれを聞いて少し目を伏せた。
「元気になって戻って来てくれて嬉しいよ」
 ケイナは目を伏せたままだった。
「お帰り、ケイナ。……それを、言っていなかったね」
 ケイナはかすかに照れくさそうな笑みを浮かべた。
 彼の素直な感情が垣間見えたような気がした。
 時間は止まっていたかもしれないが、彼は少し変わったのかもしれない。
 耳から消えた、赤いピアス。
 彼が命の期限を越えて少しずつでも人間らしい感情を取り戻していっているのなら、これほど嬉しいことはない。
 かすかな笑みであっても、8年前のあの時期、彼のこの表情をどれほど望んだことだろう。
 ふと気づいて周囲に目を向けた。いつの間にかレストランの中は満員になっていた。その多くの目が自分たちに向けられていることにカインは気づいた。
 社長と一緒に談笑しているあの少年は誰。その目はそう言っていた。
 忘れていた。ケイナの風貌が人の目を惹くことを。
「ケイナ。さっさと食べて退散しようか」
 そうささやくと、ケイナも周囲に目を向けてうなずいた。