カインのオフィスに戻ると、彼はティと書類を前に話をしていた。
 ふたりが帰って来たことに気づいてカインが顔を向けるとティも振り返り、ケイナの姿を見てかすかに眉をひそめた。
「じゃあ、それで伝えます」
 彼女はそう言うと書類をとりあげそそくさとオフィスを出ていった。
 アシュアはティの後姿を怪訝な顔で見送った。いつものティなら「お帰りなさい」と笑顔で言うからだ。
「ごめん、忙しかったか?」
 カインを振り向いて言った。
「いや、一段落ついたところだ」
 カインの表情はいつもと一緒だ。
「どうだった?」
 彼がデスクから立ち上がってソファに向かったので、アシュアとケイナもそれに続いた。
「ケイナの体の具合は特に問題ないみたいだ。とりあえず食って体力つけろってさ」
「そう、良かった」
 アシュアの言葉にカインはほっとしたような顔でケイナを見た。
「ぼくのガードはきみにしてもらったほうがいいとクルーレは言っていたけれど、あちらからもビル内の警護にかなりの人数を出してくれるようだから…… 無理はしなくていいよ」
 ケイナはかすかにうなずいただけだった。カインはその顔を覗きこむように見た。
「『ノマド』に帰りたかったら…… それでもいいよ?」
「それは考えてない」
 即座にケイナが答えたので、カインはうなずいた。
「セレスがいるしな……」
 目を伏せてそうつぶやいて、再びケイナを見た。
「『ホライズン』で、会った? セレスに」
 アシュアはケイナの横顔を見た。ケイナは考え込むような顔をしている。
 カインはその表情を見て眉をひそめた。
「何かあったのか?」
「『グリーン・アイズ』」
 ケイナはそう言ってカインの顔を見た。カインの表情が変わった。
「やっぱり気づいてた?」
 ケイナが尋ねると、カインはかぶりを振ってソファにもたれこんだ。
「いや…… そう考えたこともあったけど…… 確信を持ってたわけじゃない」
「なんで『グリーン・アイズ』の娘だって分かるんだ?」
 アシュアがふたりの顔を交互に見て言った。
「カインを呼ぶから」
 ケイナは答えた。アシュアはまだ怪訝そうだ。
「『グリーン・アイズ』は死ぬまでずっとカインと声だけで交信し続けてたんだ。頭の中で」
 ケイナの言葉にカインは視線を落とした。あの時の記憶は思い出すたびに辛くなる。
「カインと会いたかったんだよ……」
 ケイナはつぶやいて目を伏せた。
「いや、でも……」
 アシュアは口を開きかけて視線を泳がせ、額に手を当てた。
「『起こし間違えた』? ブランが?」
 彼はケイナの顔を見た。
「じゃあ、本当のセレスはまだ眠ったままってことか?」
 ケイナは口を引き結んで何も言わなかった。
「どうなってんだ……」
 アシュアはため息をついた。
「もう一度ブランを呼び戻そうか?」
「それでも父親かよ」
 ケイナはじろりとアシュアを見た。
「ブランが死んじまうぞ」
 アシュアは口をつぐんだ。
 しばらく沈黙が続いたあと、アシュアが再び口を開いた。
「あのさ…… セレスが『グリーン・アイズ』の女の子の記憶になってて、何が一番問題になる?」
 その言葉にカインとケイナが同時に目を合わせて、同時に逸らせた。
「いや、あの、だって、とりあえず元気になっていってるんだし、『間違えた』ってことは、なにも元のセレスの記憶がなくなったってわけじゃないんだろ? だったら時間かければ記憶は戻るんじゃないか?」
 カインは大きく息を吐いて窓に目をやった。
「困ったな……」
 そうつぶやいて、アシュアの鈍感さにはつくづくあきれかえると心の中で付け足した。
 ケイナもたぶん分かっているのだろう。
 分かっているけれど、とても口に出せない。
『グリーン・アイズ・ケイナ』は目が覚める前からひたすらカインの名前を呼び続けた。目が覚めてからはカインの姿を追い求めた。
 カインの顔を自分の目に焼きつけるように眺め、肩を抱いて笑みを浮かべた。
 それが何を意味していたのか。
 カインが求められても決して応えてやることができない「愛情」だ。
 助けられなかったと悔やみ続けたカインの傷口に、セレスの姿を借りて彼女は入り込もうとしている。
 モニター越しに見たセレスは時々以前のセレスを思い出させる仕草をした。
 つまり、セレスは完全に眠っているわけではない。
 アシュアの言うように、もちろん身体的にはセレスは回復していくだろう。
 ケイナを呼びたくても体は『グリーン・アイズ・ケイナ』に支配されている。そのことをセレス自身が認識しているのだとしたら、これくらい残酷なことはない。
 彼女の中で自己崩壊が起こらないだろうか。
 全部憶測でしかなかったが、ちらりとケイナに目を向けると、彼も同じことを考えているらしいことがカインには分かった。口を引き結んで床を見つめているが、瞳の奥の動揺が隠せないでいる。勘のいいケイナなら、初めて会った彼女の姿を見て容易に察しがついただろう。
 あんなに名前を呼び合っていたのに。
 やっと目が覚めて一緒にいられるはずなのに。
「ブランは…… 『間違えて』なんかいないのかもしれない」
 ケイナがつぶやいたので、アシュアとカインは彼に目を向けた。
「どうして?」
 カインが尋ねると、ケイナは束の間ぎゅっと口を引き結んだ。
「ブランは『出口』だよ。リアとアシュアの娘だし……。全く見知らぬ他人よりセレスに近い立場で手を繋ぎやすかっただけだ」
 ケイナが何を言おうとしているのか、カインとアシュアには分からなかった。
 ふたりは視線を交し合って、再びケイナを見つめた。
 ケイナは目をしばたたかせた。
「これ以上言いたくない」
 彼はそう言うと立ち上がった。カインが見上げると、ケイナは彼の顔をしばらく見つめた。
「近いうちに、ユージーに会いに行くことってできる?」
 いきなりの問いにカインは戸惑ったようにケイナを見たあと、うなずいた。
「アポイントをとってみる。ぼくも彼には会いたいと思っているから」
 ケイナはそれを聞くと、踵を返して部屋を出て行った。

 その日の夜、『ノマド』のコミュニティから戻ってきたリアにアシュアは昼間のことを話した。
「『グリーン・アイズ』?」
 シャワーを浴びたあとの濡れた髪をタオルでこすりながら彼女は言った。
「あの何十年も前に消えた女の子の?」
「うん……」
 アシュアはうなずいた。
「そうか…… どおりで目が覚めたらいきなり女の子だなって思ったわ」
 リアはソファに座るアシュアの隣に腰掛けながらつぶやいた。
「ブランは起こし間違えたってケイナに言ったみたいなんだけど…… 『ノマド』で夢見たちは何か言ってなかった?」
 リアはそれを聞いて首をかしげた
「ううん、何も。ブランも何も言わなかったから……」
 リアは宙に視線を向けた。
「やっぱりあれかなあ……」
「あれって?」
 アシュアは目を細めた。
「うん、ドアーズさんが言ってたんだけど、セレスはケイナが仮死状態になってから、何時間も眠らないままでケイナの体を抱き続けてたみたいなのよ」
 彼女はアシュアの顔をちらりと見た。
「カインにもそれは話したみたいなんだけどね」
「それが何か関係あるのか?」
「つまり、その間セレスはどんどん冷たくなるケイナと『グリーン・アイズ』をずっと見ていたことになるらしいの」
 アシュアはぞっとした。
「いったいどれくらいの時間だったんだ?」
「あたしは聞いてないわ。でも、相当辛かっただろうって、ドアーズさんは言ってた。あたしもそう思う」
 すぐに助けに行ってやればよかったと思ったが、あのとき、あの状態で行って数時間で助けられたはずもなかった。アシュアはため息をついた。
「それでね、『ノマド』の夢見は亡くなってもしばらく気持ちが残ることがあるの」
 リアは言った。
「あたしは夢見の力がないから分からないんだけど、夢見たちはよく残った気持ちを見ることがあるらしいわ」
 アシュアはエリドの言葉を思い出した。エリドはトリの気持ちが残ってアシュアについていると言っていた。
「残った気持ちって、亡くなるときに考えてたことが一番強く出るらしいの。『グリーン・アイズ』って、カインとコンタクトとってたの?」
 アシュアは首をかしげた。
「カインはあんまりあのときのことを話したがらないんだ。でも、ずっとモニターを見ながら『グリーン・アイズ』に話しかけてたってちらっと言ってたかな」
 アシュアは視線を下に落とした。
「何があってもモニター越し。あいつはそれが一番悔しかったんだと思う」
「そっか……」
 リアは切なそうなアシュアの顔を見て、彼の手にそっと自分の手を重ね合わせた。
「『グリーン・アイズ』はきっとカインに会いたかったんだと思う。声だけじゃなくて彼の手を握ったり、顔を見たりしたかったんじゃないかな」
 アシュアはリアの顔を見た。
「セレスはきっとそれを受け取ってしまったのよ」
「残った気持ちはどうやったら消えるんだ?」
 アシュアは尋ねたが、リアはかぶりを振った。
「あたしには分からない。だって、人の中に入り込んだのって聞いたことないもの。夢見たちなら分かるかもしれないけど…… でも……」
「でも?」
 リアは口をかすかにゆがめて肩をすくめた。
「いいのかな。その子の気持ち、いらないから消しちゃうっていうの」
「セレスの体だぞ?」
「そうよね……。でも、カインに会いたくてたまらないんでしょ? しばらくの間でも一緒にいれば納得するのかもしれないじゃない?」
「うーん……」
 アシュアは唸った。カインとケイナが困ったような顔をしてお互いを見ていた理由がやっと分かったような気がした。
「カインは助けられなかったっていう負い目をずっと持ってるんだ。だからってセレスの姿をした『グリーン・アイズ』を受け止められるはずがないよ。セレスはセレスだ。ケイナがいるんだし……。あいつはケイナにもセレスにもすまないって気持ちを持ち続けてるんだぞ?」
 アシュアはため息をついた。
「みんなが辛いだけじゃねぇか……」
 リアはそれを聞いて黙って目を伏せた。

「もう8時か。今日はこのへんにするか」
 ヨクは顔をあげて言った。カインと6時くらいから仕事の打ち合わせを始めてすでに2時間がたっていた。
「腹が減った。メシはどうする?」
 お腹をさすりながら言うヨクに、カインは苦笑した。
「さっき、ティが運んできたサンドイッチをつまんだじゃないか」
「あれはメシじゃないよ。間食」
 お皿に盛られた小さなサンドイッチの3分の2は彼が食べたのではないだろうか。
 カインは呆れたように首を振りながら書類をまとめるとソファから立ち上がった。
「ちったあ、まともに食べる癖をつけたほうがいいぞ」
 その背にヨクの声が追いかけてきた。
 自分がほとんど食べたくせに……。よく言うよ。
 カインはちらりと彼のほうを見た。
「社員用のレストランはもうとっくに閉まってるよ」
 そう言ったあと、彼が足を痛そうに押さえたので、ヨクは目を細めた。
「まだ痛むのか?」
「昨日の今日だからね……。たまに痛む程度だけれど」
 カインは足をさすりながらデスクの椅子に座り、ティが入ってきたので視線をそちらに向けた。
「すみません、最後の報告書です。これは明日以降、見ていただければいいそうですので……」
「まだ帰ってなかったのか」
 ヨクが言うと、ティは曖昧に笑った。
「わたしもいろいろ仕事が残ってしまって」
「カインが心配なだけじゃないの?」
 ティはヨクを睨むとかすかに顔を赤らめた。
「ティ」
 カインは彼女が置いた報告書をとりあげながら言った。
「明日、クルーレにユージーへの面会を申し込んでみてくれないかな」
「カートに行くのか?」
 ヨクが聞きつけて目を剥いた。
「外出は気をつけないと……」
「ケイナも一緒だ」
 カインはヨクの言葉を遮って言った。それを聞いてティがかすかに眉をひそめたが、カインは気づかなかった。
「ユージーに直接連絡してみたけれど繋がらなかった。やっぱりまだクルーレを介さないとだめらしい」
 カインは書類から顔をあげるとヨクに目を向けた。
「……どう思う?」
 カインの言葉にヨクは首をかしげた。
「さあなあ……。とりあえずリィへの疑いは晴れたような気はしたけれど……」
「疑い?」
 ティが思わず口を挟んだ。
「クルーレさんがリィを疑っていたっていうんですか?」
「クルーレじゃなくて、カートとしてだろう。まあそれが普通だよ。状況的に疑われてもおかしくない」
 カインの言葉にティは戸惑った。
 カートがリィを疑っていた? クルーレはそんなそぶりは一度も見せなかった。
 いや、自分がそう思っていなかっただけか。
「でも、クルーレさんはいろいろ尽力してくださってるわ。リィは何も後ろめいたことはないでしょう?」
「何が言いたいの?」
 カインはティを見上げた。彼の鋭い目にティは思わず顔を伏せた。
「……いえ…… なんでもないです」
「まあ、ケイナをこっちに寄越したし、ユージーの復帰も宣言した。それはリィがカートの敵ではないと分かってのことなんだろうけれど、おれたちはずいぶん前から怪しまれていたんだというのはよく分かったよ」
 ヨクは手に持った書類を弄びながら言った。
「『ゼロ・ダリ』の買収計画を話したときから、こっちの表情や出方を相当探っていたんだろうな。ケイナがあんまりはっきり言うからひやっとした。あの子はちょっと…… 怖い子だね」
 彼の言葉にカインは苦笑した。
「あの場であんなふうに言うか、って感じだけど……。ただ、もうクルーレからは情報は出ないだろう。だからユージーに会ったほうがいいと思うんだ。ケイナはユージーとは兄弟なんだし、彼が会いたいって言ってるって言えばクルーレも断る理由が見つからないだろう。それに乗っかるよ」
「兄弟なんですか?」
 カインの言葉にティが声をあげていた。
「カート社長と?」
 カインは少しびっくりしたような顔でティを見た。
「そうだよ。血は繋がってないけど……。ケイナの姓はカートだ」
「そう…… そうですよね…… わたしったら……」
 ティはつぶやいた。
「だからクルーレさんは彼があんなふうに言っても怒らなかったのね」
「怒る理由がないよ。警戒はしただろうけど」
 カインはため息をついた。
「ユージー・カートは話してくれるかな」
 ヨクが言うとカインは小さくかぶりを振った。
「さあ…… どうかな……。カートの内紛だったら彼もリィを巻き込みたくはないだろう。でもプロジェクトが絡んでいて、こっちも命が狙われているんだったら、知っていることを教えてもらう必要はある」
「わたし……」
 ティがつぶやいたので、カインは彼女に目を向けた。
「わたし、ケイナにひどいこと言っちゃったかもしれないわ。最初にここに来たときに、クルーレさんにあの態度はひどいんじゃないのって怒ってしまったの」
 カインとヨクは思わず目を見合わせた。
「ケイナはそんなことをいちいち気にしないよ」
 カインは少し笑ってティに言った。
 ヨクの顔をちらりと見ると、彼は少し眉をつりあげてみせた。
 いろんな人間と接してきた彼のことだ。ケイナがどういう性格なのかもすでにそれとなく察していたのだろう。
「クルーレにユージーへの正規のアポイントを申し込んでください」
 カインの視線を感じてティはうなずいた。うまく言えるかどうか、すっかり自信をなくしていたが、カインの命令なら拒否はできない。
「クルーレがごねたらこっちに回して」
 カインは笑みを浮かべてティに言った。
 ティがオフィスを出て行くのを見送ったカインは、頬杖をついてため息をついた。
「後ろめたいことね……」
 彼はつぶやいた。
「リィは後ろめたいことだらけじゃないか……」
「カイン・リィが経営者であるんだから、そういうことはないと思っているんだろ」
 ヨクは笑って答えた。
「秘書としてはそれが一番だよ」
 カインは頬杖をついたまま、ヨクの顔をじろりと見た。
「そのうち、きみから教えてやりなさい。社長としてはそれが一番」
 まったく…… よく言うよ。秘書の教育はあんたの役目だろう。
 カインは顔をしかめた。